四連休を挟んで
二週間ぶりに
T中に出勤した。
他用で使われた形跡もなく、
部屋の空気が澱んでいたので
入室するなり換気したら
物々の発する臭いも一掃され
新鮮な軽い空気に
入れ替わってくれた。
南向きの部屋なので
グランド側の窓からは
日光が燦々と射し込み、
きのうは30℃まで
室温が上昇したので
窓を閉めて大型エアコンを
久しぶりに稼働させた。
2週間分の
生徒に関する動静の資料が
職員室デスク内に
蓄積されていたので、
それに目を通し
ファイリングするのに
小半時要した。
それが済むと、
連休中に買い集めてきた
箱庭療法用の遊具を
開封して分類作業をした。
予約の生徒が来るまでは
これまでのカウンセリング状況と
問題・症状の経過なぞに目を通し、
“治療戦略”を練る。
スクール・カウンセラーとは
「学校相談者」だが、
その実、サイコ・セラピスト
(心理療法家)ということは、
案外に世間には認識されていない。
なので、
来談されるクライエントたちは、
相談に来ているうちに
何となく問題が解決したり
症状が治ってしまう…
という感じなのだろう(笑)。
もっとも、
それでいいのだが…(笑)。
数年前に
ギター弟子だった
ガッちゃんから頂いた
備前のぐい呑みを
床に落っことしてしまい
粉々になってしまったので、
立体パスルのように
接着剤で修復した。
生漆による
金継ぎだったら
また酒器としても使えたろうが、
なにせ瞬間接着剤で直したので、
口を付けるのが
憚られるから、
もっぱら鑑賞用として
飾っていた。
きのうは、
ふと思いついて…
「そうだ!
手習い用の水盥(すいう)として
第二の人生を活かしてやろう」
と思いついた。
茶道には
「一器四用」という
使い回しを良しとする
習わしがある。
茶聖の利休は
「目利き」「見立て」の
天才でもあった。
もともと
高麗の雑器だった茶碗を
侘茶に採り入れたり、
農家の納屋の設えから
“にじり口”を考案したり…と、
基本となる形を独創したのである。
いくつもある
オリジナリティの中でも、
その最たるものは、
旅の途中で青竹の一節に
花窓を切り付けて仕上げた
「青竹一重切」の花入である。
凡人は見向きもしない、
目にも留めない
ただの竹を
茶聖の手に掛ると
それは見事な侘茶の道具に
昇華するのである。
これを、
美の天才の
「見立て」と言う。
BS録画で
フェリーニ監督の
54年作品の『道』を観てみた。
学生の頃、
一度、視かけたが
途中で退屈になって
やめてしまった記憶がある。
若者には
やはり理解し難い
味わい難い
地味な作品である。
劇中に流れる
ジェルソミーナのテーマ曲は、
昭和の頃には、
けっこう有名であったが、
物語は辛気臭く、
ラストシーンも現代では
ややベタな気もしないでもない。
でも、
決して二枚目ではない
アンソニー・クイーンの
独特の粗野な風貌と存在感が
作品に重みを与えてはいる。
大道芸人の悲哀感が、
古賀政男の描いた
『サーカスの唄』を
彷彿させてくれた。
オーヴン任せの
『ラグー・ド・ブッフ』を
創ろうと思ったら
程よい牛の塊がなく、
仕方なく、豚ヒレで代用した。
1時間タイマーの
レンジを4回も回して火入れし、
一晩、放置して味を浸み込ませた。
煮汁を煮詰めて
ブールモンテ(バター繋ぎ)して
ソースとした。
蒸した
バターナッツ・スクワッシュ
(瓢箪南瓜)を
セルクルで片抜きし、
マスカットを飾って
ガルニチュール(添え合わせ)
にした。
ナイフを入れると
ホロホロと実が崩れるように
柔らかだったので、
カミさんが
「おサカナみたいだねぇ…」
と感心していた(笑)。
二週間ぶりに
T中に出勤した。
他用で使われた形跡もなく、
部屋の空気が澱んでいたので
入室するなり換気したら
物々の発する臭いも一掃され
新鮮な軽い空気に
入れ替わってくれた。
南向きの部屋なので
グランド側の窓からは
日光が燦々と射し込み、
きのうは30℃まで
室温が上昇したので
窓を閉めて大型エアコンを
久しぶりに稼働させた。
2週間分の
生徒に関する動静の資料が
職員室デスク内に
蓄積されていたので、
それに目を通し
ファイリングするのに
小半時要した。
それが済むと、
連休中に買い集めてきた
箱庭療法用の遊具を
開封して分類作業をした。
予約の生徒が来るまでは
これまでのカウンセリング状況と
問題・症状の経過なぞに目を通し、
“治療戦略”を練る。
スクール・カウンセラーとは
「学校相談者」だが、
その実、サイコ・セラピスト
(心理療法家)ということは、
案外に世間には認識されていない。
なので、
来談されるクライエントたちは、
相談に来ているうちに
何となく問題が解決したり
症状が治ってしまう…
という感じなのだろう(笑)。
もっとも、
それでいいのだが…(笑)。
数年前に
ギター弟子だった
ガッちゃんから頂いた
備前のぐい呑みを
床に落っことしてしまい
粉々になってしまったので、
立体パスルのように
接着剤で修復した。
生漆による
金継ぎだったら
また酒器としても使えたろうが、
なにせ瞬間接着剤で直したので、
口を付けるのが
憚られるから、
もっぱら鑑賞用として
飾っていた。
きのうは、
ふと思いついて…
「そうだ!
手習い用の水盥(すいう)として
第二の人生を活かしてやろう」
と思いついた。
茶道には
「一器四用」という
使い回しを良しとする
習わしがある。
茶聖の利休は
「目利き」「見立て」の
天才でもあった。
もともと
高麗の雑器だった茶碗を
侘茶に採り入れたり、
農家の納屋の設えから
“にじり口”を考案したり…と、
基本となる形を独創したのである。
いくつもある
オリジナリティの中でも、
その最たるものは、
旅の途中で青竹の一節に
花窓を切り付けて仕上げた
「青竹一重切」の花入である。
凡人は見向きもしない、
目にも留めない
ただの竹を
茶聖の手に掛ると
それは見事な侘茶の道具に
昇華するのである。
これを、
美の天才の
「見立て」と言う。
BS録画で
フェリーニ監督の
54年作品の『道』を観てみた。
学生の頃、
一度、視かけたが
途中で退屈になって
やめてしまった記憶がある。
若者には
やはり理解し難い
味わい難い
地味な作品である。
劇中に流れる
ジェルソミーナのテーマ曲は、
昭和の頃には、
けっこう有名であったが、
物語は辛気臭く、
ラストシーンも現代では
ややベタな気もしないでもない。
でも、
決して二枚目ではない
アンソニー・クイーンの
独特の粗野な風貌と存在感が
作品に重みを与えてはいる。
大道芸人の悲哀感が、
古賀政男の描いた
『サーカスの唄』を
彷彿させてくれた。
オーヴン任せの
『ラグー・ド・ブッフ』を
創ろうと思ったら
程よい牛の塊がなく、
仕方なく、豚ヒレで代用した。
1時間タイマーの
レンジを4回も回して火入れし、
一晩、放置して味を浸み込ませた。
煮汁を煮詰めて
ブールモンテ(バター繋ぎ)して
ソースとした。
蒸した
バターナッツ・スクワッシュ
(瓢箪南瓜)を
セルクルで片抜きし、
マスカットを飾って
ガルニチュール(添え合わせ)
にした。
ナイフを入れると
ホロホロと実が崩れるように
柔らかだったので、
カミさんが
「おサカナみたいだねぇ…」
と感心していた(笑)。
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