『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

鮎のクネル失敗…

2021-09-02 06:30:00 | 食物・飲物
オホーツク高気圧の
張り出しのせいで、
冷気が入り込んで
急に気温が低下した。

朝方は20℃を下回り、
半袖短パンでは肌寒く、
長袖ズボンに着替えた。

いよいよ
秋へと季節は
移り変わるようだ。





庭の一角が茶色くなって
異変に気付いたが、
実のついた柿の葉が
上から枯れてきた。

根本近くは
斑入りになっていて、
なんかの病変のようである。

となりにあった
イチジクも大木に生長し、
味良い実が採れるようになったら
カミキリの虫害にあって
枯れてしまった。

今度は、柿木まで
ダメになりそうで、
ガッカリである。

なんだか、
曽呂利新左エ門の
道化噺を思い出した。

秀吉が愛でていた
庭の松が枯れて、
それに怒って御庭番を
打ち首にしようとした時に
それを諫めた歌を詠んだ。

 太閤の秘蔵の松が
  枯れにけり
   千代の齢を
    君に譲りて

それに気を良くした
秀吉が打ち首を
取り下げたという。





買い物帰りに、
ツタヤ・ブラウジングをしたら
初めて見る騎士物のコミックが
面白そうだったので
2冊借りてきた。

これも
最近はやりの
「異界物」のジャンルにあった。






どういうわけか、
西洋のお城の内部や
当時の城内での生活が
描かれているのを見ると、
なんだか懐かしいような気分になり
魅かれるのである。

もしかしたら、
はるか中世の頃、
城暮らしをしていたのかもしれない(笑)。

あるいは、
西洋古楽器が似つかわしい
雰囲気があるからなのだろうか。

作中でも
シターンという
古楽器が登場した。






スーパーに
珍しく養殖アユがあり、
一尾180円という廉価だったので
クネルにしようと買ってきた。

いちどグリルで
カリカリの焼き魚にして、
それからフードプロセッサーで
玉子・バター・生クリーム・
ハーブ類と撹拌して
ラップで成型する。

オーヴンを70℃に設定し、
土鍋で30分ほど
ゆっくり火入れした。








ピラフの上に
ソーセージ状のものが
乗っかるはずだったが、
ラップを切ってみたら
ドロリと流れて…

ϵ( ̄△ ̄)϶ アラー

・・・であった。

失敗の原因を考えたら、
小麦粉を入れるのを忘れて
それで固まらなかったようだった。

それでも、
ユルユルの鮎風味の
茶碗蒸しみたいだった(笑)。

【失敗は成功の母】
なので、
次回に再チャレンジである。



*********


『魂理学試論』3

「制限/縛り/ルール」


「なぜ寿命があるのか…」
 というシンプルな命題に、簡単に答えると、その方がオモシロイからである。

 それは、心理学の達成動機ということで説明できる。
 アトキンソンという学者が「輪投げ」でそれを証明した。
 それは、子どもたちを相手に、100%入る距離と100%入らない距離では、「やる気」が起こらないという至極当たり前の実験である。
 子どもに限らず、人は50%の確率の時に、もっとも「やる気」が起こる。
 すなわち、そのゲームをオモシロイと感じるのである。

 これは、テニスというゲームで、ネットがあるのも、枠があるのも、同じことで、あえてそこに制限をもうけてルール化し、面白みを持たせているのである。

 広いグランドで、ふたりで何の障害もなく球を打ちあったって、たいして面白くもない(笑)。

 ゴルフも同様で、360度どこに打ってもよくって、ホールが100ケもあったらツマラナイに違いない。
 OBやバンカーという枠や障害物があるからゲームが成立するのである。

 それらの「制限/縛り/ルール」は、ゲームを面白くさせる条件なのである。

 それゆえに、寿命や病や災害や老化…といった有難くないものでも、それが人生というゲームの「制限/縛り/ルール」と解釈すれば、オモシロクするための設定なのである。

 じゃ、誰が設定したのか…。
 神様か、魂か、全てを存在せしめた「空」か、いずれかわからない。

 ひょっとしたら、「生」と「死」という2つの現象に「たましい」が在る確率は50%ずつという設定なのかもしれない。
 寿命がなく「不老不死」だったら、無期徒刑囚の方が死刑囚よりも無気力になるというようになるのだろう。
 あるいは、肉体的障害や病苦から免れることができないとしたら、まさしく「生き地獄」化する。
 人間、勝手なもので「生き続けていたら、きっと死にたくなるのだろう」そして、逆も真なりで、あの世で無苦痛状態でいたら、生身のカラダを得て苦労してもいいから「生きてみたい」と思うのかもれない(笑)。




 中国の古代皇帝のように、人は「不老不死」を夢見てきた。
 
 釈尊は人間の「四苦」として「生病老死」を説いた。

 最終的には、死んでしまうのに、どうして生まれる必要があるのか…という、子どもじみた疑問がある。
 しかも、その途中で、病にかかり、老いてゆく。

 もっとも、楽しみや喜びも人生にはあるので、それのみだったらどんなにいいか…と、誰しも思う。

 しかし、どうやら「苦楽」や「悲喜」は「明暗」同様にセットになっているようなのである。

 これらの無い状態は「無」の状態である。
 宇宙の存在以前の「絶対無」ともなると、文字通り「時間」も「空間」も「すべての存在」が無いと想像してみるといい。
 
 ところが、その「絶対無」から宇宙が誕生したのだから、「無」とすると矛盾があるので、これを仏教では「空」とした。

 物理学が説明する処は、「時間」「空間」「物質」はないが「真空のエネルギー」は有るとする。

 エネルギーは物質との可逆性があるのは、アインシュタインの「E=mc²」という式に示されている。

 とすると、「時間」「空間」「物質」はこの「真空のエネルギー」が姿を変えて(相転移)、生じてきたということである。

 さて、いったん「時間」「空間」「物質」が誕生すると、そこには自ずから「制限」や「法則性」が発生する。

 これは、「閉じた系」の性質と言ってもいいだろう。

 宇宙創造から人間創造が38億年の時間を経て為された。

 この宇宙も10の33乗年後に崩壊すると計算されているので、そこにいる人間にも寿命があって然るべきである。



「何も始まらない/何も終わらない」という「無変化」な状態を想像すると、それは何かを生み出す「空」でさえなく、まさしく「無」と言っていいだろう。

「変化」が起こるのには、舞台(空間)と動き(時間)と主人公(物質)が必要とされる。

 そして、それを観察するものが意識なのだろう。
 
【この世は神の見ている夢である】
 という箴言があるが、あるいは、「たましい」が見ているのかもしれない。

 量子力学では、観察者が存在しないと、確率的に存在している量子が収束して現象は起こらないという。








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