読まないつもりだったのに きのう夜中にGEOで「白夜行」を買ってしまった。その日はページを開かないつもりだったのに、文庫で860ページ読んでしまった。作品の構成はしっかりしていた。が、思ったとおり読後感はよくなかった。とりとめなく荒涼とした気分が残るのみ。白夜行とは光も影もない地平を彷徨うという意味なのか。
読書のあと どんな形であってもカタルシスや発見があれば 読んだ甲斐はある。ただ時間潰しなら読まない方がいい。潰していい時間などないからだ。
雪穂はファムファタルでさえなく化生のものにしか見えない。人間ではない。自分のエゴを満たし目的を達成するために ひとを傷つけたり 殺したり 運命を思うように操ったりすることをなんとも思わない。亮司さえ一顧だにしないように見える。
テレビの白夜行でふたりのどうしようもない生をほのかに耀かせているのは、お互いにお互いを思う気持ちがあるからだ。雪穂は亮司を思い 亮司は雪穂を思う そのことが 漆黒の闇に蠢くふたりを清らかにさえ見せる。その光と闇の拮抗に惹かれ思わず応援したくなる。
主役ふたりの心象表現の全くない小説から この脚本を掬い上げた脚本家の力量はなかなかのものだと思う。小説とテレビのドラマとは全く別のものである。再話、語り変えといってもいい。暗黒小説を純愛ドラマに衣替えするにあたって 脚本家はいくつかの修正を余儀なくされた。少女の雪穂がすでに唐沢礼子の養女にもぐりこむ算段」をしていたとあらば どう取り繕うと 雪穂は末怖ろしい悪の申し子になってしまう。そこで孤児院をあいだに入れ 雪穂がセクシュアルな虐待を受けていたことにする。また、実母を事故に見せかけて殺害したのを母娘の心中に変え、一旦は自分の命も投げ出す。
しかしこれらの修正は 大きなものがたりの流れに齟齬をきたしたのではないか。少女の雪穂と高校生以降の雪穂は わたしには別の人格に見えるのだ。今後の展開でどう収めるかによっても評価は異なってくるけれど。
場合によって 再話は 原話を凌駕することもあるだろう。テキストを変えるだけではない 表現...ということばは使いたくないが どこに視点を定めるかスポットライトを当てるかで ものがたりは まったく違う様相を見せる。
そのまま隼別皇子と女鳥媛の物語を読んだ。これも美しい女人に出あい運命が変わってしまった男のお話。なにかしたい。エリザベートは?どこにいってしまったのだろう。
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