遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 





    ないしょのハンドルネームはwhiterose .....先生とわたしだけの秘密でした。白い薔薇が似合う方でした。きらきら光る美しいものがお好きで 先生からいただいたのはクリスタルの乳母車や赤いラインストーンが煌くりんごのものいれ ちいちゃなガラスのクリスマスツリー オールドローズのレターセット.....シャネルの深紅のルージュ......わたしは何を差し上げただろう.....バラのもようの美しいシルクのストール、オパール加工の臙脂のスカーフ でもたいていはお花だった。銀座の花屋でつくった花束をとても喜んでくださった。それから旅先から地魚を送るととても喜んでくださって、お別れしたあとも、旅先で幾度宅急便の送付状を書こうとしたことだろう。

高岡のホテルで
    
    PAULでお茶して 美味しいパンもいただいて だけど別れがたくてわたしたちは回廊のまわりをお店を見てまわった。先生の行きつけの靴屋でわたしは二足靴を買った。買ったまま長いことみつからなくて ひさしぶりに履いたのがたぶん7/1 エナメルの円形のモチーフをつないだイタリヤ製の靴。いつも履いているのでずたずたになってしまったけれど 今一番よく履くサマーブーツもそのときのものだった。

    2008年1月6日 今思えば運命と思える日 わたしたちはメトロポリタンホテルで お茶を飲み テナントを見て歩いた。先生にブラウスを見立ててさしあげ わたしはクリスタルを連ねたボールのペンダントが気に入って手に入れ それから先生はデジタルカメラを入れるためのちいさなハンドバックも買った。NPOのことを相談するため いや誰かを紹介するためだったかしら。ともかく 最後のしあわせな語らいの日だった。

    でも ほんとうは 4年前の4/23 語り手たちの会の総会の日 「30周年の企画をどうしても進めたいから応援にきて」と先生に頼まれ 出かけていった日が終わりのはじまりだったのだ。世話人のひとり上級セミナーの友人から懇願されて 語り手たちの会のHPを引き受けたことから わたしは会の内部に入り、さまざまなことを知ることになった。

    一般の会員のみなさまのために役立つことをしたいと思った。語りをひとりで学ぶのは決して楽なことではない。ほんとうは発声よりなにより身体....開くからだ 脱力できるからだ 感覚と身体の統合が必要と感じていたから 30周年企画のひとつとして ワークショップを提案した。最初はだれも賛成してくれなかったけれど 先生が「ルカさんは語り手たちの会に足りないことを提案してくれたのよ」と助け舟をだしてくださって ワークショップが開かれることになった。

    2007年8月28日、ワークショップは開かれた。劇団昴の演出家えみこさん ボイストレーナーのやまもとさんは 当時のわたしの知るもっともよいナビゲーターで ワークショップは定員いっぱいだったし 熱い支持の声もいただいた”語りの世界”への4度の執筆をのぞけばわたしが語り手たちの会に唯一残し得たものである。

 ワークショップ8/28

    けれども そのときすでに亀裂ははじまっており わたしは友人の忍さんにすがるようにして疲れきって家に帰ったのだった。組織とはむつかしいものである。だが 語り手たちの会はNPO法人化に向けて走りはじめており 実際 わたしはその年の暮れから翌年の春まで 走り回っていたのである。何人のひとにあたまをさげたことだろう。.....もっと会をいいかたちにできるという希望があった。自分のことばで語る語り....をひろめるために全国の会員のためになにかしたいと望んだ。だが なにかとても怖くて悲壮感があった 夜遅く品川に走り赤羽に走った。

    話はすこし 遡る。2007年2月18日 さいたま市で”もうすぐ春のコンサート”をひらいた。客演は語りの櫻井先生とビウエラの水戸先生。マチネとソワレはまったく別のプログラムにした。これは冒険である。なぜなら 回を重ねるほうができはよくなる。しかし、わたしはできるだけ多くのもの さまざまなチャレンジをあとからくるひとたちに手渡したかった。

    語ったのは 雪女 両腕に花をいっぱい(秩父事件から) 空と海と大地の話 立っている木(パーソナルストーリー)....それから.....

    終演後 先生はとても喜んでくださった。「.....わたしはもう出演はしないわ。あなたは一人前になった。もうひとりでやっていける。来年 近江楽堂でリサイタルをしなさい。わたしがプロデュースしてあげる。」「......ほんとうにびっくりしてしまった。雪女をあんなふうに語れるなんて あんなふうに静かに語って聴く人に感動を呼び起こせるなんて思ってもみなかった」.......わたしは天にも昇る気持ちだった。敬愛する先生に認められたのだもの。

    だが 翌朝 絶望が待っていた。先生のお気持ちのなかでいったいなにが起きたのかわからなかった。HPに記されていたのは全否定。こころを落ち着かせてTEL。一旦は納得したけれど 3月27日の理事会で事件は起こった。HPを任されていたわたしはみなさんの前でHPについてプレゼンする手はずでレジュメも用意していた。わたしはブログタイプのHP(企業のHPはほとんどこれである)を勧めるつもりで そのことをお話してあった。

    ところが すでに HPのことは すべて 決まっていたのである。いったいなにが起きたのかわからなかった。わたしはただ涙を流しながら二時間 席に座っていた。

    それでも、それでも わたしは会にとどまり 役目を続けたのである。おひとよしというかばかというか今思えばよくわからない。それだけ 好きだったのだと思う。そして 乗りかけた船だった。変えることができるかもしれなかった。緑がかった白いバラの可憐な花束を持ってでかけた。メトロポリタンホテルでわたしは先生を問い詰めた。

    「弟子というのは師を追ってゆくものです。わたしは語りを教えていただいた。たとえできなくても 先生にどこか一部でも追いつきたい、追いつきたいと背中を追って今日まできました。先生 どうか もっともっと前を歩いてください。歩きつづけてください。わたしはいつまでも どこまでも あとをついてゆきますから。もし 先生がみんなを伸ばしたいとほんとうに望まれるなら わたしはお手伝いします。でも二度わたしは傷つきました。三度目で終わりにします。」先生はうなづいてくださった。


    近江楽堂のコンサートのことがあった。櫻井先生のプロデュース それは滅多にないことのようだった。NPO法人としての活動で 教育担当の理事として あたらしい風を呼び起こせるかもしれないとも思った。要するにわたしに野心がなかったわけでもなかったのである。「この場をつかってあなたがやりたいことができるじゃない」 先生は言われた。

    企画書をつくった。えみこさんややまもとさんやウィムさんやそのほか考えられる最良の講師に交渉し 内部の講師は最小にし むしろ 会のなかのこれはという語り手のものがたりを聴いていただくことと 感覚を広げるための、自分にきづくためのさまざまなエクササイズを重視した。2月の終わりには「基礎講座」に30名近くの応募があった。だが、1月以来 流れが変わりはじめていた。うちうちの抵抗があった。わたしには理想があった、目指すものが見えていたが、あの頃の語り手たちの会にはまだ早かったのかもしれない。それとも単なるアヤのようなものだったのかもしれない。そしてそれが起爆剤だった。

    コンサートの準備は遅々として進まなかった。忙しいだけでなく怖かった。そして3月 予感のように ことは起こった、信じられないことが。........コンサート一週間前 わたしはプログラムを書き換え ものがたりも書き直した。悪夢のなかでひとすじの光にすがるように。3/23のコンサートが終わったあと 理事を退任し退会した。先生は会を辞めても 手を組んでやっていきましょう。と公開の場でエールをくださったが わたしは蹴ってしまった。痛烈なことばでもって蹴り飛ばしたと言ってもいいかもしれない。「2年、あるいは10年は赦さない」とても怒っていらっしゃるという風のうわさを聞いた。

    あの喪失感をどういっていいのかわからない。父を亡くしたときよりつらかった。.....わたしは逃げたのだと今は思っている。わたしは先生がだいすきだった。別れたあともすきだった。これは恋とおなじでどうにもしかたがない、まわりがどういおうとどうしようもないのである。おこがましいかもしれないけれど わたしは先生を守りたかった、だが自由にもなりたかった。方向性が違いはじめていた....いやはじめから違っていたことがしだいに明瞭になっていた、そしてわたしはとても疲れていた。

    HPはときどきのぞいて お元気なのを確認していた。 コンサート「桜会..さくらえ」をひらこうと企画したのは 昨年10月 だが夫の入院と闘病で宙に浮いていたのを日の目を見せたいと思ったのは ”染殿の后”をどうしても語りたかったからである。たぶん 先生の病を知ったころ.....

    今思えば わたしにとって 染殿の后 は先生そのものだった。......先生は語りに魅せられた方だったし いつもいつまでも輝いていたいと望まれて 輝きつづけていらした。わたしも先生に手をとっていただき 語りに魅せられ とりつかれたもののひとりである。わたしはお訣れを予感していたのだと思う。


    先生は芸術としての語りに最後までこだわられた。それには語りを社会的に認められるものにおしあげたいというお気持ちがあったのだと思う。そのために先生は 豊富な人脈をとおして たのしみながらも語りのためにできることはすべてなさったと思う。

    ”語りの世界”に書かせていただいた記事は埋め草的なものが多い。デンマークの語り手ベリットさん(2006.4.12 明日館)の特集のときも池田香代子さんの原稿遅れのため急遽頼まれ書いた。唯一お願いして書かせていただいたのが 祝祭年間30周年記念事業のひとつ琵琶奏者鶴城さんのことだった。実は鶴城さんを先生に紹介したのはわたしだった。

    それは鶴城さんの考えに響くものがあったからである。わたしは語りは魂鎮め 魂振りだと思っている。魂鎮めとは語る口のないひとの代わりに語って想いを鎮めることであり 同時にものがたりのカタルシス(浄化作用)によって語るひと 聴くひとの内なる気持ちを鎮めること。魂振りとは魂を振るわせて輝かせること。うちなる魂からいずることたまで共鳴 共振させること。すなわち本来の”癒し”だと思っている。おおいなる愛である。

    だから 芸術 としての語り には若干の抵抗があった。けれども芸術のおおもとは歌でも絵でも踊りでも東洋でも西洋でも、神にささげられたものだから それをひとびとが享受することは神の想いを受け止めることでもあるのだろう。先生が子どもたちに語るまなざしは愛そのものだった。もういちど 神田の古びたカフェで 過ぎ行く時を忘れて 語り合うことができたなら.....ほんとうに 先生 ほんとうに.....意見があうこともたくさんあっただろうに......笑いあうことも......先生はわたしをほんとうにゆるしてくださっていたのだろうか....あるときは仙女 あるときは気まぐれな妖精のようだった先生....ほんとうはどう思っていらしたのだろうか.....

    4月22日 慶応病院にお見舞いにいったとき「これからは会のことはほかの方におまかせなさって 語りに専念なさって語りつづけてください もっと聴かせてください」とお話したとき 「わたしにはシェアすることが足りなかったのね」とおっしゃった。そう....わたしも もっともっと わかちあって こころも 時間も ものがたりも 技術も なにもかも 喜びも 悲しみも わかちあって 生きたいと思います。 時がわかつそのときまで。 先生におしえていただいたことも そうでないことも惜しみなくつたえてゆきます。それが先生の生きた証を伝えることだから.....


    会うことができなくとも 東京の空の下にいらっしゃる たずねてゆけば会うことができる そうでなくてもどこかで微笑んでいらっしゃる 思えばそれだけでもしあわせなことだった。もうどこにもいらっしゃらない....世界はすこし昏く寂しくなった。先生、先生 いつかまた会えますね。そのときはまた微笑ってくださるでしょうか。

 7年前....


    

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )