ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

辻井伸行カーネギーコンサート in 2023

2023年01月19日 | 音楽とわたし
辻井伸行さんの演奏を聴きに行ってきた。
彼のカーネギーでのコンサートに行くのはこれが2度目。
今夜のプログラムは、ベートーヴェンのムーンライトソナタから始まって、リストのコンソレーション第二番、ピアノの調律&休憩を挟んでラベルの比較的小曲を三つ、そして最後はニコライ・カプースティンの八つの演奏会用エチュードだった。
Nikolai Kapustin - Eight Concert Etudes, Op 40

そしてもちろんこの夜も、怒涛のアンコールに応えて3曲演奏してくれたのだが、その最後にリストのラ・カンパネラを弾き始めた彼に、いやもう今それを弾くか?!という幸せに満ち満ちたため息があちこちから聞こえきた。

「今日の演奏曲の中で辻井氏自身が一番気に入ってる曲はなんだと思う?」と夫。
「そりゃ最後のカプースティンでしょうよ。あなただってそうだったでしょ?」とわたし。
「今夜の会場の、一体何割が日本人だったんだろうね」
「半分ではないにしろ、かなりいたね」

彼が盲目であること、なのにあんなふうにピアノが弾けること、それを見聞きしたくて来た人。
もうそんなことはとうの昔にどうでもよくなってて、ただただ彼のピアノが聴きたくて来た人。
ピアノ弾きのわたしは、彼の演奏を見聞きしている間、自分がもし全く目が見えなかったらと時々考える。
もちろん彼は、そんなわたしの経験や常識などとは違う世界でピアノを弾いているのだから、比べること自体が馬鹿げている。

ピアノを弾くという作業はまず、厳然たる楽譜を読むことから始まる。
まずは音符と指番号に従いながら音に出してみる。
楽譜を隅々まで読んで読んで読み込んで、そこから見えてくる風景や伝わってくる感情を、作曲者に寄り添ったり自分なりのスタイルにすり替えたりしながら、じりじりとした焦燥感と共に曲作りを進めていく。
盲目の彼が曲を自分のものにするまでの過程は、インタビューや本などで知ることができるのだが、それでもやっぱり、彼にしか見えない、彼にしかわからない、言葉では説明できないプロセスがあるんじゃないかと思う。

3年前よりも彼のテクニックは進化していた。
細かな音の粒がキラキラと降り注ぎ、やわらかな響きや重厚な響きのベールがふわりふわりと現れては消えていく。
ゾッとするほどの静謐さ、深みのある極弱、高速なのに一音たりとも欠けることのない連打、バランスが整った和音の響き。
本当に、本当に素晴らしい演奏なのだけど、この夜わたしは聞き惚れながら、最後の曲が終わった頃にはすっかり疲れてしまった。
なぜだろうと帰りの車の中でずっと考えて、多分それは彼が、今の彼が出来得ることを最大限に聴かせられるプログラムを組んだからと思った。
贅沢言ってら〜と、自分でも呆れるのだけど。

満席とは聞いていたが本当にぎゅうぎゅうで、マスクをつけている人はあまり見かけなかった。



休憩時間の調律。

ラ・カンパネラを弾いた後、もう一度カーテンコールに応えて出てきてくれて、けれどももう弾かないからねとピアノの蓋を閉めてみんなを笑わせ、スタンディングオベーションで讃え続ける聴衆にバイバイと手を振って、扉の奥に消えていった。
ほんと、優しい人だ。

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雨のち曇りのち晴れ

2022年10月31日 | 音楽とわたし
昨日やった大人の生徒だけのリハーサルで、「僕は舞台の上で弾くのなんか絶対に無理だ」と言って発表会には出ないことにしていた生徒さんが、みんなの前でよく弾けて、それでみんなからもったいないよ〜と散々言われて、じゃあ連弾曲だけなら、と勇気を出して参加することになりました。
人前で、それも100人近くの大勢の人たちの前で弾くのは、実際大変なことです。
ましてや初体験ならばなおのこと、経験が無いので恐怖感はうなぎのぼり。
生徒さんの中に、緊張が高まってくると指全体がブルブルと震え始める人が二人います。
実はわたしも、50歳を過ぎたあたりから、演奏の最中に指や足が震えるようになりました。
それまではいくら緊張してもそんなことは無かったのに、初めてその震えを経験した時はびっくりして、舞台の上で止まれ!止まれ!と、心の中で叫び続けていました。
それからというもの、人前で弾くと必ず震えるようになり、ああ、これは新たなわたし流の緊張の表れなんだと、とりあえず納得するしかしようがなくなってしまいました。
ピアノ弾き専門、そこまで贅沢言わずに楽器の演奏家専門のセラピストさん、なんていらっしゃるのかな。
もしいらっしゃったら相談したいものです。
その生徒さんたちにリハーサル後にお話ししました。
わたしも弾いている途中に指が震え始めて困ったんだけども、どんなにいろいろ試しても止まらないので、もう諦めて震えるっていうことも全部ひっくるめてこれがわたしだと思うことにした、と。
そうすると震えてはいるんだけど、震えていない時と同じように弾けるようになった。
だから震えても焦ったり止めようとしたりせずに、ありのままで、このままでいいんだと納得してあげて、音作りやフレーズの流れや表現に集中することができるよう、この最後の1週間を頑張ってみてとお願いしました。
うまくいくといいなあ。

さて、夫がようやく陰性反応を得ることができました。
発症して4日後からはほぼ普通の状態に戻っていたのに、検査結果だけがいつまで経っても陽性だったので、さぞイライラしただろうと思います。
今日から毎週日曜日に、マンハッタンのスタジオで、オーケストラの練習が始まりました。
毎年のこととはいえ、オーケストラのメンバーを集めるのはとても大変で、音楽協会のエグゼクティブディレクターとメイン指揮者の二人が大奮闘してくれて、ようやく練習開始に漕ぎ着けたのでした。
今日の曲はバルトークのRumanian Folk DancesとHolstのSt. Paul Suiteの2曲。
どちらもうちのオーケストラのサイズと性格に合っていてすごく面白い曲でした。

マンハッタンのビルは空と相性がいいので、ついつい撮りたくなってしまいます。

ABCニュース局の放送中。


オーケストラの練習前に、めっちゃ遠くからレッスンを受けに来てくれている生徒さんを、同タジオ内の練習室を借りて教えることができたのも嬉しかったです。
というわけで、今日は1時から5時までスタジオにこもりっきりで、その間待っていてくれた夫が「このまま帰るか、それとも食べて帰るか」と聞いてきたので、せっかく久しぶりに外に出たので食事をしてから帰ることにしました。

夫の待つレストランまで行く途中で撮ったメトロポリタン劇場。

帰りの車の中から撮ったメトロポリタン劇場。

歴史博物館もいい感じ。


やっといつもと同じに戻れた感じがして、抱えていた心配が小さなため息と一緒に唇からもれてきました。
これから日本に向かって飛行機に乗る20日の朝まで、とにかくCOVIDに罹らないよう祈り続けるつもりです。
2年と8ヶ月ぶりの日本。
いろいろと準備を整えてはいるのですが、旅行を決めた際に一番難しいのが、家猫たちの世話を頼むことです。
今回は11月20日から12月4日までの15日間。
感謝祭後の1週間は、友人がうちに泊まり込んで世話をしてくれることになりました。
最初の1週間は感謝祭がある週なので、これがもう本当に難しい…。
こちらももう、見つかることを祈るしか無いという心境です。
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ふふっと笑うその瞬間

2021年12月18日 | 音楽とわたし
あれよあれよという間に時間が過ぎて、もう年の瀬なんて…冗談?って思えるほど速い。

長年の間、年越し蕎麦は年を越す瞬間に食べなければならないと勘違いしていたわたしに、夕飯がまだ胃の中に残っているのに無理矢理蕎麦を食べさせられて困り顔の家族の顔と、2021年のカウントダウンのテレビ中継が、まだ遠い思い出の風景にもなっていない。

12月4日のコンサートは、あの条件下であそこまでできたのは良かったと思っている。
弦楽器はだんだんと音が出るようになってきたけれど、今回も元々のメンバーでは十分ではなく、助っ人8人を足さなければならなかった。
ティンパニーに至っては楽器すら本番に間に合うかもわからなくて、結局3日前に楽器が、2日前に奏者が見つかり、本番の日のリハーサルで初合わせというドキドキの展開だった。
管楽器は人数、演奏能力ともにかなり充実している。
けれどもわたしが振る曲には低音の金管楽器が何本も必要なのにテナートロンボーンが2本しか無く、その二人にチューバやバストロンボーンやチンバッソの楽譜を部分的に吹いてもらわなければならなかった。
なので楽譜を編曲しては書き直し、それを初めは写真に撮ってメールで送っていたのだけど、途中でスキャンしたらいいんだと学び、それ以降は少しはマシな写真を送れるようになった。
指揮のためには各パートを勉強する、覚える、キューを出す場所を暗記するという作業はもちろんのこと、曲想やテンポなどを決めるためにいろんな演奏を聞かなければならない。
総譜はニューヨーク市立図書館から借りてきた、歴代の指揮者の書き込みがどのページにも賑やかなもので、だからわたしが練習中にうっすらと書き込んだ日本語の注意書きは、返却する時に全てきれいに消した。
全員が集まっての練習が始まったのはコンサートの1ヶ月半前からで、だから毎週末の、たった6回の日曜日の練習で、舞台で演奏できるまでに仕上げなければならなかった。
そのうちのはじめの2回は全く練習させてもらえなかったわたしは焦りに焦っていた。
簡単な曲ではないのだ。
単に技術的に難しいだけではなく、テンポや曲想がくるくる変わる。
最悪だったのは、コンサートマスターが最後の最後まで、この曲は難し過ぎて今のオーケストラの実力に合わないのでプログラムから外すべきだと思っていたことだ。
コンサートマスターがそう思っているのなら、それに倣う人がいないわけがない。
練習や準備をコツコツと進めながらも、いつプログラムから外されるかという心配がずっとまとわりついて離れなかった。
毎日誰かにメールを書いた。
練習日の翌日には、次のリハーサルに向けての練習箇所や心構えをパート別に書いて送った。
補欠メンバーの確保のためのお願いメールも送り続けた。
そうこうしているうちにいよいよ本番という時になって、ちょうど演奏旅行から町に戻ってきていた指揮の先生にレッスンを受けたら、「あーまた悪い癖がバンバン出てるよ。もう左手は縛り付けておいた方がいいね」と言われ、その日の仕事が終わってから本番までの間、必死に練習して振り方を変えた。
指揮棒を持つ右手はテンポやタイミングを、左手はひたすら表現を。
ずっと言われてたことだったのに、いつの間にか左手まで盛大に振り回してしまっていた。
いきなり当日のドレスリハーサルから振り方を変えられたら、みんなびっくりするだろうなあ…。

クリストファーのドレスリハーサル

LGBTブラスバンドの本番舞台

この写真からもわかるように、お客さんの数は本当に少なかった。
ちょうどオミクロン株というウイルスの新株が登場したところで、一気に外出の気分が削がれたこともあって、760席のうち80席あまりに座ったお客さんの、温かな応援と拍手に支えられたコンサートだった。
遠いところから来てくれたあやちゃん、のりこさん、ジャンさん、そして明子さん、秀子さん、アードリー&マック、エステラ&ロバート、家族のみんな、本当に本当にありがとう。







コンサート当日の夜はアドレナリンが出過ぎて夜も眠れず、次の日曜日はほぼゾンビ状態で丸一日を過ごし、月曜日からは仕事をこなすだけで精一杯。
コンサートの反省や楽譜の整理、お礼状書きなどもしなければならなかった。
燃え尽き症候群という言葉がぴったりの状態に、無理をし続けていた疲労と、なぜか生徒がどんどん増え続ける怪奇現象が重なって、レッスンが終わるたびにヨレヨレのクタクタになってしまう。
それは2週間経った今も同じで、週に一度しかない休日の日曜をどんなにのんびり過ごしても、予定通りにやって来る月曜日を、腕をギリギリまで突っ張って押し留めたくなるほど疲れが取れない。
37人中の35人がレッスンを受けにこの家に来るので、たった5分の間に鍵盤やドアノブの消毒や空気の入れ替えを済ませなければならない。
1日に多くて5時間、少なくても4時間、下は5歳から上は42歳までの生徒たちを、ずっとマスクを着けたままで教え続けるのは見た目よりかなり大変で、心身ともに消耗する。
オンラインレッスンだとマスクを着けなくてもよくなるが、ロスタイムがあるから一緒に弾けないし、あの距離感の虚しさはできればもう経験したくない。
コロナ禍がようやく、とうとう収束するのかと思ったら、オミクロンなどという名前の新株が登場し、あっという間に状況が悪化した。
今週からは生徒の中にも感染した子が出てきたし、感染していなくても熱や咳の症状がある人がじわじわと増えてきた。
鍼灸師の夫もわたしも、人と接する仕事なので、少しでも風邪の症状が出たらPCR検査を受け、結果が出るまでは夫は休業、わたしは教え方を変えなければならない。
こんなことを言うのは贅沢だし、なんといっても今まで通り働けることを本気で感謝しているのだけど、正直なところ、ああもう本当に面倒くさいって大声で叫びたい。

感謝祭で全国的に移動して集まったからの結果かもしれないけれど、もうあと1週間もしたらクリスマスがやって来る。
それでまたパンデミックが発生するかもしれない。
これまではなんとか無事に過ごせてきたけれど、この先何が起こるかはわからない。

などとついついクヨクヨしそうになるので、そういう時は今の中の今だけを考えることにしている。
もう過ぎてしまった時間やまだ来てもいない時間、そのどちらも考えても仕方がないことだけど、今この瞬間を大事に思って生きていくと、過去や未来は確実に変わる。
あの時にあの場所で、もう苦し過ぎて、辛過ぎて、なんなんだこの人生はと地団駄踏んだりぐったりしたりしていた過去が、今のわたしから見たらものすごく意味のあることだったんだと思える瞬間がある。
そういう瞬間が今回のコンサートまでのプロセスの中でも何回かあった。
ふふっ。
そんな時は必ず少しうつむいて、ふふっと笑う。
毎日を生きるってほんとに色々面倒くさいことだらけだけど、いいことってあるんだよ、ほんとだよ。


おまけ
食事は超質素だけど、できるだけ健康的な物を口に入れたいと思っている。
カラードグリーンの下準備をするたびに、この葉っぱのワイルドさに感動する。
夫は今、マイルス・デイヴィスの自叙伝(かなり前に出版された)にハマってて、だからキッチンには彼の音楽がずっと流れている。


手前味噌の底にたまり醤油が発生していた。

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THE ACMA MUSIC FESTIVAL at SYMPHONY SPACE (Saturday, December 4 at 7:30pm)

2021年11月19日 | 音楽とわたし
先日、12月4日に行われるコンサートのプログラムがやっと決まった。
その中にわたしが指揮をする曲も入った。
その決定までに4回のリハーサルがあったのだけど、そのうちの最初の2回は振らせてもらえなかった。
だから、後の2回で十分に曲を仕上げることができるプランと、それを実現できる能力があることを証明しなければならなかった。
通常のテンポで通して演奏するだけで9分かかる曲を、初回はたったの30分強、2回目は45分の時間の中で仕上げていかなければならない。
そんな無茶な…と本当に困り果てた。
オーケストラは一人の気持ちでは動かせない。
ブラスバンドやオーケストラに頭のてっぺんから足の先までどっぷり浸かっていた18年の間、そのことが最大の悩みの種であり最高の喜びの元であったのだけど、指揮者として直面していると、また一味違った悩みや喜びを持つことがある。
みんな違ってみんないい。
その違いを尊像し、いいところを伸ばしながら、活かしながら、音楽を練り上げていく楽しさや難しさがオーケストラを指揮する醍醐味だと思うけれど、いかんせん、本当に時間が足りない。
今回はオペラの序曲なのでいろんな要素や雰囲気が組み込まれているから、演奏する側にとっても難儀な曲だ。
特にバイオリンパートは難しい部分が山盛りで、だから評判は良くなかった。
できることならプログラムから除外してほしい曲だ、という意見をちらほら聞いたりもした。
だから余計に焦った。
それでなくても忙しい生活の中に、こんな面倒な練習を強いたりして、申し訳がないという気持ちにもなった。
それをメールで書いたら、あなたは指揮者なのだからそんな気持ちをなってはいけない。申し訳ないなどということは全く無い。私たちは演奏する、あなたは私たちを導く、そして一緒に音楽を作り上げていく。そうでしょ?と、逆に励まされたりした。
そうだ、わたしはこの曲をとても愛していて、そのことをみんなに伝えたいと思っていた。
もしもみんなの中に、その思いを共有してくれる人がいたら、尚のこと幸せだと思っていた。
だからどうしても一緒にこの曲を仕上げていきたかった。
この1ヶ月は、各パートの楽譜を読んだり編集したり、低音部の音が極端に足りないのを補うためにトロンボーン奏者にチューバの楽譜を部分的に吹いてもらったり、何よりメンバーの補強のためのお願いメールを送ったりと、朝から晩まで仕事以外の時間を使って奔走した。
あと練習は2回しか残っていない。
本番の日のドレスリハーサルで初めてティンパニーが加わり、そこで一回だけ通しの練習をしたら本番だ。
一か八か、みたいな感じだけど、ほんと、もうやるっきゃない。

普段の練習はこんなふうに、雑に名前を書いた段ボール紙を前にやる。
これを書いた時はまだ初期だったのでメンバーが少ないが、今はこれより15名も増えている。

毎週末の日曜日に練習を行うOPERA AMERICAの玄関。


そういえばハロウィーンもあった。
去年は中止されてしまったからか、今年はけっこう盛況で、まだ明るいうちから変装したちびっ子たちが通りを練り歩いていた。

去年の真っ暗なハロウィーンを吹き飛ばすかのように、近所の飾り付けには力が入っていた。






プログラムが決定する直前の夕飯を、マンハッタンのコリアンレストランで夫と一緒に食べた。
外の席しか空いてなくて、足元にヒーター、分厚い毛布を体に巻いて、まるでキャンプだねと言いながら苦笑い。
グラスに刻字された店名の『コッ』は、韓国語で『花』という意味なのだそうだ。
小学校時代の花丸ハンコみたいで気に入った。


秋になると現れるSATUMAみかん。日本のみかんに一番似ていて美味しいのだけど、残念ながらオーガニックではない。

なぜか今年は元気いっぱいのキンカンの木。寒くなったのでわたしの寝室に引っ越してきた。


秋の風物詩、などと小綺麗な言葉は似合わないこの作業が始まると、ブウブウとうるさいったらないし、枯葉を吹き飛ばす間に飛び散る埃やカビがハンパじゃなくて、アレルギー持ちの夫はいつも顔をしかめている。


集めた枯葉を吸い込むバキュームカー。まだまだ落ちてくるんだけどなあ…。


おまけ・海のヨガ風寝相。悶絶中とも思えなくはない😅

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「やっぱり生演奏っていいな」の巻

2021年10月27日 | 音楽とわたし
見出し写真は先日義母からもらったオーガニック農場の卵。1週間以上冷蔵庫の中だったけど、黄身に元気がみなぎっている。

2019年の11月16日のコンサートを最後に、実に約2年ぶりに、ACMAの生コンサートが開催され、無事に終わった。

ホールに入るには、マスク着用はもちろん、ワクチン接種終了証明書と写真付きの身分証明(例えば運転免許証とか)を見せなければならないし、階段ホールや休憩所で屯していると、係の人がやって来て、分散してくださいと言われたりする。
ホールの外にさえ出れば何をしててもいいよ、という感じ。
あの地獄を経験し、あそこから生き残るためにどれほど大変な思いをしてきたかを想像すると、そういうことも致し方がないと思う。

ホールの壁や天井が、プログラムをめくる音、あちこちで「やあ久しぶり」「とうとうだね」とマスク越しに再会を喜び合う人々の声を、優しく包み込んでいる。


演奏曲は12曲、けれども休憩時間が無い。
人々が一堂に集まることを避けたいのだろう。
これもコロナウイルス対策の一つだと、プログラムに記されていた。
でも、そんなことなど全く気にならないほどに出演者たちの演奏は素晴らしく、バラエティに富んでいた。


ただ、マスク着用のまま演奏しているピアノ奏者を見ていると、こちらの方が息苦しくなってしまった。
いつまでこんなことを続けなければならないのだろう…。
レストランの室内で食べてもよくなったけど、店を出入りする時だけはマスク着用で、食べ始めたらなんでも有りとか、演奏会で歌や吹奏楽器の演奏者はマスク無し(そうでないと演奏できない)で、口を使わない演奏者はマスク有りとか、同じ場所でそんな制限して意味あるの?って思うことがいっぱいある。
そういう決まりを作っている人たちも、どうしたらいいのか、何が最善なのか、よくわかっていないのかもしれない。
マスク着用は感染予防の基本中の基本だし、うちに来る生徒たちにもこちらで用意した4層マスクに付け直してもらったりしているけど、ちぐはぐな規制は徐々に改良していくべきだと思う。


演奏会の翌日は、ACMAオーケストラの初顔合わせと初練習が行われた。
主席指揮者として今年からオーケストラを統括してくれるのはクリストファー・ノース氏。
プロの指揮者であり、ベース奏者であり、ハリウッドやブロードウェイの作曲を手掛けている。
わたしが振る曲「運命の力」の総譜とパート譜を、ニューヨーク公立図書館で借りてきてくれた。





古さが半端じゃない。
しかも書き込みが自由に行われていて驚いた。
もしかして、わたしもこれを使いながら書き込んでもいいのかな?
パート譜に目を通していると、各奏者の焦りや戸惑いや興奮がじわじわと伝わってくる。
たまに「何回読み間違ってるんだよバカ!」みたいな書き込みがあって、自分も同じようなことを書いたなあと苦笑する。
この曲にはクラリネットのソロがあるんだけど、ハープ2台とコントラバスだけが伴奏をしている静かで温かな雰囲気がする部分だ。


わたしが演奏した時は公立の進学高校のブラスバンドだったので、当然ハープなんて楽器は無くて、だから代わりにクラリネットのパート2と3の人たちが必死でカバーしてくれていた。
わたしが気分良くソロ(といっても音作りにすごく苦労したし数えきれないほど練習した)を吹いている間、こんな大変な思いしてくれてたんだと、46年も経ってからしみじみと感謝している自分に苦笑する。
今回もハープの演奏者がいない。
初めはピアノ奏者にハープ音にセットしたキーボードを弾いてもらおうか、などと考えていたが、図書館からの総譜を見ると、その部分を丸々カットするのも有りだと知った。
それは一番楽な方法だし、音楽的な流れも悪く無いので、ソロを演奏するゲリーに事情を話して諦めてもらおうということになった。
でも…でも…同じクラリネット吹きとして、その部分をカットするなんてものすごく言いづらい。
どうしたものかと練習会場でウロウロしていると、ゲリー本人が近づいてきて、ニコニコしながら開口一番こう言った。
「やあ眞海、「運命の力」のあのソロを演奏するの、めっちゃ楽しみにしてるんだ僕は」。
「ハハハ、そ、そうだよね、クラリネット吹きだったら絶対に演奏したいよね、うん…」。
あ〜だめだ!絶対にカットするなんて言えない!
こうなったらもう仕方がない。
今回の演奏会を行う舞台は、あの狭っ苦しいカーネギーの(それでも600席の中サイズだったが)ではなくて、広々としたシンフォニー・スペースのホールだ。
あそこならピアノを第一バイオリンの後ろに置けるだろうし、シフトペダルを踏みながらハープ奏者になり切って演奏してもらえたらなんとかなるかもしれない。
誰に頼もうか、誰なら引き受けてくれそうか、12月4日までの土曜日の午後を毎週つぶしてもいいって思ってくれる人がいるだろうか?
また新たな人探しが始まる…。

肝心の指揮の方は、再びレッスンを受け始めているのだけど、なぜかすごく上達したねと言ってもらってびっくりした。
練習はもっぱらユーチューブのカラオケ(これぞまことのカラオケ😅)で、数あるビデオの中から一番しっくりくるものを選んで、空き時間を見つけては指揮棒を振っている。
でも、実際にオーケストラを前に立つと、指示を出す相手が広範囲に分散していて、出したつもりがとんでもない方向を見てることが時々あって苦笑いすることがある。
わたしはチビなので、腕の位置を他の人よりも高めに保たないと演奏者の目に届かない。
今回からプロの指揮者と一緒に指揮をすることになって、実はちょっとビビっていた。
音大で指揮を学んだこともないし、どこかの楽団で指揮をずっとやっていたわけでもない還暦を過ぎたピアノ教師が、そりゃまあずっとずっと夢見ていたことだとはいえ、なぜか自分にはできるはずと信じていただけなのだ。
実際にやらせてほしいと手を挙げてみたら、拍子抜けするぐらいにあっさりと、じゃあやってみたらとオーケーが出て、めちゃくちゃ焦りながらレッスンを受け、練習と本番を終えたら実に爽快だった。
また振らせてもらえることになって、じゃあどんな曲をやりたいかと聞かれ、嬉々として曲名を書いて送ったら、そのほとんどが今回のプログラムになった。
けれども主席指揮者はプロだ。
なので今回もわたしは一曲だけしか振らせてもらえない。
でもそれでもすごくありがたいし嬉しい。
しかもその曲が、提案した曲の中でも一番振りたいと思っていた「運命の力 序曲」なのだから不足はない。
クリストファーが電話ミーティングで言っていた言葉が心に刺さっている。
「僕は何よりもまず、また来たいなって思ってもらえるような練習にしたい」
前回のわたしは、弱みを見せたくなかったし、できることを証明したいばっかりに、やたらと厳しくやっていたような気がする。
もちろん音楽として質の良い、聞き応えのある演奏を求めていたからなのだけど、オーケストラメンバーがまた次の練習が楽しみだと思ってもらえるように、という意識は無かった。
これはピアノのレッスンにも言えるんじゃないか?
わたしは自分の生徒たちに対して、また来たいなって思えるようなレッスンをしているだろうか?
いやあ、人生学びの連続だ。
有言実行で突っ走っている64歳。
こんなわたしを受け入れてくれる、学歴不要のアメリカならではの寛容さに感謝する。
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ハープのように弾け♪

2021年08月31日 | 音楽とわたし
上の写真はロックダウン中のカーネギーホールの正面玄関に掲げられていたメッセージ。
Patience 
Patience 
Patience
これはある小話が元になっている。
ある日、ホールのすぐ近くで、カーネギーでの演奏を控えていたバイオリニストが声をかけられた。
『How do you get to Carnegie Hall?(カーネギーホールにはどうやって行くのですか?)』
するとそのバイオリニストはこう答えた。
『Practice Practice Practice(練習、練習、練習です)』
尋ねた人はカーネギーへの道順が知りたかったのだけど、演奏者はどうやったらあの舞台に立てるのか?と聞かれたと勘違いしたというお話だ。
Patienceは我慢という意味。同じPで始まるし、我慢と練習はどことなく繋がっている。
我慢、我慢、我慢
そうやってトライステートの住民たちはこの1年半をずっと我慢してきたのだった。

******* ******* ******* *******

昨日の夜遅く、所属しているACMAからメールが届いた。
10月に行われることになっているコンサートのチケットを何枚予約したいか言って欲しい、と書かれていた。
そうだった、コンサートがあるんだった。
コロナ禍以降ずっと閉館していたカーネギーがついに、来月から公演を再開するんだった。
そしてわたしはその翌月の10月のコンサートで、ソプラノ歌手に3曲の伴奏を頼まれていたんだった。
この夏もまた、レッスンは普段とほぼ同じの状態で続き、8月に入ってやっと少しだけ空いてきて、ああ少しは夏休みって感じがするかもと思い、決心して小旅行に行って大怪我をして、その後今までの1ヶ月ほどは弾くとどこかが痛むのでダラダラしていた。
ピアノを弾くのは教える時だけで、その他の時間はほとんど弾かないまま日が過ぎていった。

メールを読んでしばらくすると、胃や肺や心臓に冷たくて薄い膜がぺたぺたと貼られていくような感じがした。
胸の内側がざわざわして、すると同時に心配虫が頭の内側をぞろぞろ這い始めた。

どうしよう。なんの曲だったかさえ覚えていない。
こんな不誠実な伴奏者が許されるわけがない。
なんでここまでとぼけてしまっていたんだろう。
COVID-19は収束せず、また街はロックダウンをするかも知れない、などと悲観的に考えていたんだろうか。
いろいろ考えても答が出てこないし、出た答が慰めになるとは思えない。

慌てて本棚の楽譜をガサガサ動かして、彼女から渡されていたはずの楽譜を探し出す。
そして、その3曲のうちの1曲がうまくいきそうになかったから、じゃあこの曲の代わりにわたしがあなたのために1曲創るね、などと言ってたことを思い出し愕然とする。
当時書き始めてはやめ、また始めてはやめした楽譜がどこにあるのか、そんなものを探してもきっと全くなんの足しにもならない音符が並んでいるだけだからからやめた。
その曲を、前に創った『FUKUSHIMA』と『OKINAWA』の間に入れて一つの組曲にしよう、などと考えていたことも思い出した。
6月中旬から今までの、確かにあったはずの時間を思いながらクヨクヨと後悔しても仕方がない。
なんだかこんなことをいつも言っているような気がしてさらに気が萎えるが、やっぱりそういう心の回路も意味が無いのはわかっているのでさっぱりと忘れることにした。

さあ、やるっきゃないのでやる。
ハープのように弾け!と書かれている左手の超意地の悪いアルペジオは、とんでもなく速く弾かなければならない。
今日から開始だ。
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おかえりなさい海野さん♪♪

2021年08月14日 | 音楽とわたし
海野さんがステージに戻ってきてくれました!

海野さんは昨年の9月に、彼の住むアパートの近くで、8人もの暴漢に襲われ大怪我をしました。
その時の様子は、彼を救うべく募金を立ち上げた友人ジェローム・ジェニングスがこう説明しています。

海野雅威 (うんの ただたか)という人は、良き友人であり、幸せな家庭を持ち、そして素晴らしいジャズピアニストです。
それは、彼が一緒に共演してきたミュージシャンを挙げれば歴然でしょう(ジミー・コブ、ロイ・ハーグローヴ、ウィナード・ハーパー、ジョン・ピッツァレリ、クリフトン・アンダーソンなど)。
9月27日日曜日、タダ(海野雅威)は、ニューヨークにある彼のアパートの近所で、突然8人の大群による暴行に襲われました。
彼らの暴行により、鎖骨骨折、頭を含む全身にアザを受けることになってしまいました。
暴行を受けた後、救急車に運ばれ、病院で数日を過ごし、大事には至りませんでしたが、手術が必要である可能性がまだ残っているようです。
この襲撃による精神的なダメージは想像を超えるものです。
彼はピアノを弾くことで家族を養ってきたのです。
ですが、鎖骨破損によりピアノを弾くこともままならない状況ですし、いつ弾けるようになるかは分からないとのこと。
そして、たった4ヶ月前には、新生児を奥様のさやかさんと迎えられたばかり。
アメリカの医療費というのは日本と比べ物にならず、彼を救った救急車にも多額のお金がかかります。
そして、家族を養うための家賃、光熱費、食費、タクシー代、赤ちゃんを養うお金、全て払わねばなりません。
このような事態になってしまった、海野雅威とその家族を是非とも、あなたのできる範囲でいいので助けてやってください。
よろしくお願いします!(ジェローム・ジェニングス)





夫とわたしは偶然、この事件の少し前に近所の教会で行われた彼のライブを聴きに行って、彼のピアノの温かさ、軽やかさ、クールさ、激しさに一目惚れ(一耳惚れ)し、演奏後の彼に思わず駆け寄って「ファンになりました!」と興奮丸出しの声をかけたのでした。
またどこかに聴きに行きたいなあなどと思いながら過ごしているうちにコロナになり、この事件が起こったのでした。

彼の友人たちによって立ち上げられた募金の呼びかけは瞬く間に世界中に広がり、250万円がゴールだった支援金の10倍近くが集まりました。
けれども、こちらの医療費は日本のそれとは比較にならないほどに高額で、彼はこれからも何度も手術とリハビリを繰り返していかなければなりません。
わたしもまた、わずかではありますが、同じ音楽に身を置く者として、彼を支え続けていきたいと思っています。

募金は続いています。
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そして緑色のContinueをクリックすると、支払い方法を選ぶ欄が出てきます。
ご自身の便利な方法を選んでください。

皆様こんにちは、海野雅威です。
昨年の事件以来、ご心配して頂いている方に心から感謝申し上げます。
手術から日々懸命にリハビリに励んできましたが、今回素晴らしいニュースを皆様にお伝えする事ができます。
ようやく、またピアノをステージで弾ける日が来たのです!
すでに、ニューヨーク近郊でWinard HarperやClifton Andersonと少しづつライブを行ってきました。
8月13日から15日までの3日間は、John Pizzarelliトリオのメンバーとして、New YorkのBlue Noteで演奏します。

怪我の具合はまだ回復過程で、可動域が制限され痛みも残ります。
近いうちに体内にある金属のプレートを取り出す2回目の手術も予定されています。
この手術によりスムーズに肩と腕が動かす事ができるようになるという医師の判断ですが、手術後はまたしばらくピアノが弾けない状態に戻ってしまい、リハビリを改めて一から始めなければなりません。
その為、今できる事として、パンデミックになり、そして怪我でピアノが弾けない間に書き溜めた曲をレコーディングする事にしました。
およそ7年ぶりのリーダー作です。
尊敬する私のリーダーで友人のClifton Andersonをプロデューサーに迎えて、現在進行中です。
近い将来に新しい音楽をお届けできる事を楽しみにしています。

手術後に安心できる環境でリハビリに専念する為に日本にも帰郷していました。
献身的にサポートしてくださる理学療法士との出逢いや、ふるさとの仲間、先輩、多くの方の心の温かさを感じられた事も何よりも今の回復に繋がっていると確信します。
日本では昨年11月に日本を代表するミュージシャン総勢45名が私の為に感動的なベネフィットコンサート”Look for the Silver Lining”を開催してくれました。

差別や暴力に決して屈せず、渾沌とした時代でも負のエネルギーこそ正のエネルギーに変わり得る事を私の音楽で示す事が、私の新たな使命であるという思いを強く感じています。

私はいつでも音楽の力を信じています。
言葉を必要とない、そして言葉では決して表現する事のできない素晴らしい音楽が、Universal languageである事は経験から知らされてきました。
音楽は人種などに縛られる狭い世界ではありません。
ミュージシャンは人と演奏するときに、アンサンブルと調和がもっとも大切です。
まさにその事が現実の世界に必要で、音楽は自然とその事を教えてくれます。
だからこそ今、愛に溢れる音楽が必要だと痛感します。

ぜひお近くの方は8月13日から15日までのNew York Blue NoteでのJohn Pizzarelliとのライブにお越し下さい。
偶然にも8月15日は私の誕生日でもあります。
新たな人生のチャプターのセレブレーションでもある復帰ライブで、直接皆様にもお会いできれば幸いです。

海野雅威

彼のピアノ演奏です。2017年のライブから。

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バーチャル発表会やってます♪

2021年07月03日 | 音楽とわたし
ここ3週間、毎晩コツコツやっていることがあります。
今はまだ、ピアノの生徒たちの発表会を通常のやり方ではできないので、今回初めてユーチューブ発表会を企画しました。
これは近所に住む、同じくピアノ教師のS美ちゃんから教えてもらった方法です。
自宅のピアノがまずまずのピアノで、且つきちんと調律がされているのなら自宅で、そうじゃない場合や電子ピアノで弾いている生徒はうちのピアノで、各々がこれまで時間をかけて仕上げてきた曲の演奏をビデオに収めてもらいました。
発表会は、同じ日、同じ場所で、同じ時間を共有して行われるのですが、ビデオ鑑賞の場合は一度に何人も観るのは大変なので、一日に一曲ずつユーチューブの限定公開にして聞いてもらうことにしました。

そこで一つ問題が発生!
曲のURLをemailで送る際に、CCやBCCを使おうとしたところ、送られたmailの送り主(この場合はわたし)名の欄に『文都クレア』という名前が記されてしまうのです。
日本語読みが入っていない米国人のパソコンには文字化けした意味不明の名前になり、迷惑メールに振り分けられてしまいます。
なので毎晩、一軒ずつに送らなければならないのですが、これがけっこう面倒くさい…。
拍手の代わりに温かな気持ちあふれるコメントを送ってあげてください、なんてことも書かなければならないし…。

ということで、その名前をなんとかして本名に変更しようと、あれこれ試してみてるんですが一向に変えられません。
なぜなら、わたしのプロフィールにはその名前が一切出てこないのです。
一体いつ、どの過程で、この名前を登録したのか全く覚えていないのも我ながらすごい!
メールアドレスをジーメイルに変えたのは、確か小説を書いていた時で、雑誌の新人賞の最終選考の一歩手前まで進んでいたわたしは、調子に乗ってペンネームを作ってみたのでした。
その当時に住んでいた町の名前が「Montclair(モントクレア)」だったので、それをもじって文都クレア。
文章の都、ふむふむ、なかなかええじゃないかと悦に入っていたのは覚えているのですが、それをなぜジーメイル名にしたのか覚えていないし、なぜ変更できないのかもわかりません。

多分これはわたしのインターネット恐竜脳のせいなのかもしれません。
それほど詳しくなくても、ちゃっちゃと解決できることなのかもしれません。
でも今のところは解決の方法がわからないので、全員の演奏ビデオが揃うまで、もう少し我慢してがんばります。
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東日本大震災から10年~SING FOR SMILE PROJECT みんなが笑えば世界も笑う~【Virtual Choir LOOK UP AT THE SKY 上を向いて歩こう】

2021年03月11日 | 音楽とわたし
1月中旬のある日、友人のわかこさんから【バーチャルクワイア(合唱隊)参加のお誘い】メッセージが届いた。
合唱隊が歌うのは『上を向いて歩こう』。

この歌はわたしの戦友だった。
まだ思春期を迎えたばかりの頃だ。
その頃のわたしは、今から考えても人生の破茶滅茶トップ3に入るほどの、大変さ度数がとても高い毎日を生きていた。
乗り越えても乗り越えても、しんどい峠越えが目の前に現れてきて、時には同時多発に襲いかかってきて、ため息も涙も出ずに、乾いた笑いが鼻先からこぼれる毎日だった。

さて、歌のことに戻ろう。
九ちゃん(坂本九)が歌うこの歌がヒットし始めたのは1961年の末頃からだから、わたしは4歳半だったのだけど、九ちゃんの歌い方にブツブツ文句を言っていた両親の横顔を覚えている。
わたしも幼いながらに、「うへをむふいてあーるこほほお」ってどういう意味?と首を傾げて聞いていた。
とにかく、この歌は日本国内に留まらず世界中に広がっていき、1964年5月15日には、外国人としては初めての全米レコード協会のゴールドディスクを受賞した。
結果的には世界約70ヵ国で発売され、総売り上げは1300万枚以上、1988年には、アメリカのテレビやラジオでのオンエア回数が100万回以上の楽曲に贈られるBMIの「ミリオン・エアー」を受賞した。

だから波乱万丈の毎日が確固として始まった1970年から1990年(その後はまた趣向の違う波乱が続いたのだけど)の間に、『上を向いて歩こう』はどんどん世界で愛されていった。

そしてわたしは、事あるごとにこの歌を口ずさんでいた。
時には誰もいない通りを上を向いて歩きながら。
時には公園のベンチに座って空を見上げながら。
時には差し押さえで家具を持っていかれてがらんとした部屋の中で天井を見上げながら。
時にはきつい検査の後の朦朧とした頭で、病院の処置室のベッドに寝ながら。
不思議なことに、この歌を歌う時だけ涙は自由になって、にじんだり流れたりした。
歌う時はいつも上を向いていたので、涙は必ず耳の中に流れ込んでいった。
慢性の中耳炎を患っていたので、いつもちょっと緊張した。
でも歌ったあとは少しすっきりして、心の重荷がちょっとだけ軽くなった気がした。

なのでこの『上を向いて歩こう』は、本当の本当にスペシャルな歌なのだ、わたしにとって。
だからすごく興奮した。
でもなかなかお尻が上がらなくて、期限ギリギリになって慌てて自分だけのための伴奏譜を書き、ピアノを弾きながら歌った。
ちょうど喉の調子が悪い時と重なって、何度も撮り直したのだけど、歌っているうちに胸がグッときてしまって、声がひっくり返ったりもした。

全体の伴奏をゼロから考え、アレンジをしてくれたわかこさんたちは、カラオケ音源を作って歌いやすくしてくれた。
どんな方法で録画するのかも丁寧に説明してくれた。
集まった動画を編集したり編曲したり、それを一つにまとめて作品にするには、本当に大変な労力がかかったと思う。
専門的なことはてんで分からないのだけど、後日談を聞くと想像以上の大変さだった。
でも、そんな彼らの頑張りのおかげで、こんなすてきな動画が仕上がった。
わかこさん、そして友人のみなさん、本当に本当にありがとうございました。

東日本大震災から10年~SING FOR SMILE PROJECT みんなが笑えば世界も笑う~【Virtual Choir LOOK UP AT THE SKY 上を向いて歩こう】

【動画最後のコメントより】
東日本大震災から10年が経った。

未だ自宅にも戻れず怒りや悲しみの中にいる人たちがいる。

同じように世界各地で起こる災害や戦争紛争などで、怒り悲しみの中にいる人たちがいる。

そこに一瞬でも「笑顔、笑い」があったら良いな。

笑顔や笑いは心の鎖をほどくから。

だから私たちは笑う。

人は笑うために生まれたのだから。
どんな時も笑っていてほしい。

皆と一緒に笑顔になりたい、元気になりたい。

みんなが笑えば世界も笑う。

今日はアメリカ時間の3月11日。
東日本大震災が起こり、原発が爆発してから10年が経った。
あの日、2011年の3月10日の、真夜中の暗い部屋の中で、パソコンの画面に流れる恐ろしい現場の様子を、椅子に座ることもできないまま凝視していた。
あの日から突然、ブログ記事の内容がガラリと変わった。
インターネットで毎日読んでいた新聞記事の内容が、こちらで伝えられていたこととずいぶん違うことに気がついたからだった。
偶然始めたばかりだったツイッターで伝わってくることも新聞とは違う。
新聞以外のいろんな記事やデータを読むようになった。
それまで面倒だからと読まなかった英文記事も我慢して読むようになった。
新聞テレビが真実を伝える割合は一体何パーセントなんだろう。

今年は新型コロナウイルスの爆発的感染が起こってから1年が経った年でもある。
自分の頭で考え、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の肌で感じ、周りの声に振り回されないように気をつけながら生きたいと思う。
本当に何が突然起こるか、誰にも分からないのだから。
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ボストンピアノがやって来た♪♪

2020年09月28日 | 音楽とわたし
ピアノを買いました。

20年前にこちらに移ってからすぐに買ったピアノは、十分なお金を持ち合わせていない上に仕事のために必要という急場凌ぎの物だったので、いつか自分のための満足できるピアノが欲しいと思い続けてきました。

今から11年前、急逝した若きプロフェッショナルピアニスト・カルロス氏のピアノを、彼の所有品の後片付けをするためにチリから駆けつけてきた母親の「大切に使ってくれる人に売りたい」という気持ちと共に引き受けました。
それはとても大きくて重くて、そして古いピアノでした。
うちまで運ばれるまでの間に運搬業者の足で踏んづけられたハンマーの修理はもちろん、問題が山積みの鍵盤を、調律師のアルバートと一緒に修理を重ねてきました。
遠くの州にある鍵盤専門の修理工場に送ったこともありました。
そうやっているうちに、どうやっても整わないことが次第にわかってきたのですが、なんとかならないかと食い下がるわたしに、アルバートがこんな事を言いました。
「まうみ、長年の付き合いだから正直に言うよ。このピアノにこれ以上お金をかけるのは意味が無い。例え鍵盤を全て新品に入れ替えたとしても問題は解決しない。音は確かに深くて味わい深いけど、それは入れ物の箱が大きいからで、全てが劣化し過ぎている。音楽は一つの音を鳴らして悦に入るものじゃ無いよね。あきらめよう」

アルバートはそう言ってフロリダに引っ越してしまい、その後は調律を一切しないまま、カルロス氏のピアノはずっと眠ったままでした。
カルロス氏のおかあさん、そしてカルロス氏の魂に、一生かけて大事にしますと約束したのに…という気持ちと、どうにもならないことへの苛立ち…複雑な気持ちで過ごした11年でした。

気持ちは気持ち。現実は現実。
ピアノを買い換えよう。
そう決心したものの、高価な物なので簡単にはいきません。
65歳になって年金をもらえるようになったら、それでローンを払っていけるかな…などと密かに考えていました。
そしたら急に夫が、スタインウェイのギャラリーに行ってみないか?と。
彼が数年前から、そのギャラリーの先代マネジャーともちょくちょく話をしていたのは知っていたのですが…そこで特別セールが行われるというのです。
いやあ、いくら特別セールといってもスタインウェイでしょ?手が届かないよ。
でもほら、スタインウェイの設計で作られたボストンピアノ、あれもギャラリーに置かれているみたいだし。
ボストンピアノ!
生徒の中のある姉妹が持っているピアノで、そりゃもういい音がして、すごく弾きやすくて、こんなのがうちにもあったらな〜って思ってたピアノだぞ〜!

ということで、ペンキ塗り作業の合間を縫って(またまた大袈裟な😅)行ってみました。


COVID-19の影響で、自分の行きたい時に行く事はできません。
まず予約をし、マスクをつけて館内に入れてもらいました。
お客は夫とわたしの二人だけです。
まずは数台のボストンピアノから弾き始めました。
そのあとおもむろにスタインウェイに…うちは絶対に買えませんからと言いつつ…。
同じスタインウェイでもやはり色々で、うわぁ〜これはすごいわと思ったピアノはやはり最高峰…でも、なぜかそのピアノより気に入ったのがあって、それはボストンのピアノで、けれども残念ながらセールの対象にはなっていなかったのでした。
ということで我々は退散し、けれどもいつか手に入れたいピアノが見つかったことだけで満足して家路についたのでした。

するとしばらくして、また別のセールのお知らせが来ました。
今回はわたしが気に入ったピアノも対象になっているというので、またまた出かけて行きました。
出かける前に夫が、「もう買おう、買う時が来たと思う」と言ってくれたので、天にも登る気分でそのピアノと再会し、特別価格にピアノ教師割引を加えてもらって購入しました。

カルロス氏のピアノとお別れです。
ちゃんと蘇らせてあげられなくてごめんなさい。



新しいピアノがやって来ました。






組み立てはあっという間。
先に二本の脚を付け、そのまま斜め立ちさせてペダルとあともう一本の脚を付けてハイ終わり。
え?そんなに簡単だったっけか?
鍵盤は入ったままだったわけ?
マジ?
いやはや、初めてのグランドピアノとの出会いはもう今から50年も前のことで、その後も引っ越すたびに運送会社のお世話になって来たのですが、いつももっと慎重というか丁寧というか鍵盤は別々だったというか…ははは😅


カルロス氏のピアノと比べると長さが40センチも短いので、部屋がちょっと広くなった感じがします。



スタインウェイ&サンズによって設計されたボストンピアノ、なんと工場は日本の浜松、河合楽器の工場で作られているそうです。

「20年もかかってごめん」
夫が言ってくれた言葉です。
わたしの心の満足のためだけに大金を使ってしまったと思っていたので、本当にありがたい言葉でした。
よし、そうだ、渡米20年、よく頑張ったで賞にしよう!

まだ搬入後の調律をしていないままですが、昨日も今日も弾きたくて弾きたくて、頭がクラクラするまで弾いてました。
最初に仕上げる曲はドビュッシーの『ピアノのために』にしよう。
13歳の時に買ってもらったグランドピアノは、波乱万丈期の人生の中であちこちを放浪し大変な目に遭いましたが、日本を離れる時に譲った人に大切にしてもらっています。
63歳にして買ったこのピアノは、わたしがこの世を卒業するその日まで、一緒に音を楽しめるよう大切にしていこうと思います。
コメント (2)
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