ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

What a Wonderful World

2015年11月07日 | ひとりごと


『なんて素晴らしい世界なんだろう』

緑の木々が見える 赤いバラも
君と僕のために咲いているんだ
 
なんて素晴らしい世界なんだろう

真っ青な空や 白い雲が見える
輝かしい祝福の昼
そして暗く神聖な夜
心から思うよ

なんて素晴らしい世界なんだろう



この歌を、この映画の、このシーンをバックに聞いた時、わたしは涙が止まらなくなってしまいました。

緑の木々、赤いバラ、真っ青な空、白い雲、良く晴れたお昼間、そして静かな夜。
何気なく手にとる、さりげなく目にする、そんなことが当たり前にできると思っている世界は実は、悲惨な戦争と隣り合わせなのかもしれない…。

なんで戦争なんかするんだろう。

戦争が必要な人間がいて、それでどんどん武器が開発されて、それを使う組織が作られて、
でも、結局は、命令されて戦場に行った人たちが、敵だと思う人たちを殺し、町や村や自然を破壊し、抵抗に遭って殺されたりする。
殺された人たちの家族は、その理不尽な行為に憤り、自分の人生を壊してまで復習しようとしたり、呪いをかけたりする。
わたしたちが本当に怒らなければならない相手は、国ではなく、その国の市民でもなく、戦争で金や権力を得ようとする人間どもなのに。

どうして『戦争』が『犯罪』にならないのだろう。
いつの間に、『戦争』が『正義』にすり替えられたのだろう。
これほどまでも、人として、生き物として、恥ずべき行為を繰り返すことが、どうして誰からも裁かれずに済んでいるのだろう。



『なんて素晴らしい世界なんだろう』
この曲は、1967年にレコーディングされました。
当時は、ベトナム戦争の真っ只中で、反戦デモが全米規模で行われていました。
映画『グッドモーニング、ベトナム』は、1987年に公開された映画で、ベトナム戦争終結から12年を経て作られたものです。

戦争を、この地球から失くしたい。
そう願うことを決してやめない、あきらめない。
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米国『11月のインディアンサマー?!』事情

2015年11月07日 | 日本とわたし
11月になって早1週間。
なのに暑い…インディアンサマーが今年は11月にやってきました。

1階のふたつの部屋の天井に、大きな穴が空いたまま、どんどん月日が経っていきます。
浴槽の蛇口から落ちる水滴の音が、天井が抜けているのでよく聞こえるのですが、
落ちてくるスピードが日に日に速くなって、今ではもう2秒間に3滴という、水道代をどうしてくれよう…という量になってきました。
どうしてこんなにも待たなければならないのかというと、
まず、修理の依頼の電話をかけても、ほとんどの場合人が出てこないので、メッセージを残すことしかできないし、
メールを送っても、どういう要件ですか?という返事が、たいていは数日後、下手をすると1週間以上も経ってから送られてきます。
そして、やっとのことで会社の人と直接話せたとしても、そこが人気がある会社だと、修理に来てくれるのが2週間後、ということがしょっちゅうなのです。
で、ポトポト音を聞きながら、結局合計で1ヶ月以上も待って、やっと来てくれた配管工さんに調べてもらいました。
「うーん、これはボリュームコントロールがイカれてるよ。部品を取り寄せないと」
え~?今すぐ直してもらえないんですか~?と、心の中で悲壮な声を上げているわたしに、
しかもその部品というのはドイツ製なので、「注文するとべらぼうに高いよ」、などと追い討ちをかけてくる配管工さん。

「あ、でも、まだこれ、使って間もないんだから、もしかしたら保証が効くかもしれない」
という明るいニュースを授けてもらった我々は、早速製造会社に問い合わせてみました。
幸運?なことに、やはり保証が効いて、だから部品自体は無料で手に入ったのですが、
それが送られてくるのを待ち、さらに部品が着きました、修理をお願いします、という連絡を入れて、
その返事が来るまでまた待って、さらには向こうの空いている日が来るまで待たなければなりません。
そんなことをしている間に、ポトポトはどんどん加速して、ついにはツーッと筋になってしまうかも…。
そうなると音は聞こえなくなるだろうけれども、水道代…ほんとに恐ろしい…。


次男くんは、無事に2週目の務めを終え、インディアナで行われるゲームのトーナメントに出稼ぎに行きました。
一昨日の朝、会社に行こうと焦っている時に、出っ張っていた釘を踏みつけて、そのままどうしたことか、ズズッとずらしてしまったそうです。
それで、足の裏の皮膚が3センチほど裂けてしまい、慌てて絆創膏を2重に貼ったのだけども、床のあちこちに血だまりが残っていました。
釘は古釘ではなかったようですが、それでもやはり破傷風のことが気にかかります。
本人は、幼い頃から『大怪我大王』だったので、これぐらいどぉってことねぇ~などと言っておりましたが…。


伴奏バイトが始まりました。
譜めくりを全部自分でできるよう整えた楽譜を抱えて、毎日高校へ通っています。
クラスの終わり時間が近づいてきたり怒ったりすると、どんどん加速するダリルの指揮にも、やたらとダラつく高校生たちの態度にも、いちいちかまっていられません。
平常心平常心。


生徒たちの発表会まであと1週間。
今年も難しい曲に挑戦した生徒たちが、とても苦戦しています。
でもこの経験が、またひとつふたつと、新しいステップへのとっかかりになることも分かっているので、皆それぞれに諦めずに頑張っています。
名前が刻まれたご褒美トロフィーの注文、プログラムの作成、生徒たちと弾く連弾曲の練習などなど、やらなければならないことがてんこ盛りなのですが、

友人夫婦の双子ちゃんたちの誕生日パーティに出かける夫を見送りに外に出て、見てしまったのです、これを。
え…?いつの間にこんなに積もってたん…。


仕方がありません。いくらなんでも放っておけません。


今年は例年以上の落としっぷりです。


ちょっとずつ、またちょっとずつ。


あちらこちらにまとまってきました。


寒くもなく暑くもなく、日が照るのでもなく、最高の落ち葉掃き日和でした。(でも、3時間もかかってしまった…)


枇杷の木もすっかり紅葉、いや、黄葉。


まだまだ葉っぱが落ちてくるはずなので、これはまあ、ほんの1ラウンド。


11月に網戸???


網戸が大好きな海ちゃんが、窓辺に座ってほっこり中です。


おーい。


こっちこっち。
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今の日本の行政が主体となって取り組むべきと考えていること→「子どもを厳しく『飼いならす』必要がある」

2015年11月04日 | 日本とわたし
政権批判ができないっていうのは、いったいどこまでイカれてしまったのでしょうか。
No.9と書かれただけの小さなタグ(9.5センチ×6センチ)が示威行為に相当するだなんてことが、まかり通ってしまうような社会に成り下がったのでしょうか。
官邸の教育改革国民会議での、一人一人が取り組む人間性教育の具体策(委員発言の概要)に、こんなものがあって愕然としました。
http://www.kantei.go.jp/jp/kyouiku/1bunkakai/dai4/1-4siryou1.html

1.子どもへの方策







2.大人や行政が主体となって家庭、学校、地域で取り組むべきこと






わたしが一番おぞましいと思ったのは、行政からの伝達としてのこの項です。

子どもを厳しく「飼いならす」必要があることを、国民にアピールして覚悟してもらう。
「ここで時代が変わった」「変わらないと日本が滅びる」というようなことをアナウンスし、ショック療法を行う
・家庭教育について対話できる土壌をつくるため、企業やテレビと協力して、古来の諺などを呼びかける。
・子育てにおいて必要な事項を決めた育児憲章を作る。
家庭教育手帳の年度毎の更新、配布

このような、一軒一軒の家庭に、一人一人の市民に、じわじわと入り込んでくる飼いならしの罠に、絶対にはまらないようにしなければなりません。
この兆候は本当に危険です。
こういうことの積み重ねが、もう後には戻れない地獄につながってしまうのです。
わたしたちの身の回りに、コソコソと姿を現し始めた罠を見つけ、それを数の力で公に晒し、罠の効力をゼロにする。
そうやってひとつひとつに目を配り、行動していくことが、わたしたちにはできるし、それが一番の力の見せ所だと思います。
大変ではありますが、無理難題ということではありません。
がんばりましょう!

そして、国民の「知る権利」を守ることを放棄したばかりか、
『まるで戦時中のように、政権や政策への批判を極端に恐れているかのような』、いやらしい空気を日夜作り続けている、
『歴史修正に加担し、違憲の法案さえ検証を怠り、戦争へひた走ろうとする政権の暴走に目をつむる』腰抜けのメディアを叱咤しましょう。
そして、
『ほかの誰のものでもない自らの言葉で、絶えず論を興し、そうして、民主主義を体現する存在として、新聞はありたい』と語る神奈川新聞のように、
今この時において、政権への冷静な批判を報じ続けている数社の地方紙を、心から応援し、その気持ちをガンガン伝えましょう。


赤川次郎が安倍政権におもねる大新聞とSEALDsバッシングの「週刊新潮」に「ジャーナリズムの恥」と徹底批判
【LITERA】2015.11.03
http://lite-ra.com/i/2015/11/post-1645-entry.html

安保法制の問題が象徴的だったように、いまや新聞メディアは、
政権の言いなりとなった読売新聞や日本経済新聞
「両論併記」病を罹患した朝日新聞(詳しくは過去記事)、
ジャーナリズムを放棄したネトウヨ機関紙・産経新聞といった具合に、
国民の「知る権利」さえ守ろうとしていない

こうした新聞メディアの体たらくに、作家からも嘆きの声が上がっている。

〈戦時下を生きた人々から「今はあのころとそっくり」との声が上がる中、私たちは戦時中の新聞、雑誌などのメディアがどんな報道をしていたか、見直すべきだ〉

こう述べたのは、ミステリー界の大御所作家である赤川次郎氏。
赤川氏は既報の通り、「あまりにも状況がひどすぎるので、黙っていられなくなった」(集英社「すばる」8月号)といい、これまでも度々、安倍政権批判を行ってきた作家のひとり。
今回は、東京新聞「新聞を読む」のコーナーに、『「痛み」に寄り添う報道を』(10月25日付)という原稿を寄稿、
東京新聞の紙面を取り上げながら、最近の報道の歪さを明かしている。

まず、赤川氏が〈最近最も印象的〉だったとして紹介したのは、
「そうだ難民しよう!」というコピーがついた、シリア難民を中傷したヘイトイラストの一件だ。

この、卑しい差別心に満ち満ちたイラストは、はすみとしこという漫画家が、Facebookに投稿し、拡散されたことで批判を浴びた
東京新聞は、名物企画「こちら特捜部」で、「「人種差別」世界が非難」と題し、10月10日に大々的に報じたが、
赤川氏は、この問題を、強い言葉で論難する。

〈戦火に追われて故郷を捨て、命がけで逃れなければならなかった人々の「痛み」を、この漫画家は全く分かっていないのだろう。
しかも、他人の写真をそのままなぞってイラストを描くとは、漫画家としての矜持すら持ち合わせていないのか〉


さらに、赤川氏が憤慨するのは、この差別イラストの問題が、〈国内メディアではほとんど報道されなかった〉ことだ。
しかも、朝日新聞は、赤川氏がこの原稿を寄稿した前日の24日、難民差別イラストを、「差別か風刺か」とタイトルに記してピックアップ。
了見を疑うタイトルだが、こうした問題の本質を、赤川氏はこのように突いている。

〈今、日本のジャーナリズムは、世界が日本をどう見ているか、という視点に立つことを忘れている(あるいは逃げている)。
安倍首相が国連で演説したことは伝えても、「聴衆が少なかった」(10月20日29面)ことには触れない。
ジャーナリズムの役割を放棄している、と言われても仕方ない〉


また、赤川氏は、東京新聞10月19日の第一面を紹介。
それは、安保法制成立から1カ月という節目に、SEALDsが渋谷駅前で行った集会の写真と、
米海軍のロナルド・レーガンに乗船した、安倍首相の写真を並べたものだった。

〈ネットでは、戦闘機に乗り込んだ(安倍首相の)ご満悦の姿が見られた。
「戦争ごっこ」の好きな子供、という図だが、現実に傷つき死んでいく兵士の痛みには、関心がなさそうだ〉


赤川氏はつづけて、9月29日夕刊で取り上げられた、SEALDsの中心メンバーである奥田愛基氏への、殺害予告問題を取り上げる。
赤川氏は、この問題を、
〈これこそ、安保法に賛成反対を超えて、卑屈な言論への脅迫として、あらゆるメディアが非難すべき出来事だ〉というが、
こちらも、〈ほとんどのメディアは沈黙したまま〉
そして、本サイトでも既報の、「週刊新潮」(新潮社)が記事にした奥田氏の父親バッシングを、〈脅迫を煽っているに近い〉と批判する。
その上で、赤川氏は、「週刊新潮」にこう訴えかけるのだ。

〈「週刊新潮」に言いたい。
攻撃しても、自分は安全でいられる相手だけを攻撃するのは、ジャーナリズムの恥である。
たまには自分を危うくする覚悟で、記事を書いてみてはどうだ〉


赤川氏が危惧するのは、冒頭にも引いたように、現在の報道が、まるで戦時中のように、政権や政策への批判を、極端に恐れているかのような空気に包まれていることである。
歴史修正に加担し、違憲の法案さえ検証を怠り、戦争へひた走ろうとする政権の暴走に目をつむる
言論統制の下、大本営発表を流しつづけた戦争責任を、メディアは忘れてしまったのか──そう誹りを受けてもおかしくはない状態だ。

だが、そんな大メディアが魂を売った状況でも、東京新聞をはじめとして、ブロック紙や地方紙は踏ん張っている。
たとえば神奈川新聞は、安倍首相が、集団的自衛権の行使容認を、閣議決定した2週間後から、「時代の正体」と題して連載を開始。
安倍政権の背後にある、日本会議にスポットを当てて、メンバーにインタビューを試みるなど、さまざまな角度から、政権の問題点と戦後70年を掘り下げた

しかし、この連載には、大きな反響が寄せられる一方、「記事が偏っている」という批判も受けてきた。
そうした意見に、神奈川新聞の論説委員である石橋学氏は、10月16日付の紙面で、
〈私たちはいま、権力の暴走を目の前で見せつけられるという、歴史的瞬間のただ中にある〉と書きつつ、こう返答している。

〈民主主義の要諦は、多様性にある。
一人一人、望むままの生き方が保障されるには、それぞれが違っていてよい、違っているからこそよいという価値観が、保たれていなければならない。
それにはまず、自らが、多様なうちの一人でいることだ。
 
だから、空気など読まない。
忖度しない。
おもねらない。
孤立を恐れず、むしろ誇る。
偏っているという批判に、「ええ、偏っていますが、何か」と答える。
そして、私が偏っていることが、結果的に、あなたが誰かを、偏っていると批判する権利を、守ることになるんですよ、と言い添える。
 
ほかの誰のものでもない自らの言葉で、絶えず論を興し、そうして、民主主義を体現する存在として、新聞はありたい〉


批判を恐れる大メディアに、読んで聞かせてやりたい言葉だが、彼らがこうしたプライドを失ったいま、市民ができることはただひとつだ。
赤川氏のエッセイ集『三毛猫ホームズの遠眼鏡』(岩波書店)から、最後に、こんな言葉を紹介しておきたい。

〈政権への冷静な批判を、今のジャーナリズムに期待できない以上、私たち一人一人が、「戦争をしない」という意志を強く持つしかない〉
(水井多賀子)
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日本の皆さん、地震大国の原発は、もう二度と動かしてはなりません。私たちも見守ってます。頑張って!

2015年11月03日 | ひとりごと


ようやくどちらの予定も合ったので、超~久しぶりに会いに行ったら、赤ん坊だったメイヴが、おしゃべりしたり歌を歌ったりしてた…。
なんてこった…。
おまけにフィンはもう5歳。
やれやれ…。

ハロウィンの翌日だったので、カボチャさんたちはまだまだ健在。




メイヴはビーになったのだそうな。




部屋の中にもハロウィンの名残が。


壁には恐竜が。


アンドリューとモーリーは、我々と会うと必ず、みんなで音楽を楽しもう~な時間を作る。
今回はメールでまず、家にある楽器の紹介とかもしてきて、こりゃかなり力が入ってるなと、夫と二人でヒソヒソ言い合ってた。

カラオケマイク登場!


その横っちょで、ちょっと冷め気味のフィン5歳。


メイヴはドラムにも興味しんしん。


娘に即興の歌をプレゼントするパパ。もちろんバックバンドは夫とわたし。



小さな子どものおかあさんのモーリーは、だから日本の原発事故のその後をとても気にしている。
会うと必ず、その後どう?と聞いてきて、わたしは知ってる限りのことを説明する。
でも…良いことをひとつも伝えることができなくて、わたしはだんだん恐縮してしまう。

いったいどうして、あんな地震や火山がいっぱいある小さな国に、原発のような危険な施設が50以上も建てられたのか。
いったい誰が、そんな無謀で責任の取れないことを、企画して実行したのか。

それを真っ直ぐに、目と目を合わせて聞かれると、わたしは唇をぎゅっと噛み締めて黙る。

反対した人もいたんだろうね。
でも、そういうものを押し付けてくるような連中は皆、金と権力を十分に持っているから、それらをふんだんに利用して、そういう人たちを蹴散らしていったんだろうね。
この国にも、そういうことは山ほどあるから、事情もわかるし想像もつく。
けれども、あんな事故が起こったんだよ。
もう4年半も経つのに、全く収集の目処が立たないまま、汚染は水や空気や葉っぱや土に、どんどん広がり続けているんだよ。
なのに目が覚めないのはどうして?
目が覚めるところまでには至らなくても、例え芝居でも、こんな事態を招くことになった自分たちの策を反省し、検証し、修正すると言わないのはどうして?
それを許しているのはなぜ?
そして、また稼働するっていうのは、どこの狂った人間が言ってるの?


彼らの家の近くの公園に寄って、秋の終わりを眺めながら、わたしはまた、原発のことを考えていた。







原発再稼働なんて、ほんとのほんとに間違っている。
どうしても動かしたいのなら、まずその前に、事故処理と収集を完全に終え、検証をまとめ、問題を解決してからだ。
だって、今回の事故は、地震と津波がいつかどこかで起こるという、日本の宿命のひとつがきっかけとなって起こったのだから。
そして今は、火山噴火の可能性も高まっている。
これまで自民党は、たまたまそういう大きな自然災害が起こらなかったという幸運をいいことに、起こる可能性がある領土に、危険な施設を次々に建て続けた。
もしものことがあったらどうするのだ、という学者や議員からの警告や質問に、誰ひとりまともに取り合わず、無視を決め込んで。
そしてそのことを、報道機関も黙ってた。
安全だ~安心だ~快適だ~を念仏のように唱え、ありとあらゆる宣伝をし、啓蒙し、金と箱物で地域のつながりを分断し、それを外の人間は見て見ぬ振りをした。







除去することが不可能な放射能汚染、決め手が無い最終処分場、満杯の中間貯蔵所、どれ一つ、明確な解決策が無い。
人は核と共に生きることはできない。
そんなことができるようになると夢見て、大勢の頭脳明晰な人間が、気が遠くなるような時間をかけて研究したけど、それは結局無理なのだということに世界は気づき始めている。







日本の面積は、世界の0.25%でしかないのに、マグニチュード6以上の地震回数の20.5%が集中しているという、文字通りの地震大国。
そんな特異な自然条件を持つ国に、これほどの数の原発が建てられてしまった。
今まで福島原発のような重大事故が起きなかったのは、単なる幸運だったことに過ぎない。
そのことにどうして気づかないふりをしているのか?
気づかないふりをするばかりか、次々と再稼働を企てている国を、報道はなぜ、放ったらかしにしているのか?







原発稼働で潤った福島の、事故後の惨状を見てもなお、原発に頼る暮らしに戻ろうとする自治体が存在する。
原発は麻薬。
一度中毒に陥ったら、なかなか戻れない。
麻薬の元締めは原発ムラの人間たち。
まず彼らを摘発し、刑罰を課し、責任を取らせるシステムを作らなければならない。
それを作ることができる政治家を、市民からどんどん出していかなければならない。























これまで危険と背中合わせに、電力を供給してくれていた、原発所有地に暮らす人々に感謝をしつつ、
安全対策も避難計画も、ろくにきちんと為されていないままの危険な原発を稼働させないよう、国が言うことを聞くまで声を出し続け、
原発周辺のみならず、日本全体、アジア、そして地球に暮らす生命を、危険に晒さないという覚悟をもって、力と知恵を合わせて、原発ムラを退治しよう。







原発は、稼働ではなく廃炉事業に転換し、稼働の時と同じように国策でやるべきだし、予算のサポートももちろんするべき。
廃炉の実現のためには、長い年月と大勢の人出が要る。
国に、その責任をきちんと取らせなければならない。





原発の是非は、エネルギー問題ではない。
人間が近づくと、たったの20秒で死に至るほどの放射性廃棄物を、日本のどこかに埋めるというけど、
そんな場所など無いし、それを10万年も管理するような技術も無い。
こんなバカらしいことを、いかにも重要なことのように偽って、何十年もの間、わたしたちの税金を湯水のように使い続けてきた。
施設のために、人員のために、そして万が一のことが起こった時にかかる費用のために、適当に名目を作り、そこに支払うように仕向けてきた。





こんなデタラメな、横暴な、理不尽な目に、これからも遭い続けていきたい人などいない。
日本から稼働する原発を無くし、全基廃炉を要求する。
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