「また来てしまった・・・」
地下へ続く階段を降りて、しばらく歩いた先にある部屋のドアの前でそう思った。
ドアをゆっくりと開ける。
そこは重厚な家具が置かれた古めかしい洋室になっている。
赤いベルベット生地の一人用の椅子、コーヒーテーブル、絵画・・・
いつもは薄暗い室内なのだけど、今日は部屋に入った途端、次々と室内の灯かりが付いて明るくなった。
すると誰かが耳元で話しかけてきた。
「もうここへ来てはいけない」
そこで目が覚めた。
目を閉じたまま、しばらく今見ていた部屋を思い出していた。
今まで何度も夢の中で行った事のある部屋だ。
でも、夢以外では行ったこともなく、見たこともない部屋。
なぜ同じ部屋の夢を見るのか分からないのだが、たまに忘れた頃に夢の中に出てくる。
そして夢の中に出てくるその部屋は、いつもとても薄暗い。
部屋の中の暗さと同様に、その夢を見ている間も目が覚めてしばらくの間も、なんとなく重苦しい気持ちになっている。
ところが、今日は今までとすこし違っていた。
重苦しい気持ちになったのは、部屋のドアを開けるところまでだった。
部屋に入った途端、次々と灯かりが灯って部屋の中がはっきりと見えると、今まで感じた重苦しさはすっかり消えていた。
そして「もうここへ来てはいけない」と言う声。
温かいその声は、私のために忠告してくれたような気がした。
さて、毎晩のように色々な夢を見ているが、私の場合、どうも日常生活の中でとても気がかりなことがあって、その事に囚われている(執着している)と、地下へと降りていく夢を見るような気がする。
今日見た部屋もしかり、そして時には、暗い洞窟や気味の悪い仏像の並ぶ場所へ行くというのも、これまで何度も繰り返し見る夢だった。
ところがここ最近、そのような場所へ行ってしまいそうになると、周囲がとても明るくなるという夢に変わってきたのが、自分でも不思議だった。
それはもしかしたら・・・
大いなる存在を心から信じられるようになり、そして、いつも一緒にいるという安心感が心の平安をもたらして、見る夢が変わってきたのかもしれないと思う。
ところで、古来から伝承されてきた「いろは歌」の意味というのを最近知った。
いろは歌とは、おなじみの「いろはにほへと」から始まるひらがなの文字こと。
この歌が実は仏陀の教えからきていて、人の人生や生き方を伝えているのだそうだ。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有爲の奥山 今日越えて
淺き夢見じ 醉ひもせず
諸行無常(しょぎょうむじょう) 是生滅法(ぜしょうめっぽう) 生滅滅巳(しょうめつめつい) 寂滅為楽(じゃくめついらく)
人はこの世に生まれてきて、いつまでも若い若いと思っていても、肉体は年齢を重ねてやがてこの世を去らねばならない運命。
若い時には何でも自由にできると思っているけれど、実は何も自分の思い通りにはならない。
人の一生は夢を見ているように、あっという間に終わってしまう。
すべては生じても必ず滅する存在である。
そのどうにもならないという意識や執着を手放し、大いなるものにゆだねた時に、真実のこころの平安と安楽がおとずれる。
日々、自分の出来る限りの努力は惜しまず、やるだけやったら手放して、あとは大いなるものにゆだねることが、心を平安に保つことができる唯一の方法なのではないだろうかと、やっと思えるようになってきた。
地下へ続く階段を降りて、しばらく歩いた先にある部屋のドアの前でそう思った。
ドアをゆっくりと開ける。
そこは重厚な家具が置かれた古めかしい洋室になっている。
赤いベルベット生地の一人用の椅子、コーヒーテーブル、絵画・・・
いつもは薄暗い室内なのだけど、今日は部屋に入った途端、次々と室内の灯かりが付いて明るくなった。
すると誰かが耳元で話しかけてきた。
「もうここへ来てはいけない」
そこで目が覚めた。
目を閉じたまま、しばらく今見ていた部屋を思い出していた。
今まで何度も夢の中で行った事のある部屋だ。
でも、夢以外では行ったこともなく、見たこともない部屋。
なぜ同じ部屋の夢を見るのか分からないのだが、たまに忘れた頃に夢の中に出てくる。
そして夢の中に出てくるその部屋は、いつもとても薄暗い。
部屋の中の暗さと同様に、その夢を見ている間も目が覚めてしばらくの間も、なんとなく重苦しい気持ちになっている。
ところが、今日は今までとすこし違っていた。
重苦しい気持ちになったのは、部屋のドアを開けるところまでだった。
部屋に入った途端、次々と灯かりが灯って部屋の中がはっきりと見えると、今まで感じた重苦しさはすっかり消えていた。
そして「もうここへ来てはいけない」と言う声。
温かいその声は、私のために忠告してくれたような気がした。
さて、毎晩のように色々な夢を見ているが、私の場合、どうも日常生活の中でとても気がかりなことがあって、その事に囚われている(執着している)と、地下へと降りていく夢を見るような気がする。
今日見た部屋もしかり、そして時には、暗い洞窟や気味の悪い仏像の並ぶ場所へ行くというのも、これまで何度も繰り返し見る夢だった。
ところがここ最近、そのような場所へ行ってしまいそうになると、周囲がとても明るくなるという夢に変わってきたのが、自分でも不思議だった。
それはもしかしたら・・・
大いなる存在を心から信じられるようになり、そして、いつも一緒にいるという安心感が心の平安をもたらして、見る夢が変わってきたのかもしれないと思う。
ところで、古来から伝承されてきた「いろは歌」の意味というのを最近知った。
いろは歌とは、おなじみの「いろはにほへと」から始まるひらがなの文字こと。
この歌が実は仏陀の教えからきていて、人の人生や生き方を伝えているのだそうだ。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有爲の奥山 今日越えて
淺き夢見じ 醉ひもせず
諸行無常(しょぎょうむじょう) 是生滅法(ぜしょうめっぽう) 生滅滅巳(しょうめつめつい) 寂滅為楽(じゃくめついらく)
人はこの世に生まれてきて、いつまでも若い若いと思っていても、肉体は年齢を重ねてやがてこの世を去らねばならない運命。
若い時には何でも自由にできると思っているけれど、実は何も自分の思い通りにはならない。
人の一生は夢を見ているように、あっという間に終わってしまう。
すべては生じても必ず滅する存在である。
そのどうにもならないという意識や執着を手放し、大いなるものにゆだねた時に、真実のこころの平安と安楽がおとずれる。
日々、自分の出来る限りの努力は惜しまず、やるだけやったら手放して、あとは大いなるものにゆだねることが、心を平安に保つことができる唯一の方法なのではないだろうかと、やっと思えるようになってきた。