診察室に入ると、主治医の女性医師と目が合った。女医は色白で、口元はマスクで見えないが、首が細長く目がキレイだ。年の頃は、50歳前だろう。私は用意して来たリボンのついた小さな包みを、「バレンタインデーなので」と差し出す。
女医は目を細めて笑顔で言う。「どういうこと?バレンタインは女の子が好きな男の子にチョコを上げるのよね」と、傍の若い看護師に念を押す。その時まで私は、好きな女の子にチョコを渡す日と思い込んでいた。
先月の診察の時、女医の指先と私の指先が触れ、パッチと火花が散った。静電気による火花だったが、私には恋の火花としか思えなかった。ふたりは、結ばれている運命だったと悟った。その時から、バレンタインデーにチョコを渡そうと決めていた。
高齢の男性が陥る妄想の世界を、小説にしたら面白いかも知れない。そんな幻想は夢の中だった。最近、よく夢を見る。早く眠りに就きたくて目を閉じているのに、いつまでも眠れない。夢を見ているのか、妄想しているのか、分からない時がある。
友だちがハン・ガンさんの『菜食主義者』を貸してくれた時、「読んでいて、気持ちが悪くなった」と言った。まだ、半分ほどしか読めていないが、確かに怖くてゾッとする。架空の物語だと思うのに、こんな現実に出会ったらどうしようと恐怖に駆られる。
先に読んだ『すべての白いものたち』とは大違いだった。小説の構造としては、いくつかの章が別々に展開されながら、繋がっていくという点で似ている。才能のある女流作家であることは間違いない。
ハン・ガンさんの小説が頭にこびりついて、アホな妄想の世界が出来上がったようだ。チョコレートではなく、甘いキッスが欲しいと喚きたくなった。バレンタインキッスというフレーズが頭を過る。年寄りには関係ないバレンタインなのに。
ちなみに私の主治医は男性です。トン、トン。