2008年6月、東京の秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込み、通行人をナイフで刺し、7人が死亡10人が負傷した事件の犯人に死刑が執行された。被害者のご家族の中には事件が終わって安堵されている方もあるかも知れないが、なぜこんな残虐な事件を起こしたのかは解明されていない。当時の私はブログにこんなことを書いていた。
「人をたくさん殺せば確実に死刑になれる。できるだけ多くの人を殺せば、マスコミは確実に取り上げる。小中学校時代は成績優秀で、両親も誇りに思い、ちやほやされたに違いない。それが進学で有名な高校へ入学したことで、そのこと事態は親の期待に報いたことであったはずなのに、現実の厳しさに打ちのめされ、自分で自分を“負け犬”にしてしまった。
そういう人はいくらでもいるはずだ。彼のように、だからといって人殺しをしようと考え付く人は余りいない。しかし、ネット社会では犯人の彼を、「よくやった」と英雄に祭り上げる人たちがいると週刊誌が報じていたから同類はいる。なるほど、自分では人殺しなどできないが、やってしまいたいという彼の気持ちと共通するものがある人たちだ。
世の中、そんなに面白いわけはない。けれど、面白いか面白くないか、幸せか不幸せかも生きてみなければ結論なんか出せない。愛する人ができても、一生涯愛し続けることができるか、それもわからない。わかっているのは死ぬ時になってしか、出せない結論ばかりだということではないだろうか。生きてみる、それから考えてみようと私は言いたい」。
それにしても、どうしてこのような無差別な殺戮が生まれてしまうのだろう。命の尊さが軽んじられるのは、なぜなのだろう。自分を愛してくれる人に出会うことができたなら、きっと彼の運命も違ったはずだ。人はいつも愛に飢えている。誰もが愛を求めているのに、どうして自ら与えてあげられないのだろう。
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