友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

社会は理想論を受け入れない

2007年04月20日 23時15分01秒 | Weblog
 人に自分を伝えることは難しい。
 異性が異性に自分を売る込むことは、たぶん人も動物だからできそうなものなのに、近頃では異性のことなど見向きもしない人もいる。本当にそうなのかと、私は理解できない。どんなに歳を取っていても、やはり人はいつまでも異性を意識しているように思う。それは私自身がそうであるからだが、デイサービスで出会う80歳や90歳のお年寄りでも間違いなく異性を意識していると思うからだ。

 人間は一人では生きていけないくせに、他人を理解することやたとえ理解したとしても受け入れることは難しいようだ。利害が一致すれば、人は大抵の場合は相手を受け入れる。特に目先の利害であれば、ハッキリしているから尚更である。男と女の結婚も、昔は男にどれだけの甲斐性があるかが判断の基準だった。財産や収入や学歴が決め手だったのだ。選挙についても同じようなことが言える。

 自分が住んでいる地域の道路だとか側溝とか、こういうものを「やります」といえば、こういう候補は当選する。地域のためになるのだから、当然適した候補というわけだ。国会議員も県会議員も地方議会議員も、当選する候補は有権者である人々に利益をもたらす候補である。人々が地域である場合もあれば、企業である場合もあるし、特定の団体である場合もある。しかし、目先の利益をもたらすことが本当に有意義なのか、私には疑問だ。

 たとえば、当選した候補が全員、それぞれ地域や団体の利益を主張したならどうなるのか。答えは簡単だ。期待に応えるために予算はどんどん膨らんでいく。会社と違って自治体は、収入に関係なく予算を膨らませることができる。住民のためという大義名分があるからそれは堂々と行われるし、議員も有権者も同じ考えだから誰も反対しない。こうして夕張市のような自治体が全国に数え切れないほど生まれた。

 「情報公開を徹底的に行い、住民参加の仕組みを拡大することが自治の基本だ」と、選挙でどんなに訴えてもなかなか有権者の理解を得られない。有権者は目先の利益を優先し、「理想論では政治はできんよ」などと平気で言う。現実論に対して理想論は誠に弱い。歴史もそれを示している。紀元前500年も前の中国で、孔子は「道理が通るようであれば、言葉をきちんとし、行動もきちんとしなさい。そうでなければ、行動はきちんとしても言葉は控えた方がよい」と言っている。また、孔子は「先のことを考えないと必ず身近なところでイヤなことが起きる」とも言う。孔子の時代から正論は受け入れられなかったということだろう。

 しかし、政治家は目先のことにこだわってはならない。たとえ、支持してくれる人が少数であっても、自分の理想とするところを主張すべきだ。「そんな政治家はいないよ」と言う人がいるが、それが本当なら理想論を展開する政治家を育てなくてはならないと思う。私たちがやっている「無党派市民派・自治体議員と市民のネットワーク」は、その一つだと自負している。
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無党派市民派の勉強会

2007年04月19日 20時56分11秒 | Weblog
 私たちは、東海3県の地方議員と市民で「無党派市民派・自治体議員と市民のネットワーク」(通称、自治ネット)という勉強会を行っている。メンバーは増えたり減ったりして、現在は13人だ。議会が開催されない4月、5月、7月、8月、10月、11月、1月、2月に集まり、課題について意見交換や議会活動の問題や情報交換などを行っている。また、1月か2月を目途に一般の市民や議員・職員にも呼びかけ講演会を、秋には一泊での勉強会をも行っている。昨年と今年は1月に、自治ネットとして行政視察を行った。

 自治ネットの目的を規約で次のように定めている。
第2条 この会は、地方自治において住民の視点を基本に、住民が主人公の政治を実現するために、既存の政党とは距離をおくことを明確にして活動し(以下、無党派という)、住民の側に立つことを原点として活動する(以下、市民派という)議員を積極的に増やし、同時に自治体議員の資質や実力の向上、政策実現等のために相互に協力して活動するためのネットワークとする。

 また、会員の条件については
第5条 この会は、本会の趣旨に賛同する次の者をもって組織する。
  ① 政党に所属しない市民。
  ② 自らの自治体に無党派・市民派議員を誕生させようとする前号の市民。
  ③ 自ら無党派・市民派の地方自治体議員になろうとする者。
  ④ 無党派で、政党に所属せずかつ選挙に関して政党の公認や推薦等を得ていない市民派の地方自治体議員。
 2 前項①号、②号の者は、入会申込書を提出し、会費納入を経て入会とする。
 3 前第1項③号、④号の者は、入会申込書と確認書を提出し、運営委員会の承認を得て仮入会とする。この場合、運営委員会は申請から1年以内に入会の可否を決定しなければならない。

 読むとかなり難しいように見えるのは、条例はこんなものだという観点から作ったからだ。かき回されることを恐れて、仮入会や入会拒否もできるようにしているが、これまでは一度のそのようなケースはない。私は個人的には「来る者は拒まず、去る者は追わず」で良いと思っている。自治ネットで議論して一つの結論を導き出すなどはしたことがない。議論して一致すれば一致したように行動し、一致できなければできないのだから、それぞれが別々に行動すれば良い。決して相手を非難したり、排除したりしないし、束縛もしない。

 勉強会は自分自身を高めるためだからだ。自治ネットとして一致すれば、世間に対しアピールの声明も出すし、キャンペーンも行う。メンバーは人間的にも素晴らしい人ばかりなので、一泊での合宿などはかなり熱の入った論議が遅くまで続く。人としての信頼が高まれば、自ずと連帯感も強くなる。しかし、緩やかな連帯でよいと私は思っている。いつでも自由に自分の意見が言えることが一番大事だと思うから。
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お人よし選挙

2007年04月18日 19時03分32秒 | Weblog
 今、選挙の真っ只中である。
 先日、中日新聞のコラム『中日春秋』が、選挙について政治学者の佐々木毅さんの言葉を紹介していた。「選挙に限っての日本人論」である。引用すれば次のようだ。

自分が投票しても「何も変らない」と思っている人が少なくない。だから投票率が低くなる。でも政治家に影響力を行使するため、投票している人がいる。当選した政治家は、その人たちを意識して税金の使い道を決めることが容易に想像できる。投票に行かない人は結果的に、見知らぬ人に税金を進呈しているに等しい。お人よしと思われてもしかたがない。(略)道府県議選の平均投票率は52.25%だった。前回並みだが、二人に一人がお人よしだったことになる。

 ここで言う政治家とはもちろん議員であり首長である。コラムの記者は、投票してくれた「人たちを意識して税金の使い道を決めることが容易に想像できる」と優しく表現しているが、議員であった私から見れば、議員や首長のほとんどが指摘のとおりだ。彼らは当選した時から次の選挙を考えている。組織や地域の応援を受けて当選すれば、当然その組織や地域に「恩」があると考える。だから「恩返し」をしなくてはならなくなる。応援する側ももちろん「恩返し」を期待するから、投票で「恩」を売る。

 私は日本の選挙しか知らないので、どこでもこのような選挙なのかよく知らない。でも情けない気がする。確かに政党も支持団体のために働く。だから投票してくれた人のために働くことは当たり前のように思われている。自民党は企業家や裕福層の代弁者であり、社民党と共産党は労働者の代弁者であり、民主党はどっちつかずの層の代弁者だ。それもよくわからない主張で、それぞれが代弁者であることを隠している。私はこういう日本の政党のあり方に疑問を持っている。これは政党がきちんと、我々は日本をこのような国にしたいという構想を示さないことに原因があると思う。選挙のたびに示されるマニフェストでは、互いに同じようなことを言っているとしか思えない。国会議員の選挙は主義主張で争うことこそが基本だと私は思っている。

 地方議員は地方自治を進めるための役割を担うので、私は極端だけれど、大勢の議員で議会を行うか、そうでなければ代表が首長を務める少人数の委員会方式がよいのではないかと思う。私は自分が住むマンションの自治会の役員を務めたことがあるが、役員は議員の中から選んでいたし、その議員は輪番で行ってきた。すると、「輪番制では活発な時とそうでない時があるから、やりたい人にやらせる方がいい」という意見があった。なるほどそうかも知れない。活発な時とそうでない時があることで何か支障があるのだろうか。役員や議員になれば皆さん一生懸命でやってくださる。結果よりも皆さんが一生懸命でやってくださることの方がマンションにとっては宝ではないかと反論した。私は輪番制こそは民主主義の原点ではないかと思う。
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チューリップを楽しむ会

2007年04月17日 18時19分34秒 | Weblog
 「チューリップを楽しむ会」を開きました。
 昨夜は雨だったので、本当に今日開けるのかと心配しました。たとえ雨降りでも部屋の中から見てもらえばいいからと思い、友人に電話をしました。「大丈夫ですよ。明日は晴れますから」と友人は言います。何しろ彼は晴れ男で、気持ちの良い楽天家です。その一言で、もう他に連絡する必要はないと思いました。そう思う私も考えてみると、ああでもないこうでもないと考える心配性のところのない、極楽トンボのようです。

 彼の予告どおり、朝から快晴でした。ところが風が強く、とてもルーフガーデンでお茶を飲むなんてできません。青空の下で、ゆったりとお茶を飲みながら談笑するというも企画は外れてしまいました。そこで、チューリップが見える部屋にイスを並べて、鑑賞してもらうことにしました。お茶を飲むつもりだったので、コーヒーカップを温め、コーヒーの後には昨日行ってきた高遠で買ってきた饅頭を出すつもりで、日本茶を用意していました。

 朝10時30分、友人たちが次々とやってきました。友人の中に、ガーリックの匂いが食欲をそそるサンドイッチ、今朝採ってきたサニーレタスを使ったサラダ、そして紅鮭の燻製などを持ってきてくれた人がいました。これはもう、お茶よりもワインがピッタリです。そこで急遽ワイングラスを並べ、ワインを抜きました。朝からワインなんてと思いましたが、これが当たりでした。外は相変わらず強風が吹きぬけていましたが、部屋の中はおしゃべりが飛び交っていました。結局、ワインを4本空け、午後2時半くらいまで「チューリップを楽しむ会」は続きました。

 風が強いのでチューリップはかわいそうです。風さえ治まってくれれば、朝晩の気温が低いので、花はまだ咲き続けてくれそうです。よろしければ見に来てください。
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高遠のサクラ満開

2007年04月16日 21時32分17秒 | Weblog
 伊那の高遠へサクラを見に行ってきました。
 今日は私の誕生日です。それを意識してか、全く意識していなかったのか、4日ほど前にカミさんが急に、「月曜日は何も予定は無いわよね」と言う。「ウン、特には無いけど」と答えると、「高遠のサクラが満開だから見に行きましょう」と言う。「何時に起きればいい?」と言うので、「6時出発が限度だろうね」と話した。起床したのは5時30分だったが、6時に出発することはできると思っていると、「パンとコーヒーくらいは食べていきましょう」となかなか悠長なことを言う。結局、出発は6時30分を少し回ってしまった。

 駒ヶ根サービスエリアでお茶を飲んでいると、お客の女性が店員さんを捕まえて、「これから高遠へ行くのだけれど、高速は空いてるのね」と話す。すると店員さんは「降りてからが混むんですよ。できればシャトルバスを使われた方が良いですよ」と言う。やはり平日でも見に来る人はいるのだ。どうするべきか、伊那インターを降りた時はそれほど車は無かった。観光バスも見なかった。それが城跡の公園に近づくに従い、車は増えた。それでも渋滞にはならずに流れていたので、この流れに任せることにした。河川敷の無料駐車場にスムーズに入ることができ、しかも余り遠くない都合の良いところに留めることができた。

 高遠は寒かった。日差しが無いせいだろうが、気温は8度から10度くらいだ。花見の客の中にはダウンの外套を羽織っている人がいるくらいだ。暑くなれば脱げばいいからと思ってセーターを着てきたが正解だった。城跡の公園に入ったのは9時を過ぎだったが、この時は案外に人が来ているなと思った。それが10時を超えると、にわかに人が多くなったように感じた。平日のデパートのお客の大半がお年寄りであるように、ここ高遠の花見の客もお年寄りか、婦人のグループが圧倒的に多い。

 高遠のサクラは、タカトウヒガンザクラという種類のもので、ソメイヨシノとは違って花がピンク色だ。芯の部分は紅色といっても良いくらいに赤い。だからとても華やかだ。明治になってから植えられたもので、200年近い時を経て、それはそれは見事という他に言葉が無い。初めにこの城跡に1500本のタカトウヒガンザクラを植えようと思いついた人はエライ。今から計画しても百年、2百年先でなければその見事さはわからないのだから。わからないことに人々は金も労力も出さない。その良い例が、破産した北海道の夕張市だ。炭鉱がダメなら観光でと、次々に税金を注ぎ込んだ。コレを批判した市長候補はいたが、夕張市民は税金を観光開発につかう候補を当選させてきた。

 お嫁さんとその両親らしき3人で店を切り盛りしていた屋台で、私はそばをカミさんはラーメンを食べた。3人しかいないからなかなか注文にも来ないし、注文しても品物が出て来ないようで、お客はイライラしている様子だった。味はそれほどでもなかったが、かわいいお嫁さんに免じて良しとしよう。食べ終わって「雨が降ってくる前に帰ろうか」と駐車場へと戻った。すると案の定、雨が降り始め、「ウンがいいな」と自分たちをほめた。家には午後3時半前に着けたから、短い時間ではあったけれど充分に高遠サクラを楽しめた思いがする。

 明日は我が家のルーフガーデンで「チューリップを楽しむ会」を開く。どう勝負しても高遠のサクラとは差がありすぎるが、心を込めて育てた点では変わりない。よい天気になってくれることを祈るばかりだ。
 
 未だに複数の写真を掲載できない。どうして?
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市議選挙の告示

2007年04月15日 21時41分38秒 | Weblog
 地方選挙の第2弾、市長・市議選挙が始まった。
 今朝は5時半に起き、6時過ぎに家を出て、四日市市へ向かった。私の車は軽自動車だから昨日出かけた時は横風が強く、吹き飛ばされそうな怖さがあったが、今朝は穏やかで車も少なく、快適だった。余りに早く着き過ぎてしまったので、開いている喫茶店を探して入った。店主もお年寄りのママだったけれど、客もまたお年寄りばかりだった。テレビで今年のゴールデンウィークが9日から11日間が多いと報じると、「そんなに休みがあってもどこへも行くところがない」「休みの時は仕事だ」「金がなきゃーなんともならんわ」などと話していた。もう一つのグループは競輪か競艇の研究?をしている様子だった。今日は市議選挙の告示だが、ここではそんなことは話題にならないのか、すでに話題になってしまっていたのか、せっかく興味を持って観察していたが、私がいる間は話題にはならなかった。

 そんなものかと思いながら、「無党派市民派・自治体議員と市民のネットワーク」の仲間で四日市市議選に出馬する候補のところへと行く。メンバーではあるけれど、勉強会への出席率が悪い人なので、ちょっと心配な人でもある。それでも幸いなことに、人の良さからか応援に駆けつけてくださった人も何人かいてくださり、ホッとした。中でもマイクを握ってくださる通称「ウグイス」のアナウンサー係りの女性が抜群にいい。そこでまず、演説の練習から始めることにした。候補が話すとそのウグイスさんは「もっとゆっくり」とか「棒読みはダメ。語りかえるように」「強調するところと抑えるところと、抑揚をしっかりつけて」と、いったように何度もやり直しをさせて指導してくださった。午前中は、かなり何箇所かで演説を行った。聞いている限りでは、だいぶ慣れてきたように思った。

 ちょうど新興住宅街で街頭演説をしていた時だ。小さく揺れた。長い間、立ちっぱなしだったので、ちょっと疲れたのかと思った。すると2分後か3分後か、わからないが突然地面が大きく上下に揺れた。地鳴りのような音がしたようにも思った。かなり強く、立っていた私たちには長く感じた。見上げると、電線が激しく揺れている。これ以上揺れるようなら家でも倒れるのではないか、とにかくジッと待つより他はない。もう一度大きな揺れが来るかと思ったが、2回目はなかった。「地震でしたよね」「ああそうですよ。大きかったですね」「こんな体験は初めてです」などと、スタッフで話した。周りも別に被害もなく、演説を聴いてくれた子どもたちも無事だった。

 高速道路を使って帰ってきたが、四日市東インターから南は交通止めだった。幸いにも何事もなかったので、多少遅れたけれど文化勤労会館で行われた『鼓っつ10周年記念公演』に間に合った。鼓っつの仲間は知り合いが多い。指導した先生が「初めは個性が強い人ばかりでどうなることかと思った」と挨拶したが、そのとおりだと思った。太鼓集団ながら「芝居」をしたりと、芸達者なところも存分に披露した公演だった。そして夕方のニュースでは無投票当選が決まった地域の市議会が報じられていた。「無党派市民派・自治体議員と市民のネットワーク」のメンバーの一人も無投票当選した。これからの4年間、しっかり市民のために市民の目線で働いてもらいたいと思う。
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酒を酌み交わす

2007年04月14日 23時33分14秒 | Weblog
 先日、退院した友人を見舞いに行ってきた。
 中学・高校と仲が良かった友人が何人かいるが、中でも高校卒業の後、家庭教師を終えてから一緒に居酒屋へ出かけていた仲間が4人いる。3人は大学に入学していたが、1人は浪人中だった。この浪人が毎夜のごとく現われ、居酒屋へと通っていた。私たちが学生だったからか、店の女の子たちは注文もしていないビールや料理をせっせと運んできてくれた。9時半過ぎに店に行き、閉店になるまでいたので、終わりがけには「残り物だけでどうぞ」と言って差し入れてくれた。きっとよく食べる客だったのだろう。未成年なのだから酒はダメなはずだが、誰も咎める人はいなかった。

 そういえば、会社に入れば新入社員の歓迎会があり、大学に入れば新入生の歓迎会がある。どちらも新人はしこたま飲まされるのが普通だ。最近の大学では、コンパで死者が出たこともあって、一気飲みに注意するように指導されているという。社会全体が18歳になったならば社会人とみなしているから、未成年の飲酒・禁煙の法は実質的には反故にされている。浪人中の男は店の女の子の一人に入れ込み、閉店後は彼女のアパートまでみんなで送っていったこともある。たしか、四国から出てきたばかりで16歳だった。

 大学2年の時に、材木屋だった我が家は破産し、兄夫婦は離婚、妹は上の姉のところで厄介になり、私は大学の先生の家で書生となった。先生の子どもの家庭教師をするとともに、車の運転や家事の手伝いをした。各人がそれぞれ忙しくなったこともあり、4人で居酒屋へ行くことはなくなった。大学を卒業してからは、ますます交流はなくなったが、4人のうちのひとり(退院した友人)の結婚式では司会をさせてもらった。彼の奥さんとなった人は、高校3年生の時、彼の口から好きだと聞いた女性で、彼の高校の後輩である。私は中学・高校とキリスト教会に通っていて、中学3年の時にはクラスの男子の半数を教会に連れて行っていた。その教会で二人は知り合ったのだ。

 退院したと聞いたので、電話すると友人が出た。喉の手術をしたので聞き取りにくい。「元気か」と聞くと「元気だ。身体の芯は毎日アルコールで消毒している」と言う。「ナニ!酒が飲めるのか」と言えば「おお、人生の消毒をしようや」と言う。そしてハガキが来て「24時間電話の前で待っていますから、早めにTEL下さい。←本気!!」とあった。私は一緒の酒を飲んで、彼の嫌いな昔話をしようと思った。浪人した友人を誘い、二人で酒とワインとつまみを用意して出かけた。5時半くらいに着いて飲み始め、11時半くらいまで飲んでいたのではないかと思う。いくら飲んでも彼は正気だった。私も負けずに正気だったはずなのに、彼の家を出る時から、直立できないくらいフラフラだった。どうやって家に帰ったのかも定かではない。

 酒を持って見舞いに行くと言うと、カミさんは「退院したばかりの人にお酒なんか飲ませていいの」と心配したが、私は彼ができるならば早く決着をつけたいと思っていると感じた。私は彼の望みに応えてやりたいと思った。「あなたは本当に冷たい人ね」とカミさんは言う。確かに私は冷酷な人間かも知れない。本当に彼がこの世との早い決着を望んでいるのかわからないが、私にはそう感じたし、友だちだから願いに応えてやりたいのだ。私は「高瀬舟」の下手人ほどの度胸はないが、せめて酒を飲み交わすことくらいならばできる。

 彼はいつもニヒルでダンディーだった。ダンディーというよりも自分のスタイルにこだわっていた。ちょっとひねくれて見せていたが、とても優しかった。いつも人のことを気にしながら、「どうして人のことを気にしなくてはならないのか」と言っていた。願わくば、文学者のように髭をたくわえているだけでなく、自分の半生を文章にでもしてもらいたい。そしてこれからもお互いに死ぬまで、何度も酒を酌み交わす人生でありたいと思う。
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出会いの不思議

2007年04月13日 20時26分00秒 | Weblog
 自治ネットの仲間が身に余るブログの紹介記事を書いてくれました。彼は大手の新聞記者で、私は大手の新聞記者になりたかったのになれず、一念発起して地域新聞を一人で始めていました。議員となって友人と立ち上げた「無党派市民派・自治体議員と市民のネットワーク」の2代目の代表を彼が務めてくれているのも不思議な縁です。


▽わたしの知人が大変優れたブログをつくっています。
友々素敵というブログです。
いまから12~13年前、新聞記者として愛知県の春日井市や小牧市、犬山市、岩倉市あたりをカバーしていた時期があります。
そのあたりの自治体回りをしていて知り合ったのが、「友々素敵」の筆者です。
わたしは、1995年8月31日付けで新聞社を辞め、9月1日には成田から、かねてからの夢だった半年間の地球一周一人旅(航空券、現地での交通費、宿泊費、食費などすべてをひっくるめて、半年間で100万円を上限とする旅でした)をしました。
当時、30代半ばを回っていましたので、少々体に無理がきき、しかも社会に後戻りのできるのはラストチャンスかなと思い、それさえ実行すればあとは思い残すことなく松阪にUターンすることを決めての旅でした。
「友々素敵」の筆者とは、人生のそんな過渡期にさしかかる折に知り合ったのでなおさら思い出深くありました。
同業他社の人で、たまに、市役所とかで会ったとき話すぐらいでしたが、覚えていました。
再びお目にかかったのは、まったくの偶然。
4年前、わたしが新人として市議会議員選挙に立候補するため、名古屋で開催された「無党派・市民派選挙」直前講座に参加したところ、ロの字型に囲ったテーブルの真正面に座っていらっしゃいました。
そして迎えたわたしの選挙を手伝ってくれました。
以来、交友が続いており、いつも確かな助言をいただいています。
わたしと違って、瑞々しい文体で、こくのある文章をしっかりと書いているブログなので皆さんもときどきのぞいてみてください。
(略)議員となって満4年というサイクルを迎えたことに変わりなく、独特な感慨をもって、きょうの県議選の投票日を迎えています。
そんな心境もあって、ふと昔話を書いてしまいました。
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神楽坂で食事する

2007年04月12日 22時04分42秒 | Weblog
 神楽坂は文字通り坂の町だ。
 東京は坂の多い街で、地名にも多く残っている。坂があれば当然低いところもあるわけで、谷がついた地名もある。私は半年ほど東京で暮らしたことがあるが、神楽坂を歩いたことはなかった。カミさんの友だちが言うには「田中角栄さんのお妾さんが住んでいて、子どもが二人いたの」だそうだ。「お妾さんのところへ通うために、一方通行の通りを夜は反対向きにしてしまったのよ」とも言う。情報通の彼女の案内で、テレビドラマ『拝啓父上様』のロケが行われた場所にも連れて行ってもらった。残念ながら私たち夫婦はこのドラマを見ていないので、「えっ!ここが!」という実感はないが、なるほど舞台になりそうな場所だと思った。

 神楽坂は花柳界の町で、人ひとり通れるだけの幅しかないような細い路地が迷路のように続いている。そんな裏道を歩いていくと、全く普通の家なのに創作西洋料理店の看板があったり、そうかと思うとトンテンシャンと三味線でも聞こえてきそうな和風の家があり、思わず石畳の中へと入っていきたくなるような高級料理店もある。こんなところを毎日歩いていたなら、いろいろ想像力が働いてしまうような気がした。きっと昔の政治家や小説家はこの坂を人に会わないようにと馴染みの家へ足早に駆けていったのだ。

 そんな一軒の京風料理店に案内してもらった。友だち夫婦はカミさんの中学時代の同級生で、ダンナは京大卒の秀才である。私とダンナとはカミさんの友だちの夫ということしか接点が無い。それが旧知の仲のように話が弾み、楽しかった。きっと互いに社会的な地位が無くなり、何を話してもかまわなくなったからかも知れない。

 二組の夫婦は全く別々なのに、非常に似ているところもあり、面白いものだと思った。カミさんと友だちは高校・大学も一緒で、いつも行動を共にしていた。カミさんとダンナは理数系で数字に強いのに、私と友だちは文系で数字に関心が無い。ダンナは家いる方が好きなのに、友だちの方はそれを心配している。ダンナが「船旅にでも行こうか」と言うのに、友だちの方は「船の旅ではいつも一緒にいなくてはならないからイヤ」と言う。

 買ってあった新幹線に乗り遅れてはいけないからと気を遣ってくださったが、いつまでも話していたい気持ちだった。東京駅では、カミさんのやはり中学時代の同級生がわざわざ駆けつけてくれた。背の高いいい男だったから、二人で少し話をさせてあげようと、孫の土産を買いに離れた。良い友だちに恵まれ、本当に幸せだと思う。年寄りになってみて、一番感じるのは気兼ねなく話ができる友だちがいることくらい幸せなことは無いことだ。

 ありがとうございました。またいつか、お会いできることを楽しみにしています。
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東京はサクラ吹雪

2007年04月11日 15時33分56秒 | Weblog
 昨日は東京へ行ってきた。
 東京都千代田区にある山種美術館で、春恒例の「『桜さくらサクラ』展をやっているから見に行かない」と、カミさんが言うので出かけた。山種美術館は千鳥が淵のそばにある。それなら靖国神社と国立近代美術館も観られるだろう。カミさんは千鳥が淵の桜を見るつもりらしかったが、何しろ今年は全国で一番早く桜が開花した東京である。残念ながらサクラ吹雪も終わりかけで、葉サクラになりかけていた。しかし、新幹線から見る景色はさくら・サクラだった。日本の春はやはり美しい。

 靖国神社に言ってみたいと思ったのは、もちろん小泉さんのおかげである。靖国神社は知識としては知っていたが、意識の中にはなかった。神社の中にある歴史資料館「遊就館」を見てみたいと思ったのだ。ここには戦争の悲惨さを抜きにした戦争の歴史があった。ざーっと見るだけのつもりだったのに、やはり素通りではいかなくて、結局かなり時間をとってしまった。11日には中国の首相が来日するというので、「中国共産党殲滅」のゼッケンをつけた数人の若者が日の丸を掲げてやってくるのにも出遭った。

 靖国から千鳥が淵に沿って歩き、山種美術館へ行く。期待ほどの展覧会ではなかったが、たくさんの人が訪れていた。この美術館で「近くに食事をするところはありますか」と聞く人が余ほど多いのか、受付に周辺の地図が置いてあった。その地図を見て、近くのステーキハウスに入った。2時を回っていたのに中は若者で込んでいた。洋食にしようと思ったのは、夕食はカミさんの友だち夫婦と食べることにしていたから、まず案内してくださるのは和食だろうと思ったからだ。この洋食店が若者が多いから高くはないなと思ったが案の定ランチメニューがあって、1千円ちょっとで食べられた。若者が多いということは同時に量も多く、年寄りの私たちには少し多過ぎた。

 ここで、3時の約束を30分伸ばしてもらい、急いで国立近代美術館に行く。間に合わないといけないからタクシーを拾おう。探していると向きが反対のタクシーをカミさんが捕まえた。申し訳ないけれど近代美術館へと言うと「いいですよ」と気分良く走ってくれたが、「国立近代美術館工芸館ではないですよね」と言う。「近いですからここでいいですよ」と言ってタクシーを降りる。さてどこかと見渡すと隣である。近代美術館では『靉光展』をやっていた。シュールリアリズムの先達といわれているこの画家の作品展はめったに見られないからぜひ見たかった。36歳で徴用され、38歳で上海の野戦病院で亡くなっている。終戦の直前である。しかし、作品の数は実に多かった。天才は多作であるというのは当たっているように思った。

 ここから待ち合わせの九段下の地下鉄入り口までは歩いて10分だ。たどり着くと二人が待っていてくれた。「新宿御苑は4時に閉まってしまうから神楽坂に行きましょうか」と言うので、再び地下鉄に乗って神楽坂に行く。「今、神楽坂は若者に人気なのよ」と教えられる。この続きは明日また書くことにする。
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