先日、中学時代からの友だち5人で新年会を開いたが、その中の一人と待ち合わせの1時間前に出会って喫茶店で話していた。私たちの席の後に40代の男性と20代の女性のカップルがいた。喫茶店に入った時から、この二人から漂ってくる雰囲気は異様だった。何を話しているのか、全くわからなかったが、突然に女性の声が大きく甲高くなった。「だからいつも気をつけているわよ。あなたが困らないように、食事中とか皆さんが一緒にいる時とか、そんな時に電話したことなんかないじゃーない。」と、だんだんヒステリックな口調になってきたから、聞きたくもない二人のやり取りが耳に入ってくる。
男は何を言っているのかよくわからないが、とにかくそんなに興奮するなというようなことを言っていた。そのうちに若い女性は、「いつもそうやってごまかしてばかりいて、もういいわよ。迷惑なんでしょう。わかったわよ。もう電話はかけない。これっきり会わなければいいんでしょう。」と泣きながら席を立って店を出て行ってしまった。男は、私からすれば、どうしてこんなうすのろなアホな男に惚れるのか、と思うような中年男で、やっぱり後を追うべきかと思ったのか、1・2分してから席を立ち、勘定を支払い、女性が消えた方へ追いかけていった。
私たちが話をしていた喫茶店の前を男は4度も行ったり来たりして、携帯電話を何度も掛け直していた。「不倫の結末は悲しいね」と私が言うと、友だちは「えっ、何が?」と聞き直す。「あれ?僕らの後の二人の言い争いに気がつかなかったの?」と私は改めて彼に聞いてみた。彼は何が?という顔をしている。彼には12年間も付き合ってきた女性がいる。しかし、彼自身は不倫だとは思っていない。確かに一緒に食事をしたり映画を見たりドライブに出かけたりしているが、SEXはしていないから、人から非難されることはしてないと考えているのかもしれない。
老いて恋することは悲しいね。若い人なら相手の肉体も自分のものにしてしまうだろうに、自分が老いていることを知っているだけに、臆病になっている。肉体が言うことを利かないだけでなく、恋すると同時に別れが来ることに対して、逃げているのだ。恋は何も肉体だけの関係ではない。相手の心を盗んでしまっていながら、私は何もしていませんとは、言えないだろう。「恋は一時の夢」という。夢に甘えたのだから、その責任は大きい。私は全てを受け止めればいいじゃないかと思っているが、「埒外な奴が勝手なことを言う」としかられそうだ。
運命は神の手にある。人のできることは誠実に生きることでしかない。審判は神に任せればいいではないか。今、我が家のカミさんがかつての同僚との飲み会から上機嫌で帰ってきた。楽しいことがたくさんある人生は、それはそれでいいのではないか。人は皆、何かを求めて生きている。最後の審判はやはり神にしかない。
男は何を言っているのかよくわからないが、とにかくそんなに興奮するなというようなことを言っていた。そのうちに若い女性は、「いつもそうやってごまかしてばかりいて、もういいわよ。迷惑なんでしょう。わかったわよ。もう電話はかけない。これっきり会わなければいいんでしょう。」と泣きながら席を立って店を出て行ってしまった。男は、私からすれば、どうしてこんなうすのろなアホな男に惚れるのか、と思うような中年男で、やっぱり後を追うべきかと思ったのか、1・2分してから席を立ち、勘定を支払い、女性が消えた方へ追いかけていった。
私たちが話をしていた喫茶店の前を男は4度も行ったり来たりして、携帯電話を何度も掛け直していた。「不倫の結末は悲しいね」と私が言うと、友だちは「えっ、何が?」と聞き直す。「あれ?僕らの後の二人の言い争いに気がつかなかったの?」と私は改めて彼に聞いてみた。彼は何が?という顔をしている。彼には12年間も付き合ってきた女性がいる。しかし、彼自身は不倫だとは思っていない。確かに一緒に食事をしたり映画を見たりドライブに出かけたりしているが、SEXはしていないから、人から非難されることはしてないと考えているのかもしれない。
老いて恋することは悲しいね。若い人なら相手の肉体も自分のものにしてしまうだろうに、自分が老いていることを知っているだけに、臆病になっている。肉体が言うことを利かないだけでなく、恋すると同時に別れが来ることに対して、逃げているのだ。恋は何も肉体だけの関係ではない。相手の心を盗んでしまっていながら、私は何もしていませんとは、言えないだろう。「恋は一時の夢」という。夢に甘えたのだから、その責任は大きい。私は全てを受け止めればいいじゃないかと思っているが、「埒外な奴が勝手なことを言う」としかられそうだ。
運命は神の手にある。人のできることは誠実に生きることでしかない。審判は神に任せればいいではないか。今、我が家のカミさんがかつての同僚との飲み会から上機嫌で帰ってきた。楽しいことがたくさんある人生は、それはそれでいいのではないか。人は皆、何かを求めて生きている。最後の審判はやはり神にしかない。