【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

三島由紀夫『豊穣の海』 ―世界解釈とその行方― その3

2000年12月01日 10時45分00秒 | 論文

初出:熊本大学大学院修士論文 平成12(2000)年12月1日(その3)

一部掲載:「三島由紀夫の晩年」

  第37号 首藤基澄先生退官記念特輯号 (「国語国文学研究」 熊本大学文学部国語国文学会 編・2002年2月23日 発行)

 

三島由紀夫『豊穣の海』

―世界解釈とその行方―

         永田満徳

 三 「暁の寺」論―認識とその行方

初めに

「奔馬」において、徐々に露呈してきた本多繁邦の見る者としての立場は飯沼勲の行動を絶えず相対化するものであった。この立場は相対化する思想として展開される「暁の寺」にそのまま引き継がれていくことになる。本多と転生者との乖離はこの時点より決定的になるのである。

「暁の寺」は二部構成である。一部は戦時中の出来事で、インド体験を詳述し、作品全体の均衡を欠くとの批判が出るほど輪廻転生を巡る記述がある。そのインド体験で特に重要なベナレスの「喜悦」は輪廻転生と深く繋がっている。ベナレスで感じた「つねに目前にくりかへされる自然の事象」である輪廻転生というのは、死が完全な終わりであることを意味せず、生の絶対的一回性を大きく相対化するものである。死が新しい生の誕生を促す区切りであるところに、ベナレスの「喜悦」は生じている。ここに三島が仏教の空観と相対主義を結びつける理由がある。絶対的一回主義の身体的世界から相対主義の心の世界への移行を示すのがベナレスの体験であり、第三巻「暁の寺」・第四巻「天人五衰」の導入の役割をはたすことになる。多くの仏教書を読みあさり、輪廻転生の根拠を唯識論に求める。「暁の寺」を『新潮』に連載中の昭和四十四年四月(「『豊饒の海』について」)の段階で、「世界解釈の小説」を書くことを宣言しているのは、この巻でこそ自己を含めたこの世界全体を現象させている究極的な識が阿頼耶識だとする唯識論に援用しながら、本多における「世界解釈」を披瀝しようと思ったからである。

ここにこそ、三島自身が、

三島 でも、あれは初めから頭にあったんです。あそこで生まれかはり哲学をブッておかないと、第四巻がわからなくなつてしまふんです。第四巻では、もうなんにも説明なしに、ただエピソードだけが羅列されてゐるんですよ。この第四巻の世界は、第三巻の前半が前提にならなきや展開できない性質のものなんです。だから、ぼくは読者に目をつぶつてもらつて、第三巻の前半でギューギュー思弁的なことを聞いてもらひ、それを一度忘れてもらつて、第四巻ではカタストローフまで一気に読んでもらはう、といふ気があつたんです。最後まで読んでいただくと、その意図がわかつてもらへると思ふんですがね。

「もう、この気持ちは抑へやうがない」「三島由紀夫 最後の言葉」『図書新聞』・昭和四十六年一月二日)

といった真意がある。第三巻「暁の寺」における唯識論が『豊饒の海』四巻の要になっているだけに留まらず、身体の世界から心の世界への転換を示す重要さに触れていると見たい。

     ① 阿頼耶識の世界

本多の熱心な輪廻転生の研究によって未知であり、脅威であった輪廻転生は、「もつとも恐るべきことは、(あの転生の奇蹟も含めて)、すべての謎が法則に化してしまつた」ことによって、本多の認識の一部と化すのである。輪廻転生するのは阿頼耶識で、「一瞬もとどまらない『無我の流れ』としながらも、「すべての認識の根」であり、「阿頼耶識は、かくてこの世界、われわれの住む迷界を顕現させてゐる。すべての認識対象を包括し、かつ顕現させてゐる」という。つまり、迷界としてのこの世界は自己の認識が作り出したものである。本多繁邦は縷々として言葉を尽くして探索した結果、「この世界はすべて阿頼耶識なのであった」と結論づけるのである。

   現在のこの世界は、本多の認識が作った世界であったから、ジン・ジャンも共にここに住んでいた。唯識論に従えば、それは本多の阿頼耶識の創った世界だった。

ということであれば、『暁の寺』そのものが〈本多の阿頼耶識の創った世界〉であることになる。第一巻から第二巻に至る終始副主人公の役割であった本多がこの巻では主人公の座に躍り出たことを意味している。従って、このことは主人公の転調とは捉えず、清顕・勲・本多という流れにこそこの物語の一貫した意図を読み取ることができる。本多こそは、これまでの主人公に比べて、より現実に近い人物である。『豊饒の海』の最初の二巻は傑作ではあるが、三島色のあらわな、いかにも予定調和的で作り物めいている。しかし、『暁の寺』になってくると、我々の人生のように退屈で、何が出てくるかわからないほど混乱している。本多が心の世界、有言語領域の住人であるからである。

     ② 認識の世界―心の世界

   ……ここに思ひいたると、本多の目には、周囲の事物が今まで思ひもかけなかつた姿で眺められてきた。

 これは唯識論の「真の意味」を知り得たという直後の感慨であるが、その後の「暁の寺」二部の展開を見れば基本モチーフを示しているといわなければならない。昭和二十年、アメリカ軍の空襲を受けて焼け野原になった渋谷の情景に対して、本多の心はこの「焼跡」さえも「顕現」させ、「破壊者」は自分自身であったと気づくのである。この阿頼耶識は本多の理解した阿頼耶識と言ってもいいのだが、それだけに特異な認識で、「日ごと月ごとにますます破滅の色の深める世界を受け入れる」ことにしても、「刹那刹那の確実で法則な全的滅却をしっかり心に保持して、なお不確実な未来の滅びに備える」ことにしても、「一瞬一瞬の生滅」という阿頼耶識の生成面よりも破滅面を強調するのである。この作品の劇的な幕切れとなった本多の別荘炎上こそは、

  焔、これを映す水、焼ける亡骸、

   ……それこそベナレスだつた。あの聖地で究極のものを見た本多が、どうしてその再現を夢見なかつた筈があらうか。

とあるように、本多繁邦の阿頼耶識による破滅の再現にほかならない。『暁の寺』の登場人物すべてが悪意のある人物であり、破滅型の人物であるのは故なしとしない。本多の阿頼耶識による破滅意識の投影だからである。

 このように、「暁の寺」は繰り返すまでもなく、 本多の認識の織りなす世界が描かれた作品である。第四巻「天人五衰」の門跡の「心々ですさかい」という、すべてを相対化する言葉は本多の『豊饒の海』で辿ってきた輪廻転生が本多の相対的な認識世界のことであったことをみごとに喝破してみせたことになる。

ところで、本多繁邦の認識の世界は清顕や勲まったく対照的で、徹頭徹尾理性、知性、理智の世界、つまり心の世界である。「たえず世界を要約していなくては不安な心、まだ記録されていない現実は執拗に認めまいとする頑なな心」をもつ「癖」があり、「一旦理知をとおすことなしには、決して外界に接しない性質」を持つかぎり、理智の世界から抜き出すことができないといってよい。ドイツ文学者の今西もまた、四十そこそこで独身であり、かつ想像の世界をもった人物として登場する。今西は、「石榴の国」と名付けた「性の千年王国」を夢見つづけている。「石榴の国」は、「この世のものならぬ美しい児」=「記憶に留められる者」と、「醜い不具者」=「記憶を留める者」の二種類の人間によって成立する。そして、美しい人間は、記憶に留められるために、若く美しいうちに、不具者によって殺されてしまうのである。この今西の想像の二項対立的な王国は、ほとんどそのまま本多の認識の雛型であり、『豊饒の海』のテクスト内における構造説明と言っても過言ではない。今西の造型はいささか戯画化されているが、本多の二項対立的な心の世界を明確化する役割が担わされている。その意味で、もし転生者が「心の流れ」によって引き継がれていくとすれば、心の世界の徹底化された自意識の持ち主透こそは、今西の生まれ変わりといっても過言ではない。

    ③ 認識の世界からの脱出

そのような本多の世界で、本多の「認識の目を免れしむる」ものが存在する。それはベナレスの体験とジン・ジャンの存在である。本多の認識の世界を此岸とすれば、この両者は彼岸あり、『暁の寺』はこの此岸と彼岸の対立のドラマであると言っても過言ではない。

 「ベナレス。それは華麗なほど醜い一枚の絨毯だった」と認識する本多にとって、

   自分の理智が、彼一人が懐ろに秘めた匕首の刃のやうに、この完全な織物を引き裂くのではないかと恐れた。/要はそれを捨てることだつた。少年時代から自分の役割と見做した理智の刃は、すでにいくたびかの転生の襲来によつて、刃こぼれのしたまま辛うじて保たれてゐたが、今はこの汗と病菌と埃と人ごみの中へ、人知れず捨てて行くほかはなつた

というほどの反理智の世界が〈ベナレス〉であった。〈汗と病菌と埃と人ごみ〉こそが本多がいまだかつて経験したこともない、本多の日常世界と隔絶した反理智の世界である。本多は自分の理智を捨てさえすれば〈ベナレス〉という彼岸の住人に成れることを知り過ぎるほど知っていた。しかし、その不可能性を知らしめたのは外ならぬジン・ジャンであった。

 ジン・ジャンの存在また、「彼の認識慾の彼方に位」するものであった。本多にとって、ジン・ジャンは「精力」信仰の対象であるヒンズー教のカーリー女神の変形であり、あるいは密教の孔雀明王と同一化される聖的女性である。そうであるがゆえに、

   ジン・ジャンを、決して手の届かぬ(そもそも彼の手の長さと認識の長さとは同じ寸法だつたから)、決して認識の届かぬところへ遠ざける作業だつた。

といった、本多の認識の及ばぬ存在として描かれざるを得えなった。そのような存在でありながら、五十八歳の本多を「生の放つ魅惑によつて」「誘惑」するのである。ジン・ジャンが「本多を不断の生へといざなふ」のは本多が認識の不毛の世界に生きてきたからである。しかし、そのようなジン・ジャンを、

   インドのあのやうな体験から、この世の果てを見てしまつたと感じた本多は、認識の爪が届かぬ領域へ獲物を遠ざけることによつて、日だまりに横たはり、樹脂のこびりついた毛を舐つてゐる、怠惰な獣の嗜慾をわがものにしようと思つたのである。

とあるように、認識とは対極にあり、認識の及ばぬ領域に存在するものとするのである。ジン・ジャンにしても、本多のそういうインド(ベナレス)の宗教体験と見合う形で形象化されているとみてよい。ここに、本多繁邦の痛ましいほどの理智の呪縛と反理智への希求の立場が窺える。

     ④ 認識の呪縛からの癒し

 それにしても、認識という理智の対極にインドの体験があるとすれば、インド(ベナレス)の体験は本多の精神世界にある作用を及ぼしたからにほかならない。それは、

   未知にむかつて噛みつき、すべてを既知の屍に化し、その死体置き場の領域へ組み入れてしまふという認識の恐ろしく退屈な病気を、インドがかつて一度癒してくれたのではなかつたか。

とあることからもわかるように、認識という〈病気〉の〈癒し〉である。本多は病んだ精神の〈癒し〉をインドの体験で学んだことをジン・ジャンに「恋」するという形で求めようとしたともいえる。「暁の寺」第二部がジン・ジャンに対する本多の恋慕の物語という体裁を取るのは無理のないことである。ここにこれまでと違った人物造形がある。創作ノートでは本多の子を生む展開を考えていたらしい。

 しかし、自分の性を知り抜いているがゆえに、「自分の肉の欲望が認識慾と全く平行し重なり合ふといふことは、実に耐え難い事態であつたから、その二つを引き離さぬことには、恋の生れる余地はないことを本多はよく知つてゐた」から、「本多の恋は、認識の爪のなるたけ届かない遠方へ、ますますジン・ジャンを遠ざけやうとする」のである。

ジン・ジャンを水晶の裡に保つことが自分の快楽の本質だと思はれたけれど、持つて生まれた究理慾とも袂を分つことができなかつた。

 ここにしてついに、認識家からはみ出すことができない本多繁邦にとって、ジン・ジャンは〈快楽〉のもつ〈癒し〉には到底なり得ないのである。ジン・ジャンは彼岸の存在であるがゆえに、「一種の光学的存在」であり、「肉体の虹」である。「永遠の不可知」な存在になって行くばかりである。ここに、本多は「エロティシズムの極致」を認め、そこに「死」を想定するのである。

   もし恋の赴くままに認識を否定し、認識から無限に遁れ出ようとし、ジン・ジャンを決して認識の及ばぬ領域へ連れ出そうとすれば、認識の側からの反抗は自殺に他ならない。

とまで考える。無言語領域である〈認識の及ばぬ領域〉への遁走は諸刀の剣であって、認識という〈病気〉の〈癒し〉という面と、認識の〈自殺〉という面とを併せ持っている。認識という〈病気〉の〈癒し〉を求めるならば〈自殺〉しか有り得ないことになる。とどのつまり、「暁の寺」ではさまざまな努力にもかかかわらず、本多繁邦はおのれの認識家としての枠から一歩も出ることなく終わることになる。認識という此岸の敗北は歴然としている。認識がある限り、彼岸へは達しえないと悟った本多にとって、認識の中心である自意識を徹底的に味わい尽くすことが課題になってくる。そして、「天人五衰」では有言語領域での彼岸の達成というものが主題となったと言わなければならない。

終わりに

 認識という猛獣の爪は伸びるばかりで、『山月記』の李徴の自尊心と同様に、その爪を扱いかねている。本多繁邦の認識家としての苦悩は深い。現代人が陥っている認識という心の呪縛をこれほど描き切った小説がありえたろうか。心の世界とその有言語領域の限界を描くことこそがまさしく三島が意図した「世界解釈の小説」であった。ジン・ジャンはもともと第一巻の清顕、第二巻の勲と同様に中心的人物となるところが、適当なモデルが見つからなったことによって、『暁の寺』がふくらみのない小説になったという指摘(松本徹・『三島由紀夫の最期」・文藝春秋・平成十二年十二月)は妥当だとしても、むしろ本多の認識の世界、つまり心の世界とその有言語領域がどういうものであるかを開示してみせたところに意義がある。

    四 「天人五衰」論―自意識とその行方

     初めに

「天人五衰」は「暁の寺」の本多の認識、つまり心の世界にさらに錨を下ろそうとした作品である。これは『豊饒の海』を書き続けてきた三島にとって、第一巻・第二巻の身体の世界の対比として必然的に書かざるを得なかった作品でもある。次の初期構想は『豊饒の海』の展開上の内的必然によって変更されたと見ることができる。

   本多はすでに老境。(中略)四巻を通じ、主人公を探索すれども見つからず。つひに七十八歳で死せんとするとき、十八歳の少年現れ、宛然、天使の如く、永遠の青春に輝けり。(中略)

   この少年のしるしを見て、本多はいたくよろこび、自己の解脱の契機をつかむ。思えば、この少年、この第一巻よりの少年はアラヤ識の権化、アラヤ識そのもの、本多の種子なるアラヤ識なりし也。

   本多死なんとして解達に入る時、光明の空へ船出せんとする少年の姿、窓越しに見ゆ。

「バルタザールの死」(「『豊饒の海』ノート」『新潮』昭和四十六年一月号)

   あの作品では絶対的一回的人生というものを、一人一人の主人公はおくつていくんですよね。それが最終的には唯識論哲学の大きな相対主義の中に溶かしこまれてしまって、いづれもニルヴァーナ(涅槃)の中に入るという小説なんです。

           (対談「三島由紀夫 最後の言葉」昭和四十五・十一・十八)

しかしながら、この「天人五衰」の構想に関するコメントにはある共通する語感が含まれている。前者は〈解達〉であり、後者は〈ニルヴァーナ〉であって、ともに仏教思想に淵源する概念である。三島由紀夫はあきらかに登場人物のいずれにも仏教的な世界に昇華する役割を担わせていると言っても過言ではない。

     ① 〈自意識〉の構造

 「天人五衰」はたしかに他の巻と比べて作品としての破綻を指摘することが多いが、しかしこの登場人物の昇天のドラマという構想は無視することはできず、試みが半ば成功し、半ば不成功に終わったことを登場人物の〈自意識〉を手がかりに辿ってみたい。

 〈自意識〉に注目する所以は、登場人物のすべてが〈自意識〉のもたらす悲喜劇に翻弄され、〈自意識〉を、本巻の思想的背景として全編に散りばめられた仏教思想、なかんづく〈唯識論〉と密接にかかわらせているからである。三島によれば、〈唯識論〉では「識」というものを八つの層に区分する。最初の五つは眼・耳・鼻・舌・肌のいわゆる五感である。第六の「意識」は、それらを統合する身体感覚であり、第七の末那識はそれらすべてを実態であるかのごとくに錯覚させる、それ事態は虚妄にすぎぬ〈自意識〉である。「天人五衰」は究極的には同じ本多家の住人になることになる本多繁邦・秀・絹江の三者の物語ということになろう。この三者に共通するものこそ、強烈な〈自意識〉である。例えば、本多と秀の場合、

   本多と少年の目が会つた。そのとき本多は少年の裡に、自分と全く同じ機構の歯車が、同じ冷ややかな微動を以て、正確無比に同じ速度で廻つてゐるのを直感した。どんな小さな部品にいたるまで本多と相似形で、雲一つない虚空へ向つて放たれたやうな、その機構の完全な目的の欠如まで同じであつた。

とあるように、それはまたまさしく「本多の自意識の雛形」であると言ってよい。最初に出会った瞬間、すでに本多と透の両者には〈自意識〉を介在させたところで〈相似形〉をなしていた。この本多と透との〈自意識〉の〈相似〉はむろんのこと、

   彼は自分より五つの年上のこの醜い狂女に、同じ異類の同胞愛のやうなものを感じてゐた。

二人の硬い心、一方は狂気によつて保障され、一方は自意識によつて保障されてゐる

とあるように、透と絹江もまた〈同胞愛〉という共通項があり、狂気という〈自意識〉によって透と関わりを持つことになる。しかし、この三者の関係を〈自意識〉によって括るとしても、その〈自意識〉の質には微妙な違いがある。透と絹江は若さの〈自意識〉とでも言えるものであって、本多は老いの〈自意識〉とでも言うべきものである。また、絹江は狂気の働きで〈自意識〉を逆手にとることによってその無傷性を保持している。それに対して、本多と透は、

   この少年こそ純粋な悪だつた!その理由は簡単だつた。この少年の内面は能ふかぎり本多に似てゐたからである。(中略)その生涯を通じて、自意識こそは本多の悪だつた。この自意識は決して愛することを知らず、自ら手を下さずに大ぜいの人を殺し、すばらしい悼辞を書くことで他人の死をたのしみ、世界を滅亡へみちびきながら、自分だけは生き延びやうとしてきた。

とあるように、〈自意識〉の持つ〈悪〉に染まっている。透のその〈悪〉は若さゆえに、よく言えば純粋で、悪く言えば無自覚でさえあるが、本多のそれは、老年に至る人生の経験によって〈自意識〉の〈悪〉を十分認識しているだけに質が悪いと言える。そして、老いによる〈自意識〉の無残さは本多に象徴されていて、特に本多における老いの〈自意識〉の問題が章を追うごとに浮かび上がってくる仕組みになっている。

 このように、登場人物すべてに〈自意識〉による汚濁の痕跡が見受けられ、本巻の主眼が〈自意識〉の諸相を描くことに置かれ、本巻が〈自意識〉の物語と見まがうばかりである。

     ② 〈自意識〉からの脱出

 そもそも、この〈自意識〉は〈見る〉という行為と切り離せないもので、透ほど〈見る〉ことに執着している者はいない。

   眺めることの幸福は知つてゐた。天賦の目がそれを教えた。(中略)もはや見ることが認識の足枷を脱して、それ自体で透明になる領域がきつとある筈だ。/そこまで目を放つことこそ、透の幸福の根拠だつた。透にとつては、見ること以上の自己放棄はなかつた。自分を忘れさせてくれるのは目だけだつた。

   不可視のものを「見る」とはどういふことか?それこそ目の最終的な願望、見ることによるあらゆる否定の果ての目の自己否定なのだつた。

 これらの記述からもわかるように、〈認識〉が〈自意識〉と置き換えられるならば、〈見る〉、つまり〈自意識〉の徹底が究極的には〈自己放棄〉、ないし〈自己否定〉をおのずから招来することを期待することになる。これは〈自意識〉からの脱出ということができる。それほどに〈自意識〉の〈足枷〉にがんじがらめになっていることを示している。言わば、その〈自意識〉からの開放の過程そのものがこの小説の筋の展開となっていることはまちがいない。

それぞれ〈自意識〉を内在させている登場人物のうちで、〈自意識〉の温存というかたちではあるが、狂気によって〈自意識〉をそのままに転位させて、本多や透のような〈自意識〉による自壊を免れているのは絹江ひとりである。この絹江の〈自意識〉の転位は、

   絹江は狂気によつて、あれほど自分を苦しめていた鏡を破壊して、鏡のない世界へ躍り出すことができた。(中略)古い玩具の自意識を五味箱に捨ててしまつてからは、精巧無比の、第二の、仮構の自意識を造り出して、人工心臓のやうに、それを自分の内部にきちんととりつけて、作動させることができるやうになつた。

と言うほど完璧なものである。それに対して、透は〈自意識〉の〈悪〉に無自覚であったがゆえに、〈自意識〉による聖化(自殺)を試みて、ものみごとに失敗する。この失敗によって失明した透は、

   透の目が外界を映さなくなつた代りに、もはやその失はれた視力と自意識に何の関はりもない外景は、緻密に黒いレンズの表を埋めるようになつた。

とあるように、〈自意識〉の世界から隔絶してしまう。これは、皮肉にもある面から言えば、〈自意識〉の網目から逃れることができたと言える。田中美代子氏が「阿頼耶識とは、その先にある「一瞬もとどまらない『無我の流れ』」なのだった。即ち、それこそ失明後の透の姿が体現しているところのものであろう」(『天人五衰』解説・新潮社文庫・昭和五二・一一)とまで言い切っている。とすれば、透もまた、〈自意識〉の瓦解という精神の死によって「ニルヴァーナ(涅槃)」の住人になったとすれば、三島の構想通りの展開であって、よく評されるような破綻を来たした作品だという評価、または透は「贋物」であるという刻印は即刻取り外さなければならない。

 ところで、本多はどうかと言えば、その内面の軌跡を透や絹江ほどには簡単には説明することはできない。その複雑な内面を〈自意識〉の有り様で探るとすると、

   老いてつひに自意識は、時の意識に帰着したのだつた。

という記述があり、この〈自意識〉と同列になる〈時意識〉こそ、本多が老年に達して捉えることのできた〈老い〉の認識と相応するものである。この〈自意識〉の鏡に照らし出される〈老い〉はその〈醜さ〉を余すところなく露呈することになる。

   七十の声を聞いてからといふもの、朝起きてまづ見るのは死の顔である。(中略)今朝もまだ生きて射た、と朝目覚めて、第一に本多に告げるのは、咽喉のこの海鼠のやうな痰の球である。同時に、生きてゐるからにはまだ死ぬ恐れがある、と第一に知らせるのもこの痰の球である。

老いて死を感じるのは何も特別な感慨ではない。しかし、今にして本多は、生きることは老いることであり、老いることこそ生きることだつた、と思ひ当たつた。(中略)

老いてはじめて、本多はこの世に生まれ落ちてから八十年の間といふもの、どんな喜びのさなかにも絶えず感じてきた不如意の本質を知るにいたつた。

とあるように、老いることが生きることの自覚とつながる時、にわかに特異な感慨としてクローズアップされてくる。「卑俗の最大唯一の原因は、生きたいという欲望だった」と言っていたのは本多自身ではなかったか。〈老いることが生きること〉の自覚は、自分の〈卑俗さ〉をそれはそれで自覚することになる。この〈老い〉は〈死〉を意識することによって、

   死を内側から生きるといふ、この世の少数の者にしか許されてゐない感覚上の習練を、本多はおのずから会得してゐた。(中略)この世をひとたび終末の側から眺めれば、すべては確定し、一本の糸に引きしぼられ、終りへ向って足並をそろへて進んでゐた。

というように、死者の眼・末期の眼と呼ばれるものを獲得する。そして、この死者の眼は「我とは、そもそも自分で決めた、従って何ら根拠のない、この南京玉の糸つなぎの配列の順序だった」とか、「自分は今日はもう決して、人の肉の裏に骸骨を見るやうなことはすまい。それはただ観念の相である」とか考えるように、傍観者としての立場を捨て、諦念・あるいは悟りに近い感慨をもたらす。

 従って、月修寺への再訪は、この悟りの心証をつかみつつある本多にとって、

   自意識こそは本多の悪だつた。(中略)彼が悪を自覚し、悪からつかのまでも遁れ出ようとして際会した印度だつた。

という『豊饒の海』第三巻「暁の寺」の〈印度〉での経験のように、〈自意識〉の悪から身をはがす試みであったろう。というのは、およそ思考の極、認識の極に住するごとく、

   寺は冷光を放つやうになつた。(中略)あたかも彼の認識の闇の世界の極みの破れ目から、そそいで来る一縷の月光のやうな寺に他ならなかつた。

とあるように、月修寺は、〈認識〉の極みとして位置づけられていて、〈認識〉、つまり〈自意識〉の彼岸に屹立する存在であるからである。死の宣告とも受け取れる病を患っている本多にしてみれば、その月修寺へ辿る道は死出の旅路とも言うべきもので、

   本多はそういう標識を見るたびに、冥土の旅の一里塚といふ言葉を思ひ出す。この道を自分がもう一度帰るといふことは理不尽に思はれる。(中略)奈良へ二三キロ。死は一キロ刻みに迫つてゐた。

とあるように、自殺行にも似た行為であって、生きて帰らぬ覚悟で成される体の行為である。そうであるがゆえに、末期の眼よろしく克明に表現されているといえよう。これはいみじくもある言葉を思い起こさせる。日本の文学に連綿と伝えられてきた「道行」という言葉である。いずれも作品のクライマックスにあり、急に調子が高く美しい文章になり、あたりの景色や自然がよみこまれて流れるように死への道を歩むのである。渋澤龍彦が実際の道をたどってみて、あまりにも作品と違うのに驚いている(「三島由紀夫をめぐる断章」『三島由紀夫おぼえがき』・『すばる』昭和五八・七)ことからもわかるように、三島は生涯の最後の作品でみごとに古典派の素顔をのぞかせている。

     ③ 自意識家の末路

 それでも、有名な最終場面、

   この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。

という〈何もない〉世界の描出はいったい何を意味するのか。本多自身の諦念を表していると見る向きがあるが、否である。この虚無化した世界はまさしく本多自身の終局の〈自意識〉そのものを表象していて、彼の〈自意識〉が一向に滅びていないことを示している。なぜなら、本多の〈自意識〉の、

   邪悪な傾向は、こんな老年に及んでまで、たえず世界を虚無に移し変えること、人間を無へみちびくこと、全的破壊と終末へだけ向つてゐた。

とあるように、身の回りの世界を虚無化してしまうのである。所詮、過剰な〈自意識〉を持つかぎり、虚無の目を捨てることはできず、鈴木貞美氏が「もたらされたのは、『唯識』の本質ではなく、色即是空の認識ではないか」(「『豊饒の海』について」『解釈と鑑賞』平成四年九月号)と言っているような〈自意識〉という〈認識〉の網目にすくい込まれるだけである。ここに、三島自身が述べている「この小説の結論が怖い」(「『豊饒の海』について」昭和四十四・二)という真の意味がある。三島は本多が諦念どころか、いずれその〈自意識〉の無残な屍をさらすことを予測していたのである。

「心々ですさかい」という有名な聡子の言葉は唯識思想を語っているといわれているが、相対化視点そのものである。三島自身がそもそも仏教の「空観」と相対主義を同一視しているところに問題がある。ただ、この場面は、「最終的には唯識論哲学の大きな相対主義の中に溶かしこまれてしまつて、いづれもニルヴァーナ(涅槃)の中に入るといふ小説」という意図を込めたものと思われる。そういう作者の思惑に沿うことは危険であるといえるが、有言語の領域の徹底化された世界を描くことにあったとすれば納得がいく。

     終わりに

登場人物が涅槃の中に入るという初期の構想は、透にしても、絹江にしても、〈自意識〉の呪縛から、例えば透のように盲目となることによって断ち切り、絹江のように自殺未遂によって〈自意識〉を逆手にとって解脱、言い過ぎであれば、その契機をつかんだと見てよい。しかしながら、本多は老いて死の認識によって解脱の端緒を他の二人以上に直接的につかむが、結局は〈自意識〉をあらわにするだけである。この三者の相違はひとえに自殺という行為の有無にかかわっている。透も絹江も、未遂であるものの、自殺に踏み込んだという行為に注目するならば、この両者はまさしく行為者ということができる。これは、三島の生涯を通しての課題、「認識」と「行為」の相克という課題が終局の形で示されている。

    五 『豊饒の海』における「ニルヴァーナ(涅槃)」

それにしても、三島由紀夫にとって認識や自意識という心の世界はそれをとことん追求することによって、逆説的に認識や自意識心の世界、つまり長年の文学という有言語の問題からの離脱を企てたのかもしれない。第四巻「天人五衰」のみならず、『豊饒の海』四部作の脱稿の日付が三島自身の自栽決行日と同じ日付になっていることの意味は大きい。決行前に本巻が書き上げられていたとする説の当否は問題ではない。本巻擱筆の日付を自決の日付とした三島の意図こそが大切である。自殺という行為こそが三島において〈認識〉の桎桔から身をはがし、「自意識」のしがらみを脱ぎ捨てる道を選んだということである。自殺というのは決してゆきづまりの結果ではなく、その回避ために行われるのだという。三島にあっては人間存在の不如意による精神の瓦解という最大の危機を回避するためのものであった。その意味で、この最後のカタストローフが精神の崩壊者「本多繁邦への厳しい懲罰」(「悲しみの琴」『文芸春秋』昭和四七年)という林房雄の謂いは正しい。

従って、三島由紀夫の自注自解の中で特に触れられることの少なかった「ニルヴァーナ(涅槃)」は、人の生を一つの枠に見立てて、その中での各種の生き様をさぐり、その徹底化の果てに見えてくる清顕・ジンジャンの彼岸、勲の昇天、本多・透の認識の無を描くことにあったといわなければならない。これこそが世界解釈とその行方に他ならない。

  終章 三島由紀夫の晩年

このように見てくると、『豊饒の海』は本多の認識、透の自意識が心の世界の表象であり、

私の中の二十五年間を考へると、わたしはその空虚に今さらびつくりする。私はほとんど「生きた」とは言へない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。(中略)

   私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまふのでないかといふ感を日増しに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気になれなくなつてゐるのである。

(「果たし得てゐない約束」「私の中の二十五年」『サンケイ新聞』・昭和 四十五年七月七日)

という戦後の嫌悪感と、

私は昭和二十年から三十年ごろまで、おとなしい芸術至上主義者だと思はれてゐた。私はただ冷笑してゐたのだ。或る種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうちに私は、自分の冷笑・自分のシニシズムに対してこそ戦はなければならない、と感じるやうになつた。

   この二十五年間、認識は私に不幸をしかもたらさなかつた。

(「果たし得てゐない約束」「私の中の二十五年」前掲書)

という戦後の内なる心の世界〈シニシズム〉との離脱とが分かちがたく結び合わされていて、みずから意志的につかみつつあった身体の世界で造形された清顯の感情、特に勲の行為が戦後失われてしまった牧歌的な「潮騒」の主人公新治の〈無知〉の系譜に沿う身体の世界との二元的対立の物語として読むことができる。『豊饒の海』の中からこの二元的対立を無知と理智、絶対主義と相対主義、戦前と戦後というふうに取り出しすのに容易であり、新たに身体的世界と心の世界、つまり無言語領域と有言語領域を付け加えておきたい。ただ、無言語領域には魂の世界もある。思えらく、三島は身体的世界の無言語領域そのものが魂の世界であると考えていたのかもしれない。

ここで、高尾氏のAの身体の世界からとEの魂の世界へと辿る人間活動の段階を『豊饒の海』に当てはめてみると、しかし一般の人間活動の段階とは違い、第一巻「春の雪」はCの心の世界とAの身体の世界の中間であるBからAの身体の世界と辿り、第二巻「奔馬」はAの身体の世界そのままの世界を描き、第三巻「暁の寺」・第四巻「天人五衰」はCの心の世界の段階で低回し、最終場面もまたCの心の世界の徹底化の果てそのものの世界を示唆しているといえよう。心から身体に、つまり有言語の世界から無言語の世界に至るという一方の人間活動を押さえつつ、有言語の世界の果てを見尽くすという特異な人間活動の理解こそ、三島の「世界解釈」の意図であったということができよう。これには、「太陽と鉄」(「批評」・昭和四十年十一月)のなかの、

つらつら自分の幼時を思ひめぐらすと、私にとつては、言葉の記憶は肉體の記憶よりもはるかに遠くまで遡る。世のつねの人にとつては、肉體が先に訪れ、それから言葉が訪れるのであらうに、私にとつては、まづ言葉が訪れて、ずつとあとから、甚だ気の進まぬ様子で、そのときすでに観念的な姿をしてゐたところの肉體が訪れたが、その肉體は云ふまでもなく、すでに言葉に蝕まれてゐた。

という特異な生い立ちに淵源が認められる。三島にとって肉体は身体と同等の意味を持つことは言うまでもない。幼児期特異な家庭環境によって人一倍有言語領域になじんだ三島にとって、無言語領域は憧憬の対象であり、無言語領域への没入はおのずから有言語領域との対立を強いるものであった。いうまでもなく、無言語領域への参入こそが昭和四十五年十一月二十五日の割腹自殺であったのである。このように考えて初めて、『豊饒の海』はまさしく無言語領域に対する有言語領域の侵犯の物語であるということができる。三島の晩年に浮かび上ってくるのはこの二種対立する言語領域に佇立する文学者の肖像である。

 

 注1 岡野守也『唯識のすすめ』(NHK出版、一九九九年・十月)参照。

  3 水島恵一『自己探求の心理学』(社会思想社、一九七七年十月)参照。

  4 保坂歴彦『死のう団事件』(角川文庫・平成十二年九月)参照。同じ著者の『三島由紀夫と楯の会事件』(角川文庫・平成十三

    四月)の「あとがき」で、この両事件の類似を指摘している。

  5 先田進「三島由紀夫『春の雪』の世界―禁忌の侵犯をめぐって―」(『日本文芸の潮流』・おうふう、平成六・一)

  6 磯田光一「『豊饒の海』4部作を読む」(新潮社、昭和四十六・一)

  7 田坂昂『三島由紀夫入門』(オリジン出版センター、昭和六〇・十二)

  8 対馬勝淑「三島由紀夫『豊饒の海』論」(海風社、昭和六十三・一)

  9 柴田勝二「模倣する行動―三島由紀夫『奔馬』論」(「近代文学論集」『日本近代文学会九州支部』、平成一〇・一〇

 本文の引用は基本的には新潮社版『三島由紀夫全集』(昭和四十八年~五十一年)に拠った。ただし、そこに含ま れない創作ノートやインタビュー等については雑誌、新聞掲載のものに拠っている。

(終了)

 


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