「ある戦友の死」
塙町栄町 白石照雄
(福島県東白川郡塙町、昭和62年度高齢者講座『高砂文集』第12号から抜粋)
あの山の陰が我々の陣地だ。深い谷を隔てて、一番高い山が眼前に聳え立っていた。「今日は現在地で夜営する。明日未明に出発」と云う伝達があった。
兵隊は少ない米を背襄から出して飯合炊飯に取りかかった。水汲みには谷迄下りてゆかねはならない。栄養失調のため私は脚気になったらしい。特に坂道を下る時、闇節が曲らない。やっとの思いで飯合の米を研ぐ。しかし、研いでいるうちに半分近く白い水になって流れてしまう。もう雨に濡れた米は発酵して砕けてしまうからだ。その時、山服の力でドカーン⋯という音がした。
急いで戻りかけたが、相変わらず脚の関節が曲らない。心急けども遅々として進まず。自分ながら情けなくなった。「お袋よ、私の武運長久を祈る時、この脚が思うように動かすことが出来るよう神に祈ってくれ」と心の中で叫んだ。
やっとの思いで夜営地に戻ると、夕はんどころではない。敵の襲撃を受けたらしい。死傷者が数人あった。
1中隊の丸山上等兵が死亡、村山伍長が左足に重傷をった。他の三人は、尻および肩などに銃弾の破片がめり込んだ。砲弾は迫撃砲らしい。ということは、この近くに敵がいることになる。
一瞬、「我々は敵に包囲されているのかも知れない」という戦慄をおぼえた。
しはらくの間、死体収集や負傷者の救護活動が続き⋯⋯夜になった。
その夜、私は大隊本部の歩哨の任務についた。赤道直下のルソン島といえども、夜になると急に気温が低くなる。
幾度かの戦闘で、敗戦に次ぐ敗戦で、ついにルソン島の北部山岳にやっとの思いで逃避して来た。部隊のほとんどの兵士は骨と皮ばかりの生ける骸骨だ。本隊は「飛行場を守備管理する部隊で、正式名を航空地区司令部」といった。私は通信兵で暗号士だった。
私が、本隊を出発する時は混成部隊で、200余者の規模だった。しかし、昭和20年4月から現在地点に辿り着き、同年8月上旬には84名にに減った。
したがって、100名以上の兵士が戦死あるいは病死または行方不明となった。中には自殺者もいた。
夕食を食べていないせいか体がだるい。また、マラリヤの発作が再発したのだ。体中寒くてどうにもならない。それに、私はアメーバー赤痢に患っていたため、下腹部が痛む。数分置きに便意を催す。早く交代にならないかと、私は天に祈る気分だった。やっと交代の時間が来て、雨宮兵長と交代した。
「何事もなかったか」と尋ねられて、私はハッとした。マラリヤ発作と腹痛とで、私は周囲の状況に対して注意力が散漫になっていた。そのことを悔いた。「何もなかったが、我々は敵に包囲されているかも知れない。あまり広範囲に歩哨しないで、大木の下で警戒していた方がよいのではないか」と私は付け加えた。雨宮兵長もつい2〜3日前までデング熱に罹り、体力は弱っていた。「では気を付けてな」と、私はテントに戻り、急造された野ざらしの厠(トイレ)に駆け込んだ。終わってから、もお湯もなしでキニーネ(薬)を飲んだ。マラリヤの熱がいよいよ最高に達したのか、体の震えが止まらない。
体が寒くて寒くてどうにもならない。そして、下腹が痛む。思って見てもどうにもならないことだが、またしてもお袋の顔が浮かぶ。こんな時、お袋が居て呉れたら⋯。それにしてもこのみじめさ、この情なさをしみじみと噛みしめながら、私は何時の間にか眠りについた。
テントの外で、私を呼ぶ者が居る。出て見ると浅野少尉である。「雨宮兵長が敵にやられた」という。外は明るくなっていた。私は思わず、皆んなが駆けてゆく方向に付いて行った。
雨宮兵長は、テントに載せられ戻って来た。
浅野少尉に「雨宮は生きているんですか」と、私は尋ねた。「生きているが腹部貫通で重傷だ」と浅野少尉は言った。私は一瞬、昨夜の歩哨交代の時に取り交わした言葉が脳裏を駆け巡った。私は雨宮に対して申し訳ないことをしてしまった。「雨宮よ、死なないでくれ。生きてくれ」と私は心の中で叫び、そして祈った。
テントの中に収容された雨宮兵長の意識は、はっきりしていた。私が、近寄って元気付けようとしたが言葉が出ない。ただ涙が容赦なく出る。彼は血の気のない顔、痩せ細った腕を胸に組んで「俺は死にたくない。浅野少尉殿、私を助けて下さい」と言った。私もやっと言葉が出た。私は「死んじゃ駄目だぞ、雨宮。今、衛生兵が手当をしてくれるからな」とはげましたあ。雨宮は、無言のまま頷いた。そして、私たちの部隊は、いよいよ目的の陣地に出発する時間がやって来た。
昨夜重傷を負った村山伍長と雨宮兵長は、担架で運ぶことになった。担架兵が10名および衛生兵1名が選出された。私は雨宮兵長の付き添いとして、担架兵に加えてもらった。
まず、本隊が出発した後も傷の手当てに手間取り、私たちの出発時間はだいぶ遅れた。
村山伍長の傷は左右の膝下、いわゆる「弁慶の泣きどころ」というべき脛部が、迫撃砲の破片で柘榴のように裂け、脛骨が無残にも砕かれていた。止血はしたものの、薄赤い油のような血が垂れる。銀蠅が追い払っても追い払っても、あっという間に群がってくる。
出血多量の故もあろうが、彼の顔面は蒼白である。衛生兵は、残り少ないヨードチンキを瓶から更にに少しづつ垂らし、水筒の水で薄め、ガーゼで傷口の血を拭き取る。
そして適当な副木(そえぎ)にする榾木(ほだぎ)を切って、繃帯包帯の代わりに脚絆(きゃはん)を巻いた。
村山伍長は、しきりに「もう手当てはよいから、ひと思いに殺してくれ」と、うわ言のように叫んでいた。
雨宮兵長は、右下腹部から腰骨を貫通する重傷であった。この傷の状態からみて、敵の射撃距離は数10メートル
と離れて居なかったことが想像される。
もし、私が当番歩哨だったら、雨宮は撃たれずに、私がこのような状態になっていた。
そう思うと、雨宮に対し一層の哀みと大きな借りを作ったような思いで一杯だった。
雨宮は腹膜炎を引き起したのか、腹が大きく膨張し、頻繁に嘔吐した。また、担架といっても、榾木に灌木の蔦を編んで作った粗末なものであった。先発隊の姿はとうに見えなくなった。担架兵にもあせりが出はじめ、架ぐ者同志の言い争いが始った。村山伍長は、しきりに「担架から下してくれ。水をくれ」と叫ぶ。雨宮兵長は眠っているのか、何も言わない。私たちが谷を昇って山道に入ると、コロ(転がすための丸い木材)の下の平な場所でひと休みして、昼飯にすることにした。私は、昨夕準備した飯合に水を入れ、炊飯を始めた。負傷兵は何れも「飯は食べたくない」と言う。それで、私は自分の分だけの炊飯を始めた。ただし、衛生兵の分は、私が炊いてやることにした。
その間、衛生兵には2人の傷の手当てをしてもらった。
飯合の中に、私は貴重な岩塩の粒を入れ、味気のない昼飯が終った。衛生兵も手当てが終って、少し離れたところで昼食をとっていた。
また、私の下腹部が痛みだした。私は、適当な窪みを見つけ用(トイレ)を済ませた。下世話な話しだが、出るのは血便だ。私は、周りに生え繁っている雑草の葉で後仕末(尻を拭く)をする。その時、突然、バーンという鉄砲の音、銃声は2人の負傷兵の方向だ。敵が襲ってきたのか?と、私は突差に身構える。銃の安全装置を外しながら、私は周りの様子を窺う。こんな場所で敵襲に逢ったら、私たちは終わりだ。
一瞬、不吉な予感が私の脳裏をかすめる。ふと気がつくと、雨宮兵長が手を上げて呼んでいる様子だ。駆け寄ってみると、村山伍長が自殺していた。担架兵の1人が、炊飯の時に置いていった銃の引き金に、右足の親指を掛け自分の眉間を撃ったのだ。周り一杯に、彼の脳味噌と血が飛散していた。村山伍長は三重県出身で、小学校の先生をしていたという。日頃は、おとなしく目立たない人であっ
た。きっと、死ぬほど苦しかったのだろう。彼と私は、深い付き合いはなかったが、彼を自殺に追いやったのは、私の「護送兵としての思いやり、彼に対する配慮が足りなかったのではないか」と悔まれた。窪地を見つけ、帯剣で土をかけながら遺体を埋めた。村山伍長が哀れでならなかった。
私は涙が止めどなく流れた。私は、結局、村山伍長の自殺を辞めさせることも出来ず、傍観していたのだ。私たちは「雨宮兵長の心中は如何に」と際しながら、彼を再び担架に載せ出発した。
雨宮は嘔吐の回数は少くなったが、息づかいが正常ではなくなった。衛生兵に様子をたずねたが、「もうどうしようもない。傷口から腸が出ている」という。そして、その日の夕刻、雨宮は担架の上で静かに息を引き取った。担架兵たちは無言のまま、再び友の墓を堀った。私は雨宮に合掌した。涙が鳴咽となった。私は、雨宮に借りを作ったまま生き残った。
私があの世に行ったら、雨宮に聞いて見たいことがある。それは「敵に撃たれたのは、あの大木の下であったのか、それとも別の場所であったのか?」と。もし、あの大木の下で撃たれたとしたら、私の申し送りが彼を死なせたことになるからだ。(終わり)
※かなりの長文なので、英訳は別の機会に投稿いたします。