今日の福井新聞に「ふくい平成あの時その後 京福電鉄2度の正面衝突 廃線危機に住民決起」の特集記事。
京福事故の際にはわたしたち日本共産党も抜本的安全対策を京福本社に要請し、経営を投げ出そうとした際には、責任を果たせ、と求めた。しかし鉄道事業の廃止届がだされ、鉄路は錆びていった。
わたしたち日本共産党は地方議員先頭に沿線自治体を訪問し、電車存続をよびかけ、自治会館でシンポジウムも開催し存続の世論と運動をよびかけた。
県庁の品谷課長に「勉強会にでて話して欲しい」と依頼し、シンポでの講師を快諾していただいた。当時は自民県議だった山岸勝山市長からは「むずかしい課長がよく共産党のシンポを引き受けたな」と声をかけられた。
しかし「県の課長が話す」というのでシンポは注目され、大成功。当時北陸高校の教員だった鈴木先生(故人、鈴木福井市議のお父さん)は会場でも発言され、「電車問題でのはじめての県民的イベントだ」などと評価していただいた。
しかし当時の県議会では電車存続派とバス転換派が拮抗していた。自民党内では、新聞に載っている当時の和田県議と、福井市長になり病で亡くなられた当時の坂川県議が存続を主張。私ともエールを交換していた。
「バス転換容認」などと報道されていた経済界の福井商工会議所にも質問前日に飛び込んで、電車存続もあり、という言質を得て質問でもいかした。あとで会頭がお怒りだった、といううわさも聞いたが・・・・。
一方、勝山市選出県議(故人)が議会で「私はバス存続でもかまわないと思う」と発言。三国方面は福井市内は残し、あとは廃線という案に県民連合議員も賛意。・・・・・などなど厳しい状況がつづいた。
自民党の池田議員(故人)が当時会派の中枢を担っておられたが、議事堂廊下で、私が「これだけの県民の声は尊重されるのでしょうね」と問いかけたのにたいし池田氏は「当然だ。そう考えている」と言下に答えられた。私自身のなかではこの時に電車存続の確信を得た。
当時ご苦労された県庁や市町村役場の関係者、議会関係者には当時を振り返りあらためて敬意を表したいし、各地で電車存続の声をあげつづけ、今日の「えちぜん鉄道」を支えられているみなさんにも感謝したい。私のまったく個人的な感情の中には、三国高校通学に3年間お世話になった電車は、高校生通学のためにもかならず残したい、という気持ちもあった。
しかし、福井新聞取材ノートにもあるように、今後の通学定期の大幅減少などの課題をどのようにして乗り越えていくか。正念場はこれからです。
私も公共交通、住民の足を守る立場でひきつづき頑張りたい。
福井新聞より