◇ 「運命の人」(全4巻)
山崎豊子著 2009年5月文芸春秋社刊
テーマは外務省機密文書漏洩事件(沖縄返還密約事件・西山事件)の背景
「外務省は26日、沖縄返還に伴い日米両政府が交わしたとされる密約文書を
巡る情報公開訴訟に関し、当時の交渉責任者である吉野文六・元アメリカ局長
が証人として証言することを認める方針を固めた。吉野氏が密約文書の存在を
認める陳述書を提出していることを踏まえ、拒否する必要が薄いと判断。12月
に証人尋問の実現がかたまった。(2009.8.27日本経済新聞・朝刊)
時代の大きな事件をモデルに長編小説を著わすことで有名な山崎豊子氏が、
外務省機密文書漏洩事件をテーマに「運命の人」を書いた(初出は文芸春秋
2005.1~2009.2)。
事件は当時報道の自由との関連で、報道機関の取材がどこまで許されるの
かを巡ってジャーナリズムは勿論国民的にも大いなる議論を呼んだ。ところが
実際検察側の起訴状では、密約の存在、国家機密の判断主体、報道の自由
といった根幹的な論点はそっちのけ、機密とされる電信文を漏洩した女性事務
官の国家公務員としての守秘義務違反、これを入手した毎日新聞西山記者の
漏洩教唆に焦点を絞り、しかも「ひそかに情を通じ…」という有名な文言で事件
を通俗的な次元に引きずりおろすことによって、世間の関心をスキャンダラスな
男女間の問題にすり替えた。
事件は一審では記者側無罪となったものの、高裁、最高裁では有罪とされ、
検察側の作戦がまんまと成功した事例と受け取られている事件である。
経緯はどうであれ、国家公務員に求められている守秘義務に違反し、外務
省において機密とされる電信文をコピーし新聞記者に渡した行為は責めを負
わなければならないだろう。問題は通常の取材では重要案件の真実を把握で
きないことが多く、多少の違法リスクを覚悟しながらもいろんな手段で果敢に取
材を試みることは、国民の知る権利を満たす負託を受けたジャーナリズムの
義務でありまた許された特権でもあるという主張が妥当かどうかである。
私見では、体験的に見てもジャーナリズムに属する人種が往々にして陥る独
善的で人を食ったような「社会正義の番人」的不遜な態度は許せないが、真実
に肉薄する姿勢は必要で、相当程度のしつこさは必要ではないかと思う。
従ってこの事件で女性事務官(秘書)にしつこく関係文書をねだったからと言っ
て、それだけで非難されることはない。その間の親密の度合いが深かろうと薄
かろうと、とやかく問題にすることはないのではないか。
冒頭の新聞記事にあるように、密約を証明する電信文の存在をかたくなに否
定し、一審に置いて18回と言われる外務省アメリカ局長の偽証(2000年にアメリカ
公文書館において密約の存在を裏付ける文書が発見され、2006年には同アメリカ
局長は北海道新聞の取材に対し密約の存在を認めた。)がむしろ問題であろう。
日本政府はこのようにアメリカ側で密約の存在が明らかな公文書が明らかにな
っているのにもかかわらず、終始一貫して密約の存在を否定しており、国家権
力の壁の厚さに慨嘆せざるを得ない。
ただ西山記者の行動でいささか腑に落ちないのは、貴重な情報を「情報源に
迷惑がかかってはいけない」と記事にできないまま、なぜ野党代議士に密約情
報である電信文の写しを渡したのか。この状況では時間切れで、密約の真相が
明らかにされないまま、ことがうやむやになってしまうことに耐えられなかったと
いうが、情報源が容易に推測できる証拠文書を他人に委ねたことは、軽率な行
為との誹りをまぬかれまい。
本来沖縄返還に伴いアメリカが日本に支払うとされた土地補償費400万ドル
は見せかけで、日本の返還補償費支払い分に潜り込ませた中から支払うことに
する密約を交わした。これは国民・国会等に説明してきた内容と異なるわけで、
新聞記者が真相究明に躍起になるのは尤もではないか(実は密約はまだあっ
た。)。
検察は司法権独立の一翼を担うとはいえ、所詮国家権力の側である。裁判所
も然り。人事権を握るものの意向に沿う、結果は見え見えではないか。
捻じ曲げられた起訴立件内容、検察の主張を鵜呑みにする高裁・最高裁。
西山記者はアメリカにおける密約文書発見を受け、損害賠償請求訴訟を提訴
したが一審では除斥期間を理由に棄却した(控訴中)。関係者多くの人生をめち
ゃくちゃにした捻じ曲げられた公訴。偽証を続けて恥じない外務省。やらずぶっ
たくりのアメリカ。偽りの沖縄返還内容でノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作氏。
この小説執筆にあたり、山崎豊子氏は西山記者に対し「西山さんの人格は絶
対に守る。」と述べたというが、西山氏は講演会で「本の内容は真実か、フィクシ
ョンか」という質問に対しては「フィクションに満ちている」と述べている(西山氏の
講演から)。
ともかくまだこの事件は終わっていない。
山崎豊子氏は毎日新聞大阪本社出身であるが、これまで「白い巨塔」(医学界
の腐敗)、「華麗なる一族」(山陽特殊鋼倒産事件)、「二つの祖国」(米国日系人
強制収容)、「大地の子」(中国残留孤児)、「沈まぬ太陽」(日航機墜落事故)など
大著をものしている。いずれもモデルとされる事件等に対する綿密な取材があり、
内容に迫真性がある。しかし個人的には小説として表現力に少々難があり、文
学作品としては必ずしも高く評価しない。
(以上この項終わり)
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