くじびき はずれ の 見た世界

シニア初級者というのに世間知らず。
少年のようなつぶらな瞳?
そろそろ大人の記事を書きたい毎日です。

よう降りました。

2010年09月24日 00時00分10秒 | 奈良学
飛鳥保存財団帝山大学との連携イベント第二弾(二日目)
『飛鳥を巡る~考古編~』
(前回の第一回は19日 ひさしぶりに歩いてきました

未明からの雨。 朝から雷もドンドン鳴っていたので
午後のウォーキングは中止になるのかと心配したけれど、
無事に終わった。

午前中の講演は、飛鳥周遊かめバス石舞台バス停から
徒歩10分ほどの 飛鳥の宿 祝戸荘 だった。

バス停に降り立った時はかなりの豪雨と稲光で、近くの
土産物屋で雨宿りするものの、止む気配がない。
痺れを切らした数人の参加者が歩き出してしばらくして
後姿も見えなくなった頃、スタッフが2台の車で迎えに来てくれた。
    ラッキー!

今回のオマケは”せんとくん”のハンドタオル。

昼食の頃には一旦雨も上がっていたが、飛鳥
稲渕宮殿跡からのウォーキングがスタートする
頃にはまた降り出していた。

前回の~美術篇~では現存する仏像を目の
あたりにして見るので、かなり信憑性の高い
話だったのだが、今回は礎石があるだけだっ
たり悪い場合はその跡形もないので、あくま
でも考古学家の推測の話でしかない。

それでも講師の先生の歴史上のエピソード
など、絶えなかった皇室の跡目争いを背景にした寺が「城」の代わりの役目を果たしていた様子であることや、美談・醜談は歴史を真剣に学ばなかった者にとってもとても興味深い史実として、スポーツドリンクが如く身体に染み入ってきた。

それはそれとしても長閑な里の風景である。

とてもこんなところが日本の政(まつりごと)の中心、
首都として営まれていたなんぞ、現世からは想像も
付かない出来事である。

遠く新羅百済高句麗と国交を取り交わして
いた時代、栄華と衰退の絵巻を繰り返していたこと。
国内でも南は九州から北は東北地方までも睨みを
利かせていたなんて。




高松塚や石舞台のようなものを含む明らかに墓であったと推測できる古墳は、考古学的に考えられている人そのものの墓だったとしても、亀石や猿石は誰が何のために設置したか? 未だに太古のミステリーとして解明されていないままだという。

飛鳥の駅(近畿日本鉄道・吉野線)に近づくにつれて民家も増え、町並みも賑やかになり現実の世界へと呼び戻されてくる。

駅前には稲渕棚田の案山子を紹介するように愉快な案山子が並べられていた。






今回のお勉強の自分へのご褒美は
ブルーベーリーのチーズケーキ。

コレを控えると良いんだけどねぇ。