5月12日信州安保法制違憲訴訟の第2回口頭弁論が行われ原告の一人として参加しました。安保法制違憲訴訟は、全国でこれまでに17地裁で21の裁判が提訴され、今後3地裁でも提訴が行われることになっているそうです。4月25日現在5958名が原告となっていますが、新たな提訴や第2次、第3次提訴もあり6000名を超える大原告団となりそうです。
2回目となる意見陳述では、現在74歳で満州からの引揚者である小林修さんと19歳の学生の大橋直紀さんが行いました。
小林さんは、1945年8月ソ連参戦とともに逃げるが自分と妹は中国人に預けられたそうです。終戦を迎え預けられていた小林さんは母親に探してもらいましたが、妹さんは養父母が次々と変わり見つけられませんでした。舞鶴から上野へ汽車で移動しましたが上野で父親が行方不明となります。残留孤児となった妹は1986年集団で帰国し、小林さんが松戸市に住む妹さんを見つけ出します。そして小林さんが61歳の時、父親とも出会うことができたが「兵隊は人殺しの訓練をしていただけだ」と言い残して翌年亡くなります。小林さんは裁判所に対して次のように訴えました。「国策として進められた残留孤児の悲惨な責任は国にあると思います。妹は中国では『おまえは日本人だ』といじめぬかれ、日本では『おまえは中国人だ』と言われています。私が妹に『一番せつないことは何か』と聞きましたら、妹は『本当は自分が誰で、自分の名前が何なのか分からないことだ』と、その胸の内を打ち明けてくれました。国は、1959年に残留孤児が中国に多く残っていることを知りながら、残留孤児の戸籍を抹消し、戦時死亡の宣言を行い、戦死者と同じ扱いをしました。妹たちは生きているのに死亡が宣言され棄民にされたのです。妹をはじめ中国と日本の歴史のはざまに生まれた残留孤児の心の痛みは、これからも終わることなく続いていきます。その原因はすべて戦争にあると思います。家族や人間関係を破壊してしまう戦争法の安保法制は到底認めることはできません。どうか違憲判決を出されることを心から望みます。」
二人目の大橋直紀さんは、高校在学中に仙台で、東日本大震災の避難者の、傾聴ボランティアをしているとき避難者の多くがお年寄りであることから「ああ、このひとたちはこのまま仮設住宅で一生を終えるんだな」と感じたそうです。この経験から「自分の生活をお上にまかせっきりではいけない。僕らが二度も三度も取り返しのつかないことを起こす前に、自分の頭で考えて動こう」という教訓を得たそうです。大橋さんは以下の通り意見を要約して訴えました。「政府が憲法9条の解釈を都合よく変えて集団的自衛権の行使を認めてしまったことで、日本という国家が“僕の願う平和”を目指す道のりとは全く逆のベクトルに成長の道筋を見いだしていることが明らかになった。そしてこのことを僕は本当に切なく思う。だからなんとしてもここにふみとどまりたい。」また5月3日の安倍首相の改憲発言についても「不安を感じる。政府がすべてを国民に教えるわけではない。政府が何をしているのかわからないので不安で当然で眠れなくなったり精神的苦痛を受け続けている。これを抽象的な苦痛と言っていいのでしょうか」と被告の国に対して訴えました。
最後に安藤弁護士から被告(国)の答弁書における対応の基本的誤りについて述べました。ホームページを参照してください。
次回は9月22日(金)10時半となりました。傍聴を希望される方は9時40分までに弁護士会館にご集合ください。
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