週末家事の他に組み込こんだのが、原稿書きと押絵の宿題でした。どちらも制限時間ギリギリでした。
こんなあわただしい毎日を過ごしているのはよくないと、宿題を終えた後、針箱の整理をしました。こんな時こそ・・・・落ち着いて物事を進めなければと心したのでした。
針箱も7つ道具がどんどん増えてきます。名前を書いてあってもハサミなどは消えてしまいます。皆さん同じ物を使っているのでまぜこぜになると自分のがわからなくなります。
先生が自分の目印をと言われますので、着物の端切れを結びつけました。鋏だけでも7本もあります。糸も色別に並べてきちんとしたら心が落ち着きました。
夕方、息子ファミリーを誘ってお花見です。暖かければ花の下でと思っていたのでしたが、風が冷たいので「花よりダンゴ」でパラダのやすらぎの湯になりました。
パラダの桜は父が区長の頃、皆さんと植えたものなので、母はとっても思い入れが強いのです。だからどうしてもここの桜を見せてあげたいとパラダとなったのでした。
温泉の後は、併設のレストランで食事をしたのですが、私はここのお蕎麦が好みです。子供たちも食欲旺盛となってきました。そして子供たちのデザートは「かき氷」です。
いやいや私たちはこの時期だと、見ているだけでお腹が痛くなりそうです。流行ってすごいですね。
昨夜テレビを観ていたら、台湾ではかき氷に生の卵黄がありなのだとか。所変わればですね。
4月の長野労基のひと口コラムは「点字ブロック」はいつから広まった?です。
そう言われればいつの頃からだったのでしょうね。
以下要約む引用です。
障がい者にも優しい街づくりが、今後も求められる中、どこでも見かける「点字ブロック」について一言。正式には『視覚障害者誘導用ブロック」と言い、発明は岡山県出身の三宅精一さんです。
三宅さんは視覚障がい者が杖を頼りに横断中、車と接触しそうになったところを見て、何とかしなければとの強い思いから「歩道と車道の境が分かるように」と考えました。
そして30センチ四方の黄色のブロックに高さ6ミリの丸い突起49個を配列したものを作り、昭和42年、岡山県立盲学校近くの歩道に寄贈しました。
翌43年には宇都宮市からブロック購入の連絡が入りました。
実はこの年、全米で車いす障がい者の移動可能となるよう改良を命ずる連邦法が成立したこともあって、日本でも「福祉のまちづくり」が展開され、宇都宮市が先駆的に取り入れたものです。
45年には東京都道路局が視覚障がい施設が集中している高田馬場駅付近に採用を決め、48年、当時の厚生省が障がい者福祉モデル都市事業を制定すると、東京都が大々的に「点字ブロック」の敷設を決めました。
50年には新幹線ホームにも登場して、今や市街地のあちらこちらで点字ブロックが導入されています。
三宅さんは、昭和57年56歳の若さで逝去されました・
以上引用終わり
修学旅行で行った東京の歩道は石畳だった記憶がありますが、その後それが安保闘争の中で、その石畳が投石の材料になったとかで、石畳が消えていったように思えます。
点字ブロック地方にまで浸透してきたのはいつのことなのか記憶にありませんが、たしかに津々浦々までありますね。
依田 美恵子
軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家
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こんなあわただしい毎日を過ごしているのはよくないと、宿題を終えた後、針箱の整理をしました。こんな時こそ・・・・落ち着いて物事を進めなければと心したのでした。
針箱も7つ道具がどんどん増えてきます。名前を書いてあってもハサミなどは消えてしまいます。皆さん同じ物を使っているのでまぜこぜになると自分のがわからなくなります。
先生が自分の目印をと言われますので、着物の端切れを結びつけました。鋏だけでも7本もあります。糸も色別に並べてきちんとしたら心が落ち着きました。
夕方、息子ファミリーを誘ってお花見です。暖かければ花の下でと思っていたのでしたが、風が冷たいので「花よりダンゴ」でパラダのやすらぎの湯になりました。
パラダの桜は父が区長の頃、皆さんと植えたものなので、母はとっても思い入れが強いのです。だからどうしてもここの桜を見せてあげたいとパラダとなったのでした。
温泉の後は、併設のレストランで食事をしたのですが、私はここのお蕎麦が好みです。子供たちも食欲旺盛となってきました。そして子供たちのデザートは「かき氷」です。
いやいや私たちはこの時期だと、見ているだけでお腹が痛くなりそうです。流行ってすごいですね。
昨夜テレビを観ていたら、台湾ではかき氷に生の卵黄がありなのだとか。所変わればですね。
4月の長野労基のひと口コラムは「点字ブロック」はいつから広まった?です。
そう言われればいつの頃からだったのでしょうね。
以下要約む引用です。
障がい者にも優しい街づくりが、今後も求められる中、どこでも見かける「点字ブロック」について一言。正式には『視覚障害者誘導用ブロック」と言い、発明は岡山県出身の三宅精一さんです。
三宅さんは視覚障がい者が杖を頼りに横断中、車と接触しそうになったところを見て、何とかしなければとの強い思いから「歩道と車道の境が分かるように」と考えました。
そして30センチ四方の黄色のブロックに高さ6ミリの丸い突起49個を配列したものを作り、昭和42年、岡山県立盲学校近くの歩道に寄贈しました。
翌43年には宇都宮市からブロック購入の連絡が入りました。
実はこの年、全米で車いす障がい者の移動可能となるよう改良を命ずる連邦法が成立したこともあって、日本でも「福祉のまちづくり」が展開され、宇都宮市が先駆的に取り入れたものです。
45年には東京都道路局が視覚障がい施設が集中している高田馬場駅付近に採用を決め、48年、当時の厚生省が障がい者福祉モデル都市事業を制定すると、東京都が大々的に「点字ブロック」の敷設を決めました。
50年には新幹線ホームにも登場して、今や市街地のあちらこちらで点字ブロックが導入されています。
三宅さんは、昭和57年56歳の若さで逝去されました・
以上引用終わり
修学旅行で行った東京の歩道は石畳だった記憶がありますが、その後それが安保闘争の中で、その石畳が投石の材料になったとかで、石畳が消えていったように思えます。
点字ブロック地方にまで浸透してきたのはいつのことなのか記憶にありませんが、たしかに津々浦々までありますね。
依田 美恵子
軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家
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