古典文学について別に造詣が深いわけではない。その方面の知識は高校で得ただけである。
古典文学は時代を遡るにつれ難しくなっていくように感じる。「源氏物語」が一番難しかった。何が書いてあるのか分からない。「方丈記」は分かった。
話し言葉が使われている「東海道中膝栗毛」では、野次さん喜多さんの会話は、現代のそれとだいぶ違っている。でも、ワケが分からないほどではない。
明治期の会話態でも現代の話し言葉と随分違っている。このように言葉は時代につれて変遷していく。
私の話し言葉は、父とは違う。祖父とはもっと違っている。このように時代によって異なる話し言葉を、私は「時間的方言」と呼んだことがある。(普通の方言を「空間的方言」と呼び、それに対して時代による言葉の違いをそう呼んだのだ 2006-09-02。)
昔、「私はぁ、だからぁ」式の語尾を延ばす話し方は、25年ほど前にシニアの眉をひそめさせたが、今や親たちが普通に使用するから、子供たちも同じになった。
現在では、「語尾上げ言葉」がとやかく言われている。「だから?それは?いいことだと?・・」といちいち疑問形にしてしゃべるのだ。私がこのようなしゃべり方の人に初めて接したのは15年ほど前である。何と変わった話し方をする人だろうと思った。しかし、そのしゃべり方は、瞬く間に広まってしまった。今では「普通」の部類である。
まだあまり咎められていおらず、また気付かれていないけれども、私は「・・かな?」「・・したいな?」という言い回しが、もっと広まると思う。語尾上げ言葉と同じく、疑問形にすることによって、主張を和らげている。
この言葉遣いは語尾上げ言葉ほど目立たないから、深く潜行し、あっという間に広がるだろう。政治家が好んで使用していたが、今では一般人でも使う人がいる。
例えば・・・
「被災者にはより一層の援助が必要なのではないかな?と思います」
「仮設住宅に早く入りたいな?と思います」
以上は「一層の援助が必要である」とか「早く入りたい」と言い切ってしまうこともできる。というより、本来はそうだったのだ。
私たちは「方言を差別するな」と教わってきた。私はその教えに賛同する。だから、時代によって刻々と変わる時代的な「方言」(すなわち「時間的方言」)も差別しないでいようと思う。
語尾上げ言葉や「・・かな?」は「時間的方言」であるけれども、別の軸を設ければ「婉曲的方言」とも言える。今の時代、争いを避けるために、なるべく婉曲に表現する必要に迫られているのだろう。これが現代の時代精神である。
古典文学は時代を遡るにつれ難しくなっていくように感じる。「源氏物語」が一番難しかった。何が書いてあるのか分からない。「方丈記」は分かった。
話し言葉が使われている「東海道中膝栗毛」では、野次さん喜多さんの会話は、現代のそれとだいぶ違っている。でも、ワケが分からないほどではない。
明治期の会話態でも現代の話し言葉と随分違っている。このように言葉は時代につれて変遷していく。
私の話し言葉は、父とは違う。祖父とはもっと違っている。このように時代によって異なる話し言葉を、私は「時間的方言」と呼んだことがある。(普通の方言を「空間的方言」と呼び、それに対して時代による言葉の違いをそう呼んだのだ 2006-09-02。)
昔、「私はぁ、だからぁ」式の語尾を延ばす話し方は、25年ほど前にシニアの眉をひそめさせたが、今や親たちが普通に使用するから、子供たちも同じになった。
現在では、「語尾上げ言葉」がとやかく言われている。「だから?それは?いいことだと?・・」といちいち疑問形にしてしゃべるのだ。私がこのようなしゃべり方の人に初めて接したのは15年ほど前である。何と変わった話し方をする人だろうと思った。しかし、そのしゃべり方は、瞬く間に広まってしまった。今では「普通」の部類である。
まだあまり咎められていおらず、また気付かれていないけれども、私は「・・かな?」「・・したいな?」という言い回しが、もっと広まると思う。語尾上げ言葉と同じく、疑問形にすることによって、主張を和らげている。
この言葉遣いは語尾上げ言葉ほど目立たないから、深く潜行し、あっという間に広がるだろう。政治家が好んで使用していたが、今では一般人でも使う人がいる。
例えば・・・
「被災者にはより一層の援助が必要なのではないかな?と思います」
「仮設住宅に早く入りたいな?と思います」
以上は「一層の援助が必要である」とか「早く入りたい」と言い切ってしまうこともできる。というより、本来はそうだったのだ。
私たちは「方言を差別するな」と教わってきた。私はその教えに賛同する。だから、時代によって刻々と変わる時代的な「方言」(すなわち「時間的方言」)も差別しないでいようと思う。
語尾上げ言葉や「・・かな?」は「時間的方言」であるけれども、別の軸を設ければ「婉曲的方言」とも言える。今の時代、争いを避けるために、なるべく婉曲に表現する必要に迫られているのだろう。これが現代の時代精神である。