院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

私の浪人時代(2)

2011-06-19 10:47:16 | Weblog
 私の浪人生活は、よく言われるように灰色だった。来る日も来る日も「親不孝街道」を往復した。

 昼食は予備校の食堂のまずいランチで済ませた。安かったからだ。ときには親不孝街道にあるラーメン屋に入ることもあった。でも、とにかくお金がなかったし、使うものといえば、食事代くらいしかなかった。趣味のものは勉強の邪魔になるのであえて買わなかった。

 むろん恋愛なぞしている場合ではない。同性であっても予備校の生徒と個人的に親しくなることはなかった。予備校は友人を作る場所ではないと考えていた。それどころか、小学校の同級生が2人いた。でも、挨拶もせず、口もきかなかった。中学高校の同級生N君もいたが、互いに気恥ずかしく、やはり挨拶もしなかった。

 浪人生とは、学生でもなく社会人でもなく、ただのムダ飯食いでしかないことは、よく分かっていた。だから、もと知り合いでも口をきかなかったし、すでに大学生になっている友人と駅ですれ違うと、顔を隠して横道へそれた。彼はさぞかし青春を謳歌しているのだろうなぁと羨みながら、自分は勉強のために帰路を急いだ。

 そんな中、愚かにも予備校で恋愛している奴がいた。なかなか出来る男で、順位表の上位にしばしば出ていた。その男と20年後に親友になるとは、当時、夢想だにしていなかった。

 私は、恋愛なぞ始めたその男は、たぶん成績が下がるだろうと思っていた。だが意外にも下がらなかった。予備校の校庭をいつも彼女とおみき徳利のように並んで歩いていて、なぜ成績が下がらないのか不思議だった。

 私はストレスのため、ときどき神経性胃炎になった。夜中に急に吐き気がして、その晩に食べたものを全部戻してしまうのである。受験当日にこうなったらおしまいだなと思った。ストレス性胃炎は、大学入学後も数年間、私を悩ませた。

 40歳ころ名古屋近郊の公立病院に赴任した。そこであの恋愛男と出会った。上記のことを話すと、彼は非常に懐かしがって、あのとき付き合っていた女性が今の妻だという。ああ、そうだったのか。いい話ではないか。彼はその病院で外科部長をやっていたT君である。その病院を辞めたあとも、仲良くつきあっている。

 中学高校同期のN君も医学部に入り、10年ほど前の同期会で親しく話をした。でも、T君からもN君からも、不思議に浪人生活のつらかった話はでてこない。私だけが苦しんでいたのだろうか?