私が多動児だったことは前に述べた。とにかく、じっとしていられず、床屋の椅子に静かに座っているのがたまらなかった。
ただ読書だけは好きで、本さえ読んでいれば何時間でもじっとしていた。だから、床屋でも気をまぎらすために本を読んでいた。
床屋の椅子もそうだが、学校の椅子もイヤだった。小学校のときは、授業の内容が知っていることばかりなので、なおさらムズムズした。
中学高校の椅子も駄目だった。なまじ本を読むのが速かったために、「どうせ後で教科書を読めば分かることだ」と、マトモに授業を聴かず、よそ事をしていることも少なくなかった。授業時間が際限なく長く感じられた。
だが、中学高校は甘くはなかった。成績はガタ落ちになった。後で教科書を読めば分かるというのが大間違いだった。教科書に書いてあることが分からないのである。
妻はあまり本を読まない。その代わり授業をしっかり聴く。妻いわく「本だとすぐに読めないし、読むより聴いたほうが分かりやすい」と。まったく、もっともである。
妻は今でも講演会や研修会に好んで出る。読んでも分からないからだそうである。私がようやく講義の重要さを再認識したときはもう遅く。大学入試はもちろん、国家試験も、その他あらゆる試験が終わってしまっていた。
妻が現役で医学部に合格し、私が浪人したのは、この部分が違っていたのだろう。能力的な違いはないはずだ。それが証拠に、妻が私に質問にきたことは再三あるが、私が妻に質問に行ったことはない。
これは負け惜しみだろうか?
ただ読書だけは好きで、本さえ読んでいれば何時間でもじっとしていた。だから、床屋でも気をまぎらすために本を読んでいた。
床屋の椅子もそうだが、学校の椅子もイヤだった。小学校のときは、授業の内容が知っていることばかりなので、なおさらムズムズした。
中学高校の椅子も駄目だった。なまじ本を読むのが速かったために、「どうせ後で教科書を読めば分かることだ」と、マトモに授業を聴かず、よそ事をしていることも少なくなかった。授業時間が際限なく長く感じられた。
だが、中学高校は甘くはなかった。成績はガタ落ちになった。後で教科書を読めば分かるというのが大間違いだった。教科書に書いてあることが分からないのである。
妻はあまり本を読まない。その代わり授業をしっかり聴く。妻いわく「本だとすぐに読めないし、読むより聴いたほうが分かりやすい」と。まったく、もっともである。
妻は今でも講演会や研修会に好んで出る。読んでも分からないからだそうである。私がようやく講義の重要さを再認識したときはもう遅く。大学入試はもちろん、国家試験も、その他あらゆる試験が終わってしまっていた。
妻が現役で医学部に合格し、私が浪人したのは、この部分が違っていたのだろう。能力的な違いはないはずだ。それが証拠に、妻が私に質問にきたことは再三あるが、私が妻に質問に行ったことはない。
これは負け惜しみだろうか?