院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

市民マラソンと祭と災害ボランティアの共通点

2011-06-22 09:02:14 | Weblog
 市民マラソンが盛んである。応募者が多すぎて、抽選に当たった人しか参加できないそうだ。参加者はマラソンで勝つことを目的としない。自己ベスト更新だったり完走が目的だったりする。

 ここからは私の推測だが、市民マラソンの本質は走ることではなく、群れて大騒ぎするところにあるのではないか?つまり、ひとつの祝祭ではないか?

 よさこいソーラン祭(札幌)やにっぽんど真ん中祭(名古屋)が年々活発になってきている。2006-07-15 の記事でも述べたけれども、これらの新しい祭は旧来からの伝統的な祭がない地域で発達した。(札幌、名古屋には伝統的な祭がない。)

 京都の祇園祭、福岡の博多山笠、青森のねぶた・・こうした昔からの祭がある地域では、よさこいソーラン祭のような新規な祭は起こらない。

 もしかすると、人間にはときに群れて騒ぐことが必要なのではないか?みんな祭が好きなのだ。

 民俗学ではハレとケという。ケばかりの生活では、倦んでしまう。だから、ときにはハレが人間には必要なのだ。だから、祭がない場所では自然発生的に祭が生まれる。派手な祭がない地方の人は、祭がある場所まで足を運ぶ。

 市民マラソンも、よさこいソーラン祭も、ハレの役割を果たしているのではあるまいか?

 そこで唐突だが、または不謹慎かもかもしれないけれども、震災ボランティアに大勢の人が集まるのは、実は祝祭を求めてくるのではないか?つまり、市民マラソンやよさこいソーラン祭と、震災ボランティアは構造的に似ていはしまいか?

 ボランティアとは何の報酬も求めないとされているが、実は(大騒ぎこそしないものの)群れたり、そこに報道のカメラクルーが来たりして、災害現場は大いに祝祭的である。

 だから、ゴールデンウイークを潰してまでボランティアに行く価値があるのではないか?

 さいわいボランティアは賞賛こそされても、非難はされない。一人だけで人知れず善行を行っているボランティアは、さぞかしつまらないだろう。だから、言い過ぎかもしれないが、災害現場は多くのボランティアにとってハレの場所だと思うのだが、どうか?

 以上はボランティア精神がまったくない者の愚考である。あまり生真面目に反論しないでほしい。ひとつ間違えると、反論それ自体が災害ボランティアを返って傷つける偽善となる恐れがある。