院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

「定型の力」を放棄した自由律俳句

2013-09-01 05:01:50 | 俳句
    (1)大根の葉が川をさっと流れていく

と言うよりも・・

    (2)流れゆく大根の葉の速さかな  虚子

と言った方が、事実を的確に表していてピンとくる。

 これが「定型の力」である。575という枠内で語ると、事実がより事実らしく生き生きとしてくる。なのに、自由律俳句は(2)をわざと(1)のように言って、「定型の力」の利用を放棄している。

 自由律俳句は従来の定型をあえて壊して、または放棄して、何かを訴えようとしている。つまり、自由律俳句が自己主張できるためには、前もって定型俳句が存在していなくてはならない。定型と自由律は同格ではなく、定型があっての自由律である。だが、あえて定型を壊すという行為は、冒険というよりも不健康だと私には思える。

 実際、尾崎放哉や種田山頭火は生き方そのものが不健康だった。その不健康さを崇高なものと見なしたり賛美する風潮に、私は疑問を感じる。

 「定型の力」は素直に利用するがよい。「形式」や「約束事」をわざわざ壊して、表現の幅を縮める必要があるのだろうか?



 上のような雑誌の特集は、破滅を称揚する人々の心性に媚びた企画だと、私は思う。なんというか不幸ではない人たちの「怖いもの見たさ」に乗じているような感じがするのだ。

(俳句に馴染みのない方には、何を言っているのか理解できないだろう。今回はお許し願いたい。だが、少しでも俳句に造詣がある方には、一撃で分かるはずである。)