院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

公立病院はなせ赤字なのだろうか?

2011-06-16 21:15:35 | Weblog
 公立病院のほとんどが赤字なのはなぜなのか?公立病院に通算18年間いた経験から考えてみる。

 これは逆に民間病院はなぜ黒字なのか?という疑問と表裏である。

 まず、院長が医者であるという点が他の組織と違うところだ。法律で決まっているのかどうか知らないけれども、公立も民間も院長は全部医者である。

 よい医者であっても経営手腕にすぐれているとは限らない。むしろ学問、臨床共にすぐれた医者ほど経営手腕はないと言ってもよいほどだ。

 それでは、民間の院長は経営手腕だけあって、学問、臨床にすぐれていないのか?と言えばそうでもない。

 民間の院長と公立の院長の決定的な違いは、民間の院長には人事権があるが、公立の院長にはないということである。これだけでも、公立は相当に不利である。

 さらに、大きな公立病院は3次救急を行っている。3次救急とは、緊急の大きな手術を必要とするような救急のことである。単なる腹痛のような症状を取り扱うのは1次救急である。

 病院を常に3次救急受け入れ可能な状態にしておくには、膨大な金と人員を要する。しかし、国からはそれだけの財政援助はない。だからボランティアみたいなものだ。ボランティアと言って悪ければ、消防署のようなものだ。消防署は救急を行ったり、火事を消したりして黒字にしようなんて思っていない。

 民間では引き受けたとしても2次救急までで、まったく救急を行っていない民間病院もある。2次救急とは入院を必要とするかどうかといった患者を扱う。

 公立病院が赤字でも許されているのは、消防署が赤字でも許されるのと同じようなことである。でも、その上にあぐらをかいていてはいつまでたっても民間を凌げないだろう。

 もうひとつ公立と民間の大きな違いは、公立病院は事務方がみな役人だということである。病院に異動させられた役人は、常に本庁(市役所)に目が向いている。もともとは行政マンだから病院の事務なぞ覚えたくもない。たとえ覚えたとしても、そのころにはまた異動である。次の異動先は市立動物園かもしれないし、本庁の年金課かもしれない。

 だから公立病院の役人は多くの仕事を医者に振って、臨床に忙しい医者をさらにこき使う。決まり文句は「僕たちは、専門的なことは分かりませんから」だ。レセプト(診療報酬明細書)の病名と薬や手技に矛盾がないか調べることまで医者にやらせる。

 民間ではそのようなことはあり得ない。まず、事務方はその病院専属で、病院外への異動がない。だから、「僕たちは、専門的なことは分かりませんから」なんて、口が裂けても言えない。病院の事務方は医療の事務部門のプロなのだ。それは事務方の誇りでもある。

 こうした、いくつかの要因によって、公立病院は構造的に赤字体質から脱却できないのである。今後も一筋縄では改善できないだろう。

「・・かな?」という言い方

2011-06-15 20:14:47 | Weblog
 古典文学について別に造詣が深いわけではない。その方面の知識は高校で得ただけである。

 古典文学は時代を遡るにつれ難しくなっていくように感じる。「源氏物語」が一番難しかった。何が書いてあるのか分からない。「方丈記」は分かった。

 話し言葉が使われている「東海道中膝栗毛」では、野次さん喜多さんの会話は、現代のそれとだいぶ違っている。でも、ワケが分からないほどではない。

 明治期の会話態でも現代の話し言葉と随分違っている。このように言葉は時代につれて変遷していく。

 私の話し言葉は、父とは違う。祖父とはもっと違っている。このように時代によって異なる話し言葉を、私は「時間的方言」と呼んだことがある。(普通の方言を「空間的方言」と呼び、それに対して時代による言葉の違いをそう呼んだのだ 2006-09-02。)

 昔、「私はぁ、だからぁ」式の語尾を延ばす話し方は、25年ほど前にシニアの眉をひそめさせたが、今や親たちが普通に使用するから、子供たちも同じになった。

 現在では、「語尾上げ言葉」がとやかく言われている。「だから?それは?いいことだと?・・」といちいち疑問形にしてしゃべるのだ。私がこのようなしゃべり方の人に初めて接したのは15年ほど前である。何と変わった話し方をする人だろうと思った。しかし、そのしゃべり方は、瞬く間に広まってしまった。今では「普通」の部類である。

 まだあまり咎められていおらず、また気付かれていないけれども、私は「・・かな?」「・・したいな?」という言い回しが、もっと広まると思う。語尾上げ言葉と同じく、疑問形にすることによって、主張を和らげている。

 この言葉遣いは語尾上げ言葉ほど目立たないから、深く潜行し、あっという間に広がるだろう。政治家が好んで使用していたが、今では一般人でも使う人がいる。

 例えば・・・

 「被災者にはより一層の援助が必要なのではないかな?と思います」

 「仮設住宅に早く入りたいな?と思います」

 以上は「一層の援助が必要である」とか「早く入りたい」と言い切ってしまうこともできる。というより、本来はそうだったのだ。

 私たちは「方言を差別するな」と教わってきた。私はその教えに賛同する。だから、時代によって刻々と変わる時代的な「方言」(すなわち「時間的方言」)も差別しないでいようと思う。

 語尾上げ言葉や「・・かな?」は「時間的方言」であるけれども、別の軸を設ければ「婉曲的方言」とも言える。今の時代、争いを避けるために、なるべく婉曲に表現する必要に迫られているのだろう。これが現代の時代精神である。

歌手・荻野目洋子さん

2011-06-13 22:42:32 | Weblog
 このところ硬い話題が多かったので、今日はちょっと遊ぼう。

 私は歌手の荻野目洋子さんのファンだ。彼女の現役時代は「私って美しいでしょ」といった感じで堂々と歌っていた姿に好感がもてた。

 私が荻野目さん(の写真)を見たのは、まだ荻野目さんが12歳のころだった。確か名鉄電車の車内ポスターで見た。当時、私は研修医として名古屋に住んでいた。

 鳥羽水族館で有名な鳥羽市は、名古屋からは手ごろな距離の観光地である。子供たちがまだ小さいころ、何度か鳥羽へ連れて行った。

 山崎豊子の小説「華麗なる一族」の冒頭に出てくるホテルは志摩観光ホテルである。同ホテルは賢島にあり、賢島は鳥羽からすぐである。志摩観光ホテルへは3回行った、名物のアワビのステーキは絶品だった。

 それはさておき、荻野目洋子さんが出ていたポスターは、鳥羽の観光広告だった。田舎の観光地のポスターにこんなに可愛い子が出ている。鳥羽市もなかなかやるなぁと思った。
同時に、この子は将来ビッグになるとも思った。

 そして案の定、80年代からTVに出始め、紅白歌合戦出場や日本レコード大賞で活躍した。「六本木純情派」がヒットした。それを私は、精神障害者リハビリ施設へ行く車の中で聴いた。

 「ダンシング・ヒーロー」で荻野目さんは頂点を極めた。彼女の歌唱は、音楽にうるさい私の耳を満足させるものだった。

 現在、45歳。9歳をかしらに3人の子供がいると、昨日の中日新聞愛知県版に書いてあった。写真も出ていた。あいかわらず美しい。

 昨日、親友のY君と話していて、私が荻野目洋子さんが良いと言うと、Y君は自分は圧倒的に姉の荻野目慶子さんが良いと言って譲らなかった。むろん、姉の慶子さんも美しいけれど、彼女は歌が歌えない。それでもY君は慶子さんのほうが良いと言っていた。

 内緒の話だけれども、私は荻野目洋子さんの2枚組CDを持っている。

助産師という存在

2011-06-12 09:16:49 | Weblog
 最近、4年制の看護学部や看護大学が増えてきた。これらを卒業すると、看護師、保健師の受験資格が得られる。助産師の研修もすると、その受験資格が得られる。

 従来は看護師がさらに6ヵ月研修して、助産師の受験資格が得られる。現在、助産師として働いている人のほどんどが、この制度で助産師資格を取っている。4年制大学出身者はまだ少数である。

 正常分娩にかんしては、助産師は医師の指示を必要としない。だから個人開業している助産師も7%くらいいる。昔で言えば「産婆」である。

 残りのほとんどの人が病院勤務の助産師である。病院では助産師は威張っている。(むろん、そうでない人も多いが。)免許の格は看護師より上だし、なによりも正常分娩なら医師の指示が必要ないからである。

 若年のころ、私も病院助産師に軽くあしらわれた。看護師はすべての業務に医師の指示が必要だから、若年と言ってもすぐに自分に指示を出す立場になるかもしれない。だから看護師は若年の医師でも粗末にしない。ところが助産師はそうなる可能性が低いから、粗末にする。(若い医師の一部しか産婦人科医にはならない。)

 病院では看護師と助産師の制服はたいがい同じだ。だから、患者はもちろん、他科の医師にも区別がつかない。助産師はさぞ悔しいだろう。私は制服を別にすべきだと思う。

 病院の産婦人科医はたいてい開業助産師が嫌いである。開業助産師はいつもは大きい顔をしていて、難産や異常分娩のときだけ病院に依頼してくる。つまり病院が開業助産師の尻拭いをさせられるわけである。それなら最初から病院に任せろと病院の産婦人科医は思うだろう。

 クリニックの産婦人科医が開業助産師をどう思っているかは知らない。産婦人科医は次のことをうすうす知っている。実は大病院での新生児死亡率と、クリニックでの新生児死亡率には微妙な差があることを。大病院での死亡率のほうがわずかに少ない。(地域差はあるだろうし、統計学的な有意差が出ないのかもしれないが。)

 新生児死亡率は統計をとるのが簡単である。なのに上のようなことは口外されない。理由はまあ言わなくてもお分かりだろう。

 もちろん産婦死亡率の統計も簡単にとれる。私はその統計結果を知らない。

 数年前、ある産婦人科で産婦が死亡したとき、いきなり警察が来て担当医に手錠を架けた。これは産婦人科学会で大問題となった。医療行為を警察が取り締まるなんて聞いたことがない。

 これがきっかけで、警察も医療行為に介入しなくなった。けれども産婦人科を希望する若手医師が激減したのも事実である。

 分娩は、今でも女性にとって命がけの営為なのである。助産師が少しぐらい威張っても仕方がないかもしれない。

 ちなみに男性は助産師になれない。今でも残っている数少ない男女差別の1例である。

保健師の守備範囲

2011-06-11 20:44:17 | Weblog
 保健師は看護師を兼ねていることが多い。それは学校制度による。

 保健師になるには、まず看護学校3年を出てから、さらに1年保健師の教育を受けてから、保健師の試験に臨む。だから、ほとんどの保健師が看護師の免許を持っている。

 ただし、看護師の免許を持っているからと言って、臨床能力があるわけではない。保健師の元来の仕事は公衆衛生の啓蒙活動といってよい。

 細かいことを省くと、多くの保健師は保健所に就職する。そして○○教室とかいうものを開いたりする。原則的に行政にいる保健師には残業がないから、○○教室は昼間開かれる。勢い聴衆は老人か主婦になる。

 例えば「子育て教室」だとしよう。最近は主婦でも高学歴者が少なくない。彼女らを相手にして、子育て経験のない若い保健師が「授業」をする。気後れしないだろうかとも思うのだが、しないのである。基本的に保健師は人を「指導」することが好きのようである。

 昨日書いたが、看護師は「業務独占」である。意外に思われるかもしれないけれども、保健師は「名称独占」なのである。つまり、保健師と名乗らなければ、誰でも○○教室をやることができる。

 中には養護教諭で保健師になる人がいる。養護教諭と保健師の仕事にオーバーラップする部分があるからである。養護教諭の免許をもった人なら、一定単位の研修を受ければ保健師の免許が取れる。むろん、そのようにして保健師になった人には看護師免許はない。

 すでに述べたように、保健師には臨床能力がないから、普通、病院は保健師を募集しない。保健師それも行政(保健所)にいる保健師には、家庭訪問のノルマがある。だから、保健師は制服を着て、自転車で町を走り回る。

 皮肉な見方をすれば、行政保健師は自転車で町を走り回ることが本当の仕事である。つまり、市民の目に「保健師さんが走り回っている」というように映ることが仕事である。

 だって、人口15万人の都市に保健師は10名くらいしかいない。1人で1万5千人を担当できるわけがない。だから個人々々に地道に対応することはできず、せいぜい制服で走り回って、あたかも行政は市民の健康に気を使っていると、市民に思わせることが最重要課題となる。

 だから保健師には残業がない。夜、走り回っても、暗くて市民には見えないからである。

 ざっと以上の話を懇意の保健師にしたら、「私たちは広告塔か?」と反発しながらも一発で理解した。よくできる保健師さんだった。

獣医師の権限

2011-06-10 13:41:16 | Weblog
 昨日、医師、歯科医師、薬剤師の権限について述べたので、今日は獣医師の権限について述べよう。(内容は 2007-06-28 に書いたことと同じである。)

 私はかねがね獣医師の業務について疑問をもっていた。人間はニワトリを平気で殺す。昔はお祝い事のときなどに、飼っていたニワトリを食べるのは普通のことだった。(これを、ニワトリをツブすと言った。)動物を殺しても罪にはならない。他人の動物の場合、せいぜい器物損壊くらいにしかならない。

 このように殺してもよいような動物の診療とはなんだろうか?殺すのではなく逆に治療するのに免許が必要なのだろうか?獣医師の権限に疑問をもったのは、この辺りのことからである。

 そこで厚生労働省に電話で聞いてみた。そうしたら獣医師の管轄は農林水産省だというので、農林水産省に聞いてみた。

 農林水産省の係の人は、獣医師法代17条に「飼育動物の診療は獣医師に限る」とあると教えてくれた。

 私は獣医師はレントゲンを取り扱えるのかも聞いた。答えは「取り扱える」だった。人体に対してレントゲンを取り扱えるのは医師と歯科医師だけである。レントゲン技師も医師の指示がなければ人体にレントゲンは使えない。

 人体でなければ別に免許がなくてもレントゲンが使えるから、獣医師がレントゲンを使用できても別に不思議ではない。

 話は横道のようだが、採血は医師と看護師と臨床検査技師にしかできない。後2者については医師の指示が必要である。このように業務を行うのに資格が必要なこと、すなわち運転免許のような資格を「業務独占」という。

 一方、お婆さんが近所の子供を集めて保育することは許されている。料金を取ってもよい。しかし、保育士と名乗ってはいけない。つまり、保育士のする業務は、無免許の者がやってもよいが、保育士であると言ってはいけないのだ。だから、保育士の免許(資格)を「名称独占」という。

 獣医師がやることで、資格がなければできないようなことは何一つないような気がした。そこで、農林水産省の人にさらに聞いてみた。「獣医師は業務独占なのですか?名称独占なのですか?」と。

 係の人は質問の意味が分からなかった。説明しても理解してもらえなかった。男性だったが、丁寧に応対してくれて、真摯に考えてくれたので、私はお礼を述べて電話を切った。

 だから私は、未だに獣医師の権限について知らない。そしてもっと大きな疑問、すなわち主に家畜の診療を習ってきた獣医師にペットのイグアナの診療ができるのだろうか?

医師、歯科医師、薬剤師の守備範囲

2011-06-09 21:54:22 | Weblog
 昔、「三師会」というのがあったというけれども定かではない。「三師」とは医師、歯科医師、薬剤師のことである。少なくとも現在はこの三者が共同で何かをするということはない。(政治活動にせよ、親睦活動にせよ。)

 「三師会」と言うからには、「三師」は対等でなくてはならないはずだが、薬学部は4年制で医学部、歯学部より2年少ない。最近、薬学部も6年制になったが、格としては前2者より半歩下がる。

 薬剤師は、医師、歯科医師の処方によってしか調剤できない。また、薬剤師は薬物全般のことをよく知っているけれども、すべての科を取り扱わなければならないので、すべての薬に精通はできない。(つまり、広く浅い。)

 一方、医師、歯科医師は、自分の科で扱う薬に慣れていて、臨床効果や副作用も自分の目で見ているから狭く深い。だから、薬剤師は彼らが(狭い範囲で)使用する薬物の作用副作用について、医師、歯科医師を超えられない。

 もうひとつ薬剤師が弱いところは、医師、歯科医師は自分で処方ができることである。すなわち、薬剤師の仕事ができてしまう。医師、歯科医師には権限がなくて、薬剤師にだけができる医療行為を私は知らない。

 それでは、医師と歯科医師の権限はどう違うのだろうか?権限の違いはただひとつ。歯科医師は「補綴」(ほてつ。歯にものを詰めること)ができるが、医師にはできない。

 歯科領域である口腔外科は手術ができる。普通、口腔外科医は歯科医であり、常識的には上部食道まで手術をするけれども、それ以上やってはいけないという決まりはない。

 ということは、論理的には歯科医師はどんな身体部分の手術でも権限としてはできるのであり、医師に「補綴」が禁止されている分だけ、歯科医師の守備範囲は医師より広いことになる。(もっとも処方権は医師がすべての科の薬を処方できるのに対して、歯科医師は歯科分野の薬しか処方できない。)

 もっとも消化器外科医が心臓の手術をしない(技術がない)のと同じように、歯科医師が口腔関連以外の手術をすることはない。でも、繰り返すが、それらは法律で決まっているわけではないから、やろうと思えばできる。

 今日もみなさまが知らないと思われることを書いてみた。

ドイツのギムナジウムと日本の教育制度

2011-06-08 11:54:59 | Weblog
 ドイツにはギムナジウムという中等学校がある。かつてはギムナジウムを出ないと、大学へは行けなかった。

 ギムナジウムへ行くかどうかは、小学校4年生で決められた。ギムナジウムに行かない子は職業学校に進学し、将来はなんらかの技術に優れたマイスターを目指した。

 昔のマイスターは、日本の「現代の名工」のように尊敬されたらしいが、今は違う。昔のドイツでは、技能を磨くのは若いうちからのほうがよいという、私が 2011-05-06 で主張したようなことが実践されていたのだが、最近では国民所得が上がり、誰もがギムナジウムに行きたがるようになった。

 それはあたかも、我が国の大学の大衆化と似ている。昔は成績の良い者がギムナジウムへ行った。今はそうでもないらしい。

 思えば20~30年前、ドイツの母親たちが立ち上がり、「選ばれた子だけギムナジウムに行くのは不公平だ」という声が上がった。その結果、今ではドイツの教育制度は日本のように「単線型」になっているという。

 確かに小学校4年生で将来が決められてしまうのは、可哀そうな感じもする。ドイツでも大卒の給料のほうが良かったから、わが子をギムナジウムに行かせたいのは親心だろう。

 ひるがえって、日本の単線型教育はどうか?大学の大衆化は良いことなのだろうか?学校さえ選ばなければ、希望者全員が大学に行けるという。

 私は希望者全員が大学に行けばよいと思う。大学というところは、学問を学ぶ以前に、社会に出る前の「猶予期間」とも言えるからである。大学を遊園地と批判する者がいる。大学生なのに分数の足し算ができないと嘆く者がいる。

 そんなことなぞ、どうでもよいのである。アメリカの大学フットボールチームの選手はほとんどが分数の足し算ができない。でも、フットボールが強ければよいのである。

 我が国でも、医学と芸術は大学で教えるべきではない。専門学校にするべきである。そして先述したように、若いうちから技能を磨くべきである。

 昔、東京美術学校が今の芸大として国立大学になるときに、反対した人たちがいる。それが正しい。美術のような技芸は、若い才能が国に管理されることなく、自由に勉強すればよい。優れた者は才能を伸ばすし、才能がない者はあきらめればよい。

 医学を専門学校にせよという議論は分かりにくいかもしれないけれども、美術や音楽なら分かっていただけるだろう。どうしてもこれらを大学で教えたいというなら、将棋の大学や囲碁の大学も造ればよい。

 将棋の奨励会や囲碁の院生の集まりを、大学に昇格させてみよ。できる奴はすごくできるし、できないやつは留年というバカバカしいことが起こるだろう。

メイド喫茶

2011-06-07 06:08:03 | Weblog
 メイド喫茶なるものが、しばしば話題になる。話題になるということは、まだメイド喫茶は珍しいものの部類で、完全に社会に溶け込んでいないことを意味するのではないか?

 私が住む豊橋でもメイド喫茶が駅前に一軒だけある。もう開店してから数年になるのに、まだ潰れない。儲かっているのだろうか?

 メイド喫茶と言えばアキバ(秋葉原)である。「おかえりなさいませ、ご主人さま」なぞと言って、可愛いメイド姿のウエイトレスが迎えてくれる。むろん私は行ったことはない。TVなどで取り上げられるので知っているだけである。

 かの業界では次々と新機軸を打ち出している。戦国喫茶なんていうのもできているのをTVで見た。そこではウエイトレスは和装で「おかえりなさいませ、親方さま」と言う。商品の値段は「両」で数える。お客が帰るときは「親方さま、ご出陣」なぞと言う。思わず笑ってしまった。

 東京在住の友人は、アキバは道が広すぎて、食い物屋がないので嫌いだと言うが、用事でアキバへちょくちょく行く。友人はメイド喫茶に入ったことはないそうだ。私も恥ずかしくて入れない。それに、商品がべらぼうに高い。オムライス一皿が2500円だったりする。

 友人の解釈では、キャバクラに行く勇気のない人がメイド喫茶へ行くのではないかという。そうか、メイド喫茶は一種の風俗業なのか。メイド喫茶は高いとはいえ、キャバクラより格段に安い。妙に納得した。(ちなみに私も友人もキャバクラには行ったことがありません。念のため。)

再々度サマータイム反対

2011-06-06 07:18:40 | Weblog
 数日前の中日新聞愛知県版の投書欄に、次のような投書が載っていた。

 筆者はアメリカに住む婦人で、彼女はこう言う。アメリカではほぼ全域でサマータイムが実施されており、まだ明るいうちに仕事が終わり、その後の時間を楽しく過ごしている。

 だから「サマータイムは良いものですよ」という趣旨の投書である。おりからの省エネの風潮に沿った意見である。

 だが、ここで注意しなくてはならないのは、投書者が「ほぼ全域」と言っている部分である。全域ではなく、「ほぼ」全域なのだ。すなわち、アリゾナ州ではサマータイムを実施していない。投書した婦人は善意だろう。「ほぼ」でごまかす気持ちはさらさらなかったと思う。でも読者は「完全に全域」と理解してしまうだろう。

 アリゾナ州でサマータイムが行われていない政治的な理由は、私には分からない。ただ、ひとつ言えることは、アリゾナ州はアメリカでも南部であり、気候が蒸し暑く、日本と似ているということである。

 アメリカ北部は乾燥していて、サマータイムを実施しても良いかもしれない。だが、南部にも同じようにサマータイムを実施するのは無理があるのではないか?

 今回の電力不足を契機として、またサマータイム論議が再燃している。どんな理由があろうとも、蒸し暑い夏という気候をもった日本にサマータイムを導入することに、私は反対である。

 これまで2回、このブログで委曲をつくしてサマータイムに反対してきた。(2006-09-09、2008-06-07。)このたび電力不足にかこつけて、サマータイム導入論がまたぞろ出てきたので、再々度反対する。理由は以下のとおりである。

(1)サマータイムを導入している国々は気候が乾燥していて、日本のように蒸し暑い夏ではない。どんな国でも気候は同じというのは、著しく想像力を欠いた考え方である。

(2)急に時間を変えると、一億総時差ボケとなって、体調を崩す人が続出する。これは2008年に日本睡眠学会が指摘して、サマータイムに反対した理由である。(当時の福田首相はサマータイム導入に前向きだったため、それに危機感を抱いた日本睡眠学会は急遽、声明を出した。)

(3)進駐軍の命令で日本でも1950年前後にサマータイムを導入したことがある。その時には、生活リズムを崩す人が多く、明るいうちから泥酔者が見られるようなこともあり、2年ほどでサマータイムは取り止めになった。その時のデータで、サマータイムは省エネにならないことも実証されている。

技能教育は若年から始めるほどよい

2011-06-05 08:09:24 | Weblog
 「高校生レストラン」というTVドラマに人気があるらしい。私はドラマは好まないので、あまり熱心な視聴者ではないが、モデルになった高校が実際に存在することは随分前から知っていた。

 番組でも紹介されているように、この高校は三重県に実在する。「調理科」だったか「食物科」だったか名称は忘れたけれども、とにかく調理を教える科である。高校にこの科が発足したことは東海三県の住人ならほとんどの人が知っている。

 私はこの科ができたとき、コロンブスの卵みたいだなと思った。あって当然の科なのに、思いつかなかった。

 高校生役の出演者は、男子も女子もみな白い帽子が可愛らしい。ひたむきに調理の勉強をしている。

 ある板前から聞いたことがある。ちゃんとした職人になるためには、中学を出てすぐに修行をしなければならない。技術もそうだが、味覚の修練が高校を卒業してからでは遅いのだそうである。

 鉄は熱いうちに打てという。自動車教習所の職員から聞いたことだが、ストレートで教習所を卒業する(つまり、一回も落ちない)人は、19歳までで20歳以上では皆無だという。

 だから、本物の職人になるためには、あの板前が言ったように高校を出てからでは遅いのだ。

 考えてみれば、我が国には工業高校、商業高校、農業高校などがある。これらの高校でも、元は若いうちに人材を育てようと創立されたものだろう。ところが現在では建学の精神が忘れられて、まるで普通科に行けない子たちが行く高校のようにさえ一部で思われている。そのような事態は誰の得にもならない。

 これまたTVドラマだが「アスコーマーチ」という工業高校を舞台にした番組が人気である。工業高校で行う実習風景をドラマで初めて見た。この齢から旋盤やフライス盤を練習すれば、将来かなり腕のいい職人になれるだろう。(この就職難の中でも、旋盤などの技術をもっている患者さんは、すぐに就職できる。)

 アメリカでは医学部に入るのに、まず普通の大学を出なくてはならない。医者たるもの、あらかじめ社会的能力を身につけ、一定の教養がなくてはならないと言うけれども、屁理屈である。医者は教養がどうのと言う前に、まずもって優れた職人でなくてはならない。

 そのためには、アメリカは医学教育のスタートが遅すぎるのだ。さぞかしアメリカの医者は手術が下手だろう。医学知識も日本の医者に及ばないだろう。

 極論すれば、高校に医学科を作ってもよいくらいだ。技能は若いうちから修行するのが良い。看護科という科がある高校があった。そこに3年間行くと、高卒後さらに3年間行かなければならない看護学校が2年間ですむという制度だった。

 ドラマを好まないなぞと言いながら、TVドラマから影響を受けた記述が少なくなく恐縮である。

 アメリカの医学教育については、2006-10-08 のこのブログの記事ですでに批判しておいた。

放射線に安全量ってあるのか?

2011-06-04 20:23:38 | Weblog
 私がまだ医学生だったころ、放射線科の授業で次のように習った。

(1)身体的な損傷(傷や怪我など)の場合、分散して(日をおいて、何度も小分けにして)損傷を受けると、一度に大きな損傷を受けた場合より、被害が少ない。それは、身体には修復機能があり、次の損傷までに前の損傷が修復されるからである。

(2)ところが放射線の場合はそうはいかない。遺伝子(塩基配列)には修復機能がないから、放射線を小分けにして何度も浴びても、同じエネルギーの放射線を一度に浴びても、傷害の程度は等しい。

(3)したがって、胸部レントゲン1枚でも被曝するのであり、必要性の低いレントゲンは極力撮ってはならない。

(4)とくに乳幼児の場合は、やむなくレントゲンを撮るときには、精巣や卵巣の部分に鉛のプロテクターを置いて、X線があたらないようにしなくてはならない。

 以上は40年前の知識である。X線は浴びれば浴びるほど身体に貯まっていくのであり、決して元には戻らないというので、印象的に覚えている。癌が老人に多いのは、それだけ長期間、自然放射線を浴びていたからだという説さえあった。

 だから、放射線に安全量なぞないのだ。少なくとも私の知識では。

 ところが、この40年の間に、実は遺伝子も修復されるということが分かってきた。それはDNAのコピーミスを修復する機能である。

 ただ、ここで早まってはいけない。何個遺伝子がやられると何個修復されるのか?ということがまだ分かっていない。また、コピーミスによる遺伝子の変異と放射線による遺伝子のキズを同等に考えてよいのかも分かっていない。(私が知らないだけかもしれないが。)

 だから、20ミリシーベルト以下なら安全だという議論は、まったく科学的でない。放射線の専門家の間でも議論が分かれているけれども、分れること自体がおかしい。まだよく解明されていないことは、「解明されていない」と正直に言うのが科学者の態度である。

 政治の世界では、論理(屁理屈でもよい)で相手を論破することも必要だが、科学的な議論の場合は、データがなければ分からないと(どんな派の科学者でも)言うしかないのである。

 放射線談義をしたので、ちと余談を。

 私の医学生時代、胃のレントゲン透視を主治医にせがむ患者がいた。胃の透視ならついこの前やったばかりなのにである。担当教授は次のように患者を諭した。

 「再度、胃の透視をすると、被曝量が原子力発電所の底辺労働者より多くなってしまいますよ」

 このような原発の現実は、当時としてはそうだったのだろう。そして、その現実を一般人も知っていたのだろう。原発の労働者が「苦しくてマスクなぞしていたら仕事にならない」とマスクなしで作業をしていたのは、国民がみんな知っていた。

 原発のおかげで作業員だった息子が白血病になったと訴訟を起こした親もいた。マスコミにけっこう大きく取り上げられたから、私も知っているのだが、取り上げられてもすぐに沙汰止みになった。マスクのこともである。

 今、福島原発で「決死隊」のように働いている人たちは、もしかすると40年前の原発の「底辺労働者」よりも被曝量が少ないかもしれない。今度こそは国民がみな見ているからである。

プリンセスプリンセス

2011-06-03 13:38:29 | Weblog
 あれは私がまだ精神障害者リハビリ施設に勤めていたころだから、もう20年以上も前になろうか。施設の利用者が読む男性週刊誌をなにげなく見ていたら、近く女性ばかりで結成されたバンドがデビューすると書いてあった。

 その名をプリンセスプリンセスという。実際テレビで見て少し驚いた。女性だけなのに、けっこう上手い。とくにリードヴォーカルの女の子はノリがいいし、しかも可愛かった。

 すぐにスターダムにのし上がり、ファンも沢山できた。長女がまだ高校生で、カラオケで「ダイヤモンドだね~」と上手に歌っていた。

 だがプリンセスプリンセスは、人気絶頂のときに解散して、いっさいのマスコミから消えてしまった。まだまだ長持ちするだろうと思っていた私は怪訝に思った。

 以来、プリンセスプリンセスはまったく出ない。ピンクレディーのように再結成されることもなかった。いったい何があったのだろう?リードヴォーカルの子が結婚でもしたのだろうか?それとも、外に知られたくないような内輪もめでもあったのだろうか?

 いずれにせよ私はそれ以来、一度もプリンセスプリンセスを見ていない。みんな、かなりの年齢になっていることだろう。

当ブログの最高順位更新

2011-06-03 12:57:27 | Weblog
 このブログの昨日の閲覧数が、160万ブログ中8107位となりました。この順位はこれまでの最高記録です。

 みなさまが熱心にアクセスしてくださるおかげです。ありがとうございます。

中井久夫氏の著書、ネットで無料公開

2011-06-02 11:43:23 | Weblog
 数日前、ここで紹介した中井久夫氏の著書が、ネットで無料公開されている。

 実に時宜にかなった現実的な方法である。被災者、救護者に限らず、多くの人にこれを読んでもらいたい。

 中井氏らしく、体育館を避難所に提供している校長先生の苦悩にまで配慮が及んでいる。

 キーワードは「災害がほんとうに襲ったとき」。