院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

再度、豊橋のレジ袋排斥運動を批判する

2013-09-15 04:39:57 | 環境

(このポスターは豊橋のものではありません。)

 レジ袋について「豊橋市ごみ減量の推進に関する提言」が誤りと思い込みに満ちていることは、今年4月のこの欄で述べた。「提言」にはレジ袋が生産されるときに、環境を破壊するとは書かれていない。(環境破壊がないことは、とっくに知られているから。)

 その代わりにと言うべきか、「提言」はレジ袋自体をゴミと考えている。ゴミは減らした方がよいから、レジ袋も使用しないようにしましょうと言うのが「提言」の趣旨である。他都市がレジ袋をやめているのに、豊橋は遅れているとも言っている。

 「提言」ではレジ袋を1枚12グラムと見積もり、各家庭が1年間に70キログラムのレジ袋を捨てていると、ありえない想定をしている。「提言」はなぜかレジ袋の量を過大に評価しているのだ。

 廃棄されるレジ袋の量をもっときちんと測定してほしい。豊橋市のごみ全体から見ればレジ袋の占める割合は微々たるもので、レジ袋だけを排斥しても、さしたるごみの減量にはならないはずだ。それなのに「提言」を出した組織は、スーパーにレジ袋を出すなと号令をかけた。まったく理不尽な号令で、不便この上ない。

 スーパーのヤマナカと農協はレジ袋に5円取る。サンヨネは1円である。これらの金は、何の役にも立たない運動に協力しなかったペナルティである。無意味なことに協力しないからとペナルティを課すのは病的だ。

 コンビニはレジ袋に金を取らない。それが健康的な判断である。


(上の写真は豊橋市の最新鋭のごみ処理場。)

IOC招致委員会は、お軽いのだろうか?

2013-09-14 05:04:21 | スポーツ

楽天インフォシークより。)

 オリンピックが東京に招致されたのはめでたいが、マスコミの論調に疑問が残る。

 プレゼンを行った日本のグループが激賞されている。IOC委員を前にした45分間のプレゼンは確かに見事だった。だが、マスコミが喧伝するように、本当に最後のプレゼンが招致に決定的な役割を果たしたのだろうか?

 だとしたらIOCの招致委員とは随分とお軽いのだなと思う。就活シーンにおいてさえ、企業は面接時の学生のパフォーマンスだけで採用を決めたりはしない。

 ましてオリンピックは、何千億円も動く国家的な大事業である。それが最後のプレゼンターたちの口八丁手八丁で決められたとは本当か?いかに周到なパフォーマンスでも、乗せられてはならない。IOC委員は乗せられたのだろうか?IOC委員とはそんなにミーハーなのか?

カネボウ白斑事件への疑問

2013-09-13 06:45:08 | 学術
 カネボウの化粧品によるとされる白斑の問題に、いくらか疑問がある。今回の事件で見られる白斑は、従来からある尋常性白斑(白なまず)と区別がつかない。尋常性白斑は一般人口の1~2%に生じる。

(1)当該のカネボウ化粧品を使用していた人の何%に白斑が生じたのか、発表されていない。発生率が1~2%より十分大きくなければ、その白斑は従来の尋常性白斑である可能性を排除できない。

(2)カネボウ化粧品使用者で、背中や足の甲など化粧品を塗らない場所にも白斑が生じている。この場合、化粧品との関係が薄くなる。つまり普通の尋常性白斑である可能性がある。(下の写真は前胸部にできた白斑である。上部左右に乳首が見える。)



(3)他社の化粧品でも白斑が生じたとの報道がある。カネボウの化粧品と同じ物質が含まれているのでなければ、これまた従来の尋常性白斑である可能性を排除できない。

 マスコミには以上のような疑問に答えられるように取材をしてほしい。

1964年の東京オリンピック

2013-09-12 05:34:31 | スポーツ
 2020年の東京オリンピック招致に成功した。まずは喜びたい。この日曜日から日本全体の気分が浮き上がってきたと感じる。オリンピック費用を福祉に回したらどれだけの恵まれない人が助かるかなぞと野暮は言うまい。国民の気分が高まれば、それは巡って福祉にも恩恵が来るだろう。

 前回、すなわち1964年の東京オリンピックのとき、私は中学生で東京に住んでいた。今回と同じくお祭りのようだったけれども、私は思春期特有のシラけで、「何が面白いのか」とさしてオリンピックを見なかった。

 前回の東京オリンピックが戦後復興の象徴だというが、戦後生まれの私には実感がなかった。ここから高度経済成長が始まったともテレビはいうけれども、経済成長は私が小学校の時からすでに始まっていた。

 東京の街はてんやわんやだった。突貫工事で東京中いろんなところが掘り返され、大幅にインフラが変わった。過去の東京の面影は消えてしまった。この前の北京が同じような状況ではあるまいか。


(Wikipedia "首都高速道路" より引用。)

 オリンピックと同時に新幹線が開通し、翌年、名神高速道路が開通した。(東名高速道路はまだだった。)名神は日本で初の高速道路だった。スピード狂の従兄と名神を走るだけの目的で国道一号線を名古屋まで行った。名古屋で一泊。その時、まさか自分が名古屋の大学に入るとは夢にも思っていなかった。


(Wikipedia ”新幹線0系電車”より引用。)

 後から思うと、1964年の東京オリンピックは、日本の発展に寄与した。表参道の高級スーパー紀伊国屋は(高価で)占領軍のアメリカ人にしか入れなかったけれども、東京オリンピック後は日本人の財布でも入れるようになった。

 2020年の東京オリンピックは、私の子や孫に何らかの影響を与えるだろう。1964年にはシラけていた私も、今回は大いに喜びたい。

消費税増税に寄せて

2013-09-11 03:43:37 | 経済
 この欄では極力政治の話はしないようにいている。私たちは政治について全ての情報をマスコミからしか得られないので、議論が近視眼的になる。要するに床屋政談に堕するからである。

 このたびの消費税値上げも半分は政治の話だが、半分は経済の話なので、少し疑問を述べよう。

 消費税の値上げは財政健全化の意味もあるそうだが、財政健全化とは赤字国債を減らすという意味を含んでいるのだろうか?消費税を3%上げると、税収はおおざっぱに7兆円ほど増えるのだそうだが、1000兆円の赤字をすべて補てんするには、増税分を全部つぎ込んでも140年かかる。利息を計算に入れればもっとかかる。そんなの意味があるのだろうか?

 増税分は多くを社会福祉に使うと言うが、社会福祉とはどこまでを含んでいるのだろうか?年金や健康保険にどれだけ投入するのだろうか?

 税金とは富の再配分の意味がある。消費税は全員が負担するから、富の再配分の機能があるのだろうか?年金も健康保険も受益額は貧富で差がなく、自分で支払った分を自分でもらうだけになるような気がするのだが、どうか?



(消費税の値上げは遅延なく満額行われるはずである。国民の多くが反対していない今は千載一遇である。延期とか段階的増税とか、つべこべ言っていられないのは明らかだ。)

(お忘れの方が多いのだが、小沢一郎さんはまだ自民党にいるときには消費税推進論者だった。消費税を15%にすれば所得税は要らなくなると言っていた。いま消費税増税に反対しているのは君子豹変すということか?)

「遊び」と「仕事」

2013-09-10 06:12:10 | 読書
 原始時代、それもまだ農耕が発明されていなかったころ、人類は野を駆ける獣をとり、生えている植物を食べてエネルギーにしていた。

 獣を狩ることは腹を満たすのに必要だったから、それが「仕事」だったかと言えば、そうでもない。昔のイギリス貴族がキツネ狩りで遊んだように、獣をとることは「遊び」の要素を含んでいた。まあ、「遊び」とは言っても、狩りに失敗すれば空腹に耐えなくてはならないから、その「遊び」には切実さがあり、その分いまの「遊び」よりずっと興奮するものだった。

 原始時代には「遊び」と「仕事」は分けることができなかった。この二つが分かれたのは農耕が発明されてからである。農耕によって人類は余剰を持つに至り、やがて貨幣と身分制度が生まれた。その延長線上に現代がある。

 原始時代には「仕事の生きがい」という観念も「遊びには金がかかる」という観念もなく、両者はともに快楽の源泉でもあり、苦難の元だった。

 現代は「遊び」と「仕事」が奇形的に分化したために、「悩み」が「仕事」に帰せられ、「快楽」が「遊び」に属すると解釈されるようになった。

 以上は私が考えた小難しい屁理屈である。下の本は、小難しい議論抜きで「仕事」の本質に迫っており、なかなか読ませた。著者は、そういう言葉は使っていないけれども「制度の奴隷」や「金という評価方法」について平易に語り、ほのぼのとした気分になる。



 私はこの本を読むまで、森博嗣という名を知らなかった。著者は元国立大学の工学部の教員で、研究生活を送っていたらしい。工学博士である。理科系人間だからか、考察は論理的で建前主義を許さない。仕事に不満を持っている人や、仕事に就いていなくて引け目を感じている人には一読の価値がある。

流行の起こり方

2013-09-09 04:15:20 | ファッション
 流行の起こり方はいろいろあるのだろうが、ここでは「だっこちゃん人形」の流行を取り上げよう。


毎日JPより。)

 私が小学校3年生のとき、上の写真のような人形が爆発的に流行した。

 単に黒いビニール製の人形なのだが、売りは2つあった。ひとつは目玉がフレネルレンズのようになっていて、見る角度によって開いたりつぶったりする。もうひとつは、手足が円弧上で腕にしがみつくことができた。

 隣近所の人たちが大人も子供も「だっこちゃん人形」を買った。小学生だった私も、その人形が猛烈に欲しくなった。だから近所の人たちが持っていても不思議には思わなかった。

 ここで問題になるのは、私自身が「だっこちゃん人形」の機能に惚れて欲しくなったのか、またはみなが持っているから欲しくなったのかである。

 みなが持っているものが欲しくなるということは、大いにありうることだ。みなが持っているから欲しくなる、それで買うから、ますますみなが持つようになる。こうして核分裂の「臨界」のような現象になる。

 何かの拍子にこのようなことが起こるのだが、元の品物にまったく見るべきところがなければ、「臨界」は起らないだろう。

 品物と同列に論じて申し訳ないが、AKB48にも似たようなところがある。メンバーはみな並みの女の子よりは可愛い。だからもともと「臨界」が起こる素地があったのだ。

 一方、ジャニーズ系のタレントは私には素地さえないように見える。それでも「臨界」に達しているのが、私には分からない。(その少年が大衆に受けるかどうか、ジャニーズ事務所の社長は本能的に分かるらしい。)

 ところで、私は「だっこちゃん人形」を「すぐにすたれる」との理由で買ってもらえなかった。

ストレスがうつ病の原因とは限らない

2013-09-08 00:33:13 | 医療


 ブラック企業という言葉が大流行である。

 ブラック企業はロクな給料も与えずに長時間労働をさせ、若者を使い潰す。潰された者の中からうつ病になったり自殺したりする者が多発するという。

 それはそうなのかも知れないが、「長時間、大きなストレスにさらされると、うつ病になる」と理解する人が多い。一般の人は「ストレス→うつ病」という図式を描いてしまう。だが、それは間違いである。ストレスがなくても、うつ病には罹りうる。また、うつ病に似ていても、うつ病でない状態が存在する。

 昔から言われていることだが、「昇進うつ病」というのがある。会社で昇進して、はた目にはめでたいのに、うつ病になってしまう。また、まじめな主婦に多いのだが「引っ越しうつ病」というのもある。せっかく念願のマイホームを建てて引っ越しすると、うつ病を発症するのである。(発症の機序についての詳細は別の機会に。)

 うつ病に似て、そうでないものもある。例えば恋人が死んでしまった場合、残された片方は悲嘆に暮れる。一見うつ病のようにも見える。だが、これは正常な反応であって、恋人が死んだのにヘラへラしているほうが、むしろおかしい。事実このような状態には抗うつ剤が効かない。(恋人が死んだのに、飲めば元気になる薬なぞない。)

 正しくは「大きなストレスにさらされると、うつ病になることもあるが、ならないことの方が多い」となる。別の言い方をすると「ストレスがないのに、うつ病になることがある」ということもある。

日記なぞ書かぬが健康

2013-09-07 05:00:09 | 生活


 中日新聞愛知県版の投書欄は、毎週金曜日は小中学生専用となる。大人の意見も子どもの意見も、似たり寄ったりの投書しか掲載されないから、なぜ子ども専用の日があるのか分からない。(大人の投書だって子ども並みの発想のものしか載せてもらえない。)

 それはさておき昨日は子供専用で、ある中学生の「日記を書くのは面倒になるが、頑張って続ける」との投書が掲載されていた。

 多くの人にとって毎日日記をつけるのは大変なことらしい。そして、日記を続けている人はいくらか尊敬されるようだ。

 ところが、日記を毎日つけるのは、私には病的な行為に思える。日記なぞ投げ出してしまうのが健康的な精神の持ち主である。

 実は私は学生時代から10年以上、毎日欠かさず日記をつけていた。途中ブランクがあって、40代からまた日記をつけ始め、これも10年以上続いた。

 わが身を振り返ってみると、日記をつけていた時期は精神的に危うい期間だった。「頑張って日記をつける」のではなく「精神的につらくて記録せざるをえない」から毎日続けていたのだと思う。

 今は健康的だから、私は日記をたまにつけるだけで、毎日は続けていない。いや、このブログを欠かさず続けているから、日記を書かずに済んでいるのかもしれない。もしかすると、ブログを何年も欠かさずに書くというのは、それ自体病的な行為かもしれない。

友だちとはなにか?

2013-09-06 06:12:14 | 心理


    友だちでいようだなんて本当の友だちならば言わない絶対  詠み人失念

 上の短歌は以前に紹介した。私はこの短歌が好きだ。

 小学生のころ、学校に放送局の「おねえさん」が来て、「○○小学校のお友だちぃ、元気ですかぁ?」と言った。私はその「おねえさん」と友だちではないし、集まった子供たちの中には友だちもいたが、ぜんぜん知らない子もいた。だから私は「○○小学校のお友だちぃ」とまとめて言われても困ると思った。

 昨日の中日新聞愛知県版の投書欄に小学生の投書が載っていた。その小学生は代表委員に選ばれた喜びを語り、代表委員の「仕事」として他の団体と交流があって、「友だちがたくさんできた」と書いていた。

 友だちなんて、そんなにやすやすとできるものではないと考えるのは、私が大人だからではない。投書した小学生の小学校の生徒の中には、私と同じ感想をもつ子供が必ずいるはずである。子供をあなどってはならない。

うつ病と躁うつ病の鑑別

2013-09-05 04:00:44 | 医療
 昔から、うつ病のうつ状態と躁うつ病(双極性障害)のうつ病相が同じものかどうか、議論になっていた。

 躁うつ病の発病は普通うつ病相でもって始まる。だから、発病初期にはその患者がうつ病なのか躁うつ病なのかが鑑別できなかった。

 そもそも、すべてのうつ病は結局のところ躁うつ病であり、単極性のうつ病と思われていた患者も、人間の寿命が十分に長ければ、いずれ躁病相が発現するはずだという意見もあった。

 私の経験でも、初め単極性のうつ病だと考えていた患者さんが、10年以上たってから初めて躁病相を呈して、ようやく躁うつ病だと分かった例が2,3例に留まらない。

 現在では、うつ病と躁うつ病は別の疾患だということで、統一されるようになった。両者では治療法が違う。躁うつ病のうつ病相に対しては、抗うつ薬が単極性のうつ病ほどには効かない。さらに、躁うつ病者に抗うつ薬を用いると、しばしば躁病相を惹起する。これを「躁転」という。

 だが、これまでのところ病初期のうつ状態から、それが単極性のうつ病かはたまた躁うつ病かの鑑別はできなかった。

 ところが近年、我が国の日立製作所が光トポグラフィーという装置を発明して、これによって病初期から、うつ病と躁うつ病の鑑別ができるという研究結果が出てきた。現在、臨床研究が進行中である。(だが、10年後の躁転を予測できるかどうかは、10年たってみないと証明できない。)


先進医療NETより引用。)

 この装置は遠赤外線によって脳内血流量の分布を測定するものである。

都会から見た田舎のイメージ

2013-09-04 05:20:59 | 生活
 小学校のころ、盆や正月にはみな里帰りをした。田舎のおじいさんおばあさんに会いに行くのだという。

 田舎には囲炉裏がある。冬だったら田舎には雪が積もっていて、かまくらなぞを作っている。



 教科書や図鑑には、都会の子どもたちが大きな荷物をもって、田舎のおじいさんおばあさん宅を訪問する図が出ていた。

 私は代々東京生まれで、祖父母も東京に住んでいた。だから田舎なんてない。訪れるべき田舎がある子どもたちを羨ましいと思った。

 長じてそれらの田舎は教科書や図鑑のステロタイプだと分かった。すべての田舎に囲炉裏があるわけでも、かまくらを作るわけでもないということが分かったころには、私は中学生になっていた。

化学兵器を使用したのはどちらか?

2013-09-03 01:10:43 | 歴史


 シリア内戦の化学兵器使用について、反政府側は政府側が使用したと大騒ぎする。政府側は反政府側がやったという。この決着は永遠につかないだろう。

 上の映像が繰り返し流されたけれども、これらの子供が化学兵器の被害者だという説得力はない。地下鉄サリン事件の現場報道からも分かるように、サリンが撒かれたら泣き叫んでいるひまなぞない。したがって、日本のマスコミは何を言いたくて、この映像を流したのか理解できない。

 私の少年期、韓国が北朝鮮との国境に何本もの地下トンネルを見つけた。トンネルを世間に公開して、これは北朝鮮がやったと発表した。ところが北朝鮮は、韓国がトンネルを掘ったのだと反論して、私は未だに正解を知らない。

 戦争とはそういうもので、ウソでも相手のせいにする。平気でウソをつくのだ。人殺しをしておいて、ウソだけはつかないという姿勢があったとしたら、そのほうがむしろ気持ち悪い。

続・夏休みの存在意義

2013-09-02 05:34:41 | 教育


 昨日で小中学校の夏休みが終わった。大人たちは、夏休みを規則正しく過ごさせようを必死になるが、自分たちだって子どものころ規則正しく過ごしたのか?

 夏休みというヒマを与えて、それをいかに自分流に過ごすかを考えさせるのが夏休みの本質かもしれない。

 最後まで宿題をためてしまって、夏休みの終わりころにつらい思いをした大人は多いだろう。私もそうだ。だが、そうした経験はしっかりと頭に残っている。夏休みの最後に焦って宿題をやった経験のない人は、せっかくの機会を逃してしまったことになる。

 楽しいこともつらいことも実地で経験できるのが、夏休みの存在意義ではあるまいか?

「定型の力」を放棄した自由律俳句

2013-09-01 05:01:50 | 俳句
    (1)大根の葉が川をさっと流れていく

と言うよりも・・

    (2)流れゆく大根の葉の速さかな  虚子

と言った方が、事実を的確に表していてピンとくる。

 これが「定型の力」である。575という枠内で語ると、事実がより事実らしく生き生きとしてくる。なのに、自由律俳句は(2)をわざと(1)のように言って、「定型の力」の利用を放棄している。

 自由律俳句は従来の定型をあえて壊して、または放棄して、何かを訴えようとしている。つまり、自由律俳句が自己主張できるためには、前もって定型俳句が存在していなくてはならない。定型と自由律は同格ではなく、定型があっての自由律である。だが、あえて定型を壊すという行為は、冒険というよりも不健康だと私には思える。

 実際、尾崎放哉や種田山頭火は生き方そのものが不健康だった。その不健康さを崇高なものと見なしたり賛美する風潮に、私は疑問を感じる。

 「定型の力」は素直に利用するがよい。「形式」や「約束事」をわざわざ壊して、表現の幅を縮める必要があるのだろうか?



 上のような雑誌の特集は、破滅を称揚する人々の心性に媚びた企画だと、私は思う。なんというか不幸ではない人たちの「怖いもの見たさ」に乗じているような感じがするのだ。

(俳句に馴染みのない方には、何を言っているのか理解できないだろう。今回はお許し願いたい。だが、少しでも俳句に造詣がある方には、一撃で分かるはずである。)