Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

『時代はかわるーーフォークとゲリラの思想』

2010年05月27日 | 
 「フォークとゲリラの思想」という刺激的なサブタイトルのついた1969年に刊行された本を古書店で買う。出版社は日本社会党の機関紙を出していた社会新報社で、この時点で、本が左派系の内容であることがわかるというもの。
 1969年といえば、まさに大学紛争真盛りのころで、フォーク・ミュージックが、体制批判などと関わっていた時期。フォークは「かくあるべき」という主張が、本全体から漂ってくるような内容である。「フォークはどこへいくのか」という娯楽化しつつあるフォークへの不安も見え隠れし、当時の左派系の人々がフォークミュージックをどのようにとらえていたのか興味深い。
 ところで、この本の巻末に「付 みんなでうたってほしいうた」という二十数頁があり、そこに楽譜付で入っている歌がこれまたすごい。ほとんど当時は放送ではかからなかった岡林信康、中川五郎、高石友也、南大阪べ兵連、東京フォークゲリラなんていう方々が作ったり、歌ったりしたもので、とりわけ放送にはのりにくい歌ばかりで驚きである。ちなみにわが方の愛する高田渡もちょくちょく本に登場する。

S先生への預かりもの

2010年01月28日 | 
 バリで調査を続けながら一時帰国した博士課程のゼミの学生が、これまたバリで調査中の博士課程のゼミ学生から託されて、バリのガムランの音律研究に取り組むS先生への本を預かりました。ちょっとわかりずらいですね。(S先生、今日、本を送ります。)
 ゴング・クビャルというガムランについては、歴史、その楽器や音楽の変遷についての大きな研究というのがありそうでないという現状でしたが、とうとうバリ人の研究者(北部バリ出身)により、この編成の発祥地ブレレン地域のゴング・クビャルに関する研究が刊行されました。約400頁の大著です。

著者:Pande Made Sukerta
書名: Gong Kebyar Buleleng: Perubahan dan Keberlanjutan Tradisi Gong Bali
出版地:Surakarta
出版社:ISI Press Surakarta
出版年:2009
頁数:xxiv, 389p.
 
 

中山康樹『ビートルズの謎』(講談社現代新書)

2009年11月15日 | 
 マニアックな新書を買って読んでしまいました。すべては那覇にジュンク堂ができたせいです!しかし、マニアはこういう本を読み始めると、一気に読まないと気がすみません。それにしてもビートルズ研究はどうして、次から次へと新証言とか、証人が登場するんでしょう。
 私がこの本の中で最も興味を惹いたのは「第2章 シタールはどこからやってきたのか」であり、正直、他の章は見ないで買いました。もちろんシタールについてはいろいろ新しい情報もありましたし、それなりに勉強になりました。
 ただ、他の章も読んでしまったので、「こういう裏話は知らない方がよかったよな」という後悔も少しあります。知らないままでいることが幸せってこと、世の中にはたくさんあるわけだし、ビートルズ神話も私にはそれでよかったのかもしれません。でも買ったことも、読んだことも私の意志でしたから。
 ところで、なぜここまで帯を巨大にしなくちゃならないんでしょうね。パジャマのズボンのゴムが、胸のあたりまで来ているようにみえるじゃないですか。私は、新書のこの手の帯は嫌いです。ちなみに私は帯で買ったわけじゃありません。これは棚差しの本でした。別に弁明する必要もありませんが……。

本が出ます

2009年11月10日 | 
 Pの本『バリ島ワヤン夢うつつーー影絵人形芝居修業記』(木犀社)が、今週刊行されます。東京では今週末、大手書店に並びますが、沖縄の書店はやっぱり東京から距離があるので、来週18日頃になります。
 装幀家の菊地信義さんによる素敵なカバーになりました。表紙の写真はデレム(右)とサングト(左)。悪役の従者です。でも、そんな悪者に見えないですよね。ワヤンの登場人物は、意外に憎めないキャラクターなのです。
 この表紙のデレム、実はシワ神の怒りをかったために首を切り落とされてしまったのですが、その後、再び付けられたという神話があり、ワヤン人形も首と胴体は別々に作って、ビスで繋ぎ合わせています。首と胴体を別々に作る人形は、このデレム一体だけなのです。
 カバーの全貌は本のブログの方をご覧くださいませ。

勝間和代『読書進化論』

2009年11月01日 | 

 連休と大学祭で授業がないと、自動的に会議もなくなるために、やりたいことがまとまってできる喜ばしい数日が続く。特にありがたいのは本がまとまって読めることである。私は「カツマー」では決してないのだが、先日、勝間和代『目立つ力』を読んでから、少し考えることもあって、続いて『読書進化論』なる本を手にとってしまった。内容については賛否両論的な部分もあるのだろうが、この本、実は本の書き手が、本を売る努力をする必要性を最終章で説いている。

 私は、「本を書く」ということは、「本を知ってもらう、読んでもらう努力をする」ことも含んでいると考えている。「本を売る努力」だって著者の重要な仕事である。書いたのは本人なのだから、あとは出版社にまかしとけばいいよ、というのはちょっと無責任のような気がする。ベストセラー作家や、数百冊の専門書ならともかくも、任された出版社はそれなりに迷惑なのではなかろうか。しかし一方で、「本は消費財と違うんだよ」という人もいるだろう。本を売る研究者を「商魂たくましい」と影で批判する者だっているだろう。でもいったい何が違うのだ? どんな消費財だって、広告をして、知ってもらって世に出るわけで、それを知って購入するのは消費者だから、ここではその質や内容が重視される。どんなに広告したって、その内容がともなわなければ、消費者は決してそれにお金を払わないはずだ。そう考えれば本だって同じなのではないだろうか?

 だからといって、初版印刷数のしれた本に大量の広告費なんて投入できるはずがない。じゃあ何をすればいい?それを考えるのがまさにプロモーション戦略である。出版社の方と相談しながら、いわゆる「伝統的な方法」から、「新しい方法」まで、多角的に取り組む努力をすること。でもそれが何なのかはよくわからなかったのだが、勝間和代『読書進化論』)は、私がネットで展開する方法(本のメイキング・ブログ『バリ島ワヤン夢うつつーー影絵人形芝居修業記』)も含めて、それが間違った方法ではないことを示してくれている。

 とにかく、本を愛する人間であれば、その本が誰の目にも触れられることなく、裁断されて廃棄されるなんて思ったら耐えられないものだ。それが自分の本だったらなおさらである。だからこそ「本を書いた私は、それを知ってもらう努力をする」と決めている。その後は、消費者(読者)次第だからだ。


勝間和代『目立つ力ーーインターネットで人生を変える方法』

2009年10月21日 | 
 先日、今月出版されたばかりの勝間和代『目立つ力ーーインターネットで人生を変える方法』(小学館101新書)をジュンク堂で買って読んでみた。ネットで「目立つこと」によりチャンスが開けるという論理、この著者の場合はそれでたいへん著名になったようである。もちろん、内容がともなわなければ、たとえ目立った仕掛けがあったところで長続きはせず、著者の言うようにコンテンツがまず第一である。しかし、確かに「目立つための工夫」というのは必要だろう。
 私はどちらかといえば、目立つことが嫌いである。その存在にちょっと気づいてくれればもう十分で、「おれだよ、おれ」みたいな「オレオレ攻撃」は苦手である。しかし今、出版する自分の本のことを知ってもらうために「目立つ」努力をしなくてはならないのだ。ただ漠然とブログを開設するだけでは、そこを訪れる人は限られた友人だけだろうし、やはり戦略を練り、表現し、継続的に改善、継続しなくてはないという本書のストリーはある意味、実に納得できるものだ(しかし、このブログについては、特に目立たせることは考えていない)。
 ところで、この種の本は「自己啓発本」のカテゴリーに入るのだろうが、確かに読み終わると、自己啓発されたような気になるから不思議である。これを読んで、ブログの画面設計をちょっと変えてみたのだが、読者は気がついているだろうか?

ジム・フジーリ『ペット・サウンズ』

2009年10月05日 | 
 ジュンク堂散策で発見した本の一冊が、写真のジム・フジーリ『ペット・サウンズ』(村上春樹訳)である。本日、読破。この緑の表紙を見れば、ロックファンならば、ビーチ・ボーイズの名盤「ペット・サウンズ」に関する本であることは一目瞭然であろう。実は、私は中学生の頃からこの「ペット・サウンズ」の大ファンであり、すでにこのブログ(2008年10月5日)にもとりあげている。僕の中では「ペット・サウンズ」はロックアルバムの金字塔の一枚である。
 この本、なんと著者の「ぺット・サウンズ」に関する愛の結晶である。ロックマニアの中では高く評価されていても、ビートルズの「サージェント・ペパーズ」ではなく、「ペット・サウンズ」一枚のアルバムだけについて本一冊分も語っちゃうなんてもう「おたく」以上の存在である。だからこそ「ペット・サウンズ」を知らない人が読んでも、「ぺット・サウンズ」がどんなにすばらしいか、ということがしっかり伝わってくる。
 そしてこの本、村上春樹が訳者であることに驚いてしまう。特に、本文の中のあちこちに引用される歌詞の邦訳がすばらしい。日本版のCDに掲載された歌詞が間違っているというわけではないのだが、村上春樹の訳はまさに「詩」なのだ。まず《サーフィンUSA》を聞いた後に「ペット・サウンズ」を聞いてから、この本を読むのがベストである。

阿部櫻子『インド櫻子ひとり旅ーー芸術の大地』

2009年08月10日 | 
 7月末に出版された安部櫻子『インド櫻子ひとり旅――芸術の大地』(木犀社)を読む。この本は著者が1990年前半から3年間にわたってヒンディー語を学ぶために留学した間に、絵画や入れ墨に興味をもって、少数民族の村を旅した紀行である。
 私は、著者が最初に興味をもったミティラー画についても、インド北部の少数民族の生活やその生活と切り離すことのできない入れ墨のこともまったく知らずにこの本を読み始めたのだが、正直なところ、そうした民族誌的な記述よりも、女性が一人でインドの少数民族の文化を学ぶことの困難さと、そんな状況においても好奇心を失わずに出会いを求め続ける姿にある種の感動を覚えた。そして少数民族である「かれら」の語りを著者が解釈して表現する手法ではなく、彼らの語りを直接話法で記していく「語り口」に惹き込まれた。
 外国人が現地であたたかく迎えられるわけではないということも「かれら」の台詞の中から生々しく伝わってくる。たとえば著者に対して、入れ墨を入れられながら涙を流す少女が「写真を撮っているあんた、そんなに知りたいなら、あんたも入れ墨彫ればいい。(後略)」というくだりは、文化人類学者が読むと、自分にも心当たりがあるようなできごとではなかろうか。
 著者の体験は、バリ島を調査する私にとって考えも及ばないほどハードなものである。この本にはさほど触れられてはいないのだが、私はこの旅、あるいはインドの生活の中で、著者が日本にいたときとは比べものにならないほどの凝縮した「喜怒哀楽」を経験してきたのだと想像する。これだけの生活や旅をすれば当然のことだろう。著者は旅の後半、カルカッタへ向かう車窓で「心に残された旅の破片をいつまでも反芻する」という表現を用いている。この文章は、旅人の心模様について、的を得た表現だと感心してしまうのだが、旅人である私もまた常に経験していることなのだ。しかし旅人が反芻するのは、旅をした長い時間に経験してきたさまざまな感情、たとえば嬉しかったことや悲しかったことなどであり、風景や情景はそうした感情が呼び覚ますものなのではないかと、私はいつも考えるのである。この本に著者の体験した風景や状況が鮮やかに描き出されているのは、それだけこの旅の中で旅人が言葉では言い尽くしがたい喜怒哀楽を経験しているからこそだと思うのだ。帰国しても常に反芻し続けている著者のさまざまなフィールドでの感情の記憶が、それに連動して鮮明な光景としてよみがえってきているような気がしてならないのである。


「はずれ」の本

2009年07月31日 | 
 鳥の名前のバリ語名称を調べようとしているのだが、写真や絵もあって、さらにバリ語の名称も掲載されている本を持っていない。ふとPeriplus Editionsが以前出版していたシリーズにFlowers of BaliとFruits of Baliがあって、その中にバリ語とインドネシア語表記があったことを思い出した。もしかすると同じ出版社でBirds of BaliがあるかもしれないとAmazonで検索してみると、大当たり。しかし1989年に出版された本はすでに絶版で古書もたいそうな値段がする。諦めながらも、とりあえず「日本の古本屋」のサイトで検索すると、なぜか日本の古書店でこの本がヒットするではないか!もう、嬉しくてすぐに購入手続きをした。
 この本が昨日、大学に届いた。これでバリ語の表記もバッチリと思って本を開いてみると・・・これが大はずれなのであった。カラーで描かれた鳥の絵が美しいのだが、学名と英名しか書かれていないのだ。これにはガックリである。送料を入れれば2000円近い出費なのにもかかわらず、必要な情報を得ることができなかったわけなのだから。それにしても同じシリーズなのだから、表記を同じように学名、英名、インドネシア名、バリ名と表記してもらいたいものだ。
 これがインターネットで本を買う場合の落とし穴。わかっていながら、タイトルに騙されるという経験をしたのは正直、両手の指の数では足りないほどだ。特に洋書の場合はその確立がかなり高い。インターネットは本当に便利なのだが、目次や内容がブラウズできないのが痛い。グーグルではすでに洋書の目次や内容の一部を見ることができるサービスが始まっているがこれもまだごく一部である(もちろんこのサービスに助けられたことも多い)。ところで、もう一冊、1989年にOxford Univ. PressからThe Birds of Java and Baliという本が出ているのだが、これにはバリ語やインドネシア語名称は出ているんだろうか?今度はもう少し慎重に調べてから購入することとしよう。

アユ・ウタミ『サマン』

2009年07月08日 | 
 2週間近くかかって、インドネシアの女流作家アユ・ウタミ『サマン』を読み終えた。翻訳出版されたのは1年以上前だが、その存在は知っていたにもかかわらず、ここまで引っ張ってきてしまった本の一冊。こんな本がたくさんあってたいへんである。この本、結構、時間軸がストレートに設定されていないし、「わたし」なる人物が章によって変わるために、時間をかけて読まないと舞台設定を見失ってしまい、頭の中で筋を右往左往してしまうことになる。しかし不思議と人間はそうした作家の手法に慣れてしまうもので、終わる頃にはそうした章ごとの変わり具合を楽しんでいる。
 それにしてもこの『サマン』だが、私には衝撃的な一冊だった。まず、今のインドネシアが、この内容を発禁にせずに出版できる国へと成長したこと、そしてこれがフィクションでありながらも小説の舞台となった1990年代にはまだ小説に書かれているような人々への搾取や政府の圧力が普通に行われていたことを想像させるからである。
 スハルト政権の崩壊のプロセスを私は自分の研究フィールドからずっと見守り続けてきた。そしてその後の国家政策や方針の転換もすべて・・・。言論の自由が認められた直後に出版されたこの本は、政府に批判的内容、それまでのインドネシア文学にはない性描写があっても、「変わっていくインドネシアの象徴」として出版されてベストセラーとなったのだろう。スマトラ、ジャカルタ、ニューヨークというグローバルな世界を描いていることも、インドネシアが閉じた国家でないことを物語る。文化論を語る研究書ではないが、インドネシア文化を研究する人々がこの本を通して考えられることはさまざまあるのではないだろうか?