Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

Sutasoma

2014年10月26日 | 
 カウィ語で書かれたスタソーマ物語を研究し、すべてを英訳した文献のオリジナルを日本の古本屋から入手した。700頁近くあるインドで印刷された本でとっくに絶版になっている。
 実はこの本のコピーはすべて持っていて、1990年代にそれをすべて読んでスタソーマ物語を勉強したのである。だからある意味、二冊目ということになるのだが、やはりオリジナルが手元にあるという不思議な喜びがある。なんだか無性に嬉しくて昨晩はこの本を夢中で読んだ。
 今はこの本以外にもスタソーマについては別の研究者の英訳が出版されている。しかし、やはり私の原点は自分の師匠から学びノートにびっしり書き込んだスタソーマのメモと、のSANTOSOによってまとめられたこの文献なのだ。そんなことを思うと愛おしいくて、緑の表紙をそっと撫でてしまう。
 

「お国のため」という模範解答

2013年07月11日 | 

 このところ、レイモンド・チャンドラーばかり読んでいて、日本の小説とは4ヶ月くらい離れていたのだが、ワヤン一座のメンバーからお借りした百田尚樹『永遠の0』を昨日読了。2006年に単行本で刊行され、2009年に文庫化して今年で35刷というから、いわゆるベストセラーなのである。しかも今年の冬には映画が公開されるらしい。
 主人公として描かれる零戦乗りは、生きることに執着し、「国のための死」が美徳と信じられていた時代に、家族のために生き続けることへの執念で、周囲からの非難に屈することなく、戦闘機に乗り続ける。小説とはいえ、その信念たるや凄まじいものがある。
 戦争中、戦士たちは「お国のために」自らの命を捧げたといわれる。靖国神社にはそんな英霊たちが眠っているのだと。私はそれを否定しているわけではないし、そうした教育が戦前に行われていたことを知らないわけではない。「お国のため」というのは当時の模範回答なのだから。
 しかし、戦って死んでいった人々は、本当に「国のため」だけに命を捨てられたのだろうか?教育という後天的な知識、あるいは洗脳以前に、人間として、「誰か」を守るために戦ったり、そして、生きようとするのではないか?そして「誰か」は「国」や「天皇」と言い切れるんだろうか?
 私はこのことに以前から違和感を抱いている。というのは「クンバカルナの戦死」というワヤンの演目の中で武将クンバカルナは、「国のために戦って、命を落とす」悲劇のヒーローとして描かれるのだが、「反戦」をテーマにしている一方で、70年近く前に日本で起きた戦争を美化している演目を自分は上演しているのではないか、と疑心暗鬼になってしまうことがあるからだ。クンバカルナは、本当に「ランカ国」を救う一念でラーマの矢に屈したのか?
 私の答えは「否」なのである。私の空想の中のクンバカルナは、「兄を見限る」と口にはしたものの、ウィビサナのようにそれができない、不器用な男であったのかもしれないし、あるいはラワナにさらわれたラーマ王子の妻、シータに惹かれ、その不憫さゆえに彼女のために戦ったのかもしれない。ようは、自分の「心」を隠蔽するために「国のため」という模範解答を振りかざしたのだ。そんなことを考えると、ますます10月のワヤンの浜松公演が私に重くのしかかってくるのである。
 

 


Walter Spies: A life in Art

2012年12月31日 | 
 那覇から浜松に引っ越したとき、本をかなり整理した経験から、今後は本を買うのを控えようと決心し、現在は絶対に「今、必要」という本以外は買わなくなった。そうなると意外にに買う本というのは少ないもので、バリでも、継続講読している雑誌以外、今回は7,8冊の芸能や宗教関係のインドネシア語の本を買ったくらいである。
 さて、今回、悩んだのが写真のワルター・シュピース研究の大著。これはでかくて重い。内容は研究書としてもすばらしく、さらに画集としても質が高いのである。でも僕は音楽学者だし、今すぐ使うかといえば疑問。しかも値段も1万円近くする。悩んで、悩んで…でも結局、買うことにした。以下のその理由である。
・ゼミの学生が1931年のパリ植民地博覧会におけるバリのグループによる上演芸能の研究をテーマに選んだから。
・店の最後の一冊だったから。
・Amazonでなぜかヒットしないから。
 一つ目の理由は若干のこじつけでもあるが、シュピースはこの公演に深く関与しているし、かなりの演出を加えた可能性もある。じゃあ、大学で買ってもらえばいいじゃない、となるのだが、そこはやっぱりPの病気。手元にないとだめなのである。二つ目については、まあ、本でなくてもよくあることで、特売で最後の一個残った洗剤とか、つい買っちゃうみたいな…。三つ目は検索の仕方が悪いのかなあ。ということで、悩んだわりには勝手に理由を作って、最後はあっけなく購入となる。私の大学の学生諸君は研究室にくればこの本が見られる。

『いねになったてんにょ』

2012年01月09日 | 
 かみさんが横浜の実家から、自分が読んでいた絵本で、亡くなった母親が大切に保管していた絵本を沖縄に持ってきた。そのうちの一冊が『いねになったてんにょ』。発行年は1968年(昭和43年)であるから、まだ私もかみさんも幼稚園の年齢の頃の絵本である。
 『いねになったてんにょ』は、表紙にも書かれているようにインドネシア民話である。天女ティスノワティ(本ではチスノワティとなっている)が人間の男性(農民)を愛してしまい、神々の怒りをかって「稲」にされてしまうちょっぴり悲しいお話だ。専門的には、この神話は稲神デウィ・スリとも関わるもので、比較的よくしられた民話(神話)だろう。
 ところでこの絵だが、最初から最後まで完全にワヤンを意識して描かれている。絵を描いたのは水四澄子さん。私は画家については存じ上げないが、ワヤンを知らなければ書くことのできない絵が満載で、その表現もすばらしい。
 それにしても、かみさんは幼稚園の頃からこんな絵を見て育ったのかと思うと、彼女が今尚インドネシアと関わり続けているのも納得である。

バパ・バリ・三浦襄

2011年10月26日 | 
 最近読んだ本の一冊に『バパ・バリ・三浦襄』がある。表紙のデザインについては個人的に「ちょっとどうかな?」の思ってしまうが、内容については三浦襄についてよくまとめて書かれている。
 私が三浦襄について初めて文章を書いたのは、「三浦襄氏のこと」『SURAT BALI(バリ芸能研究会会報)』5号, 1991, p. 8、であり、今から20年も前である。三浦襄のことを知ったのは、台北帝大出身の私の祖父が、戦争中にバリにあった日本の会社に勤めていた祖父の親友(藤岡保夫)を紹介してくれたことがきっかけだった。すでに亡くなられて久しいが、『バパ・バリ・三浦襄』の中にも登場する藤岡保夫氏は、その後、私家版の本を作っては私に送ってくれるようになった。その本の中に三浦襄のことが書かれていたのである。
 その後、三浦について書かれたいくつかの本や論文を読んだ後、三浦襄のことをもっと知りたくなって、私は関西に住んでいた藤岡保夫氏に会いにいった。そのとき、彼が涙を流しながら見せてくれたのが、三浦襄から遺品としてもらった腕時計だった。また私がかつて研究した音楽学者黒澤隆朝の日記にも、三浦のことがたくさん出てくる。私の編集した本の中では、三浦と黒澤の写っている写真も掲載している。
 一年前、学生がバリに来たとき、私はかれらを移転した三浦襄の新しい墓に案内した。あえてこのブログで三浦襄のことは語らないが、戦争中のバリに興味があれば、一度、この本を読むことをお勧めしたい。この本を読んだ後、きっとデンパサールにある三浦の墓の前で手を合わせたいと思うようになるはずである。
 それにしても今考えてみれば、バリと縁のない植物学者の私の祖父の親友が、バリとかかわっていたなんてある意味、バリ芸能の研究者となった私の人生にとって運命的な存在である。しかも、その人が三浦襄の最期の日を見届けていたなんて……。

『東京人』9月号

2011年08月08日 | 
 最近出版された雑誌『東京人』9月号の特集は「フォークの季節」である。若者はこれを見て、「夏は、箸よりもフォークで食べるスパゲティが旬」なんて思ったりもするんだろうが、1960年代後半に思春期を過ごした世代の人々にはかなり刺激的な特集である。しかも表紙がいい。60年代であろう集会で小室等がギターを弾きながら絶叫している。
 今日はほとんど一日、部屋で過ごして、この雑誌の特集記事(なんと80頁近くある)を読破した。インタヴュー記事を含めてひじょうに充実した内容である。正直、私のポピュラー音楽の授業で「フォーク」について学ぶより、この雑誌を読んだ方がずっと勉強になる。
 大学で教えている芸術大学の学生たちは、フォークについてほとんど何も知らない。ほとんど死語になりかけているのかもしれない。「お父さんとお母さんがカラオケで歌う曲」という学生がいたが、まさにこの表現は「自分とは無関係な音楽」であることを意味している。
 『東京人』の購読層はたぶん大学生ではないだろう。そんな雑誌にこんなディープな特集が組まれるわけはない。しかし、ぼくはぜひ、今の若い世代にこの特集を読んでもらいたいと思う。日本ポピュラー音楽の歴史の片鱗に触れてもらいたい。そしてなぜ今のポピュラー音楽が存在しているのか考えてもらいたい。

フィールドワーカーズ・ハンドブック

2011年05月27日 | 
 『フィールドワーカーズ・ハンドブック』という本が出版社から送られてきました。書店には来月から並ぶそうです。
 Pは、この中の第6章を書いています。「体得するフィールドワーク」に焦点を当てたもので、ガムラン関係者から見れば「体得するのが当たり前じゃーん」なんて思うかもしれませんが、文化人類学のフィールドワークの方法の中で、このように取り上げられたのははじめてだと思います。この中では、音楽や芸能の体得の重要性やインフォーマントとの関係、そのまとめ方などを書いてみました。
 あくまでも「私(民族音楽学)流」のフィールドワークの方法の一つですが、録音や録画、インタヴューなどに加えて、「体得」もまたフィールドワークの一つの方法として、本書の中で取り上げてもらえたことを嬉しく思っています。この本自体は、文化人類学にとどまらず、民族音楽学を学ぶ学生にも役に立つ本です。

 日本文化人類学会(監修)
 鏡味治也・関根康正・橋本和也・森山工(編)
 『フィールドワーカーズ・ハンドブック』
  世界思想社、2011年
  定価:本体価格2,400円+税



ぼくは12歳

2011年05月16日 | 
 高校生から大学生にかけて、よく読んだ詩集の一つが岡正也『ぼくは12歳』だった。著者は私と同じ1962年生まれで、中学1年の7月、自らの命を絶った。同じ時代を生きたということ、ビートルズを熱心に聞いていたということ、そんなことが身近に感じられたことをよく覚えている。
 彼の詩には美しく着飾った一切の言葉がない。俳句や短歌とも違い、ストレートに自分の気持ちを吐露する数行に、心を打つ何かがある。しかし幼児の絵みられるような「無垢なる抽象画」にある種の感動を覚えるのは違う。彼は詩を自分なりに理解した上で、短い言葉に息吹を与えている。そこには聴覚、味覚、視覚、触覚に訴えかける何かがある。
 私は数日前から彼の詩が読みたくなって、週末、東京に帰った折、実家の書庫の隅に眠っていた文庫本を探し出した。もう20年以上、この詩集から遠ざかっていた気がする。最初からゆっくり読み返しているうちに、なんだか自分に対してすっかりつらくなって、悲しくなって、何度も天井を見上げた。
「君が生きていれば、今、私と同じ歳だ。君は、知らない同級生たちに、すっかり大人に慣れてしまった同級生たちに、子どもが見えなくなってしまった同級生たちに、この詩を通して今なおこうしてやさしく語りかけているのかい?」

 ぼくの心
 
  からしをぬったよ
  体に
  そうしたら
  ふつうになったんだ
  よっぽど
  甘かったネ
  ぼくの心って
         岡正也『ぼくは12歳』(角川書店、1982年、112頁)

のらくろ

2010年08月14日 | 
 「今どきの若者」なんて言い方をすると自分がいかにも「おやじ」の感があるのだが、その「若者」たちは「のらくろ」という漫画をを知っているだろうか?少なくても私の教えた学生たちで「のらくろ」を知っている学生は数えるほどしかいなかった。当然である。「のらくろ」は昭和6年から16年までの10年間『少年倶楽部』に連載された漫画なのだから。
 私は子どもの頃からこの「のらくろ」が好きだった。父の実家には、戦後復刻された『のらくろ全集』があり、正月、お盆と世田谷の父の実家に行き、自分の祖父母とのあいさつもそこそこにこの全集を読みふけった。行くたびに読んだので、いったい何回読んだかわからない。そのせいか、今も話の大半を記憶してしまっている。
 実は、私の父が10年くらい前だろうか、その全集を古書店で買ってきて、自分の本棚に並べた。私はもう40歳に近い頃でこの全集と以前のように接することはなかったが、今度は、私の息子が同じように、私の東京の実家に戻るたびにこの『のらくろ全集』を読むようになった。彼も私と同様、数十回、『のらくろ』を読み続けているわけだ。
 実家には、この全集とは別に、講談社が少年倶楽部文庫として出版していた三冊になった『のらくろ漫画集』もある。中学2年にもなる息子は、あいもかわらず、実家に戻ると今度はこの三分冊の「のらくろ」を熟読していた。私の実家=「のらくろ」講読、という図式が彼の東京での生活様式に組み込まれてしまっているらしい。残念なことにこの三冊本には、全集にある「のらくろ探検隊」が収録されていないのだが……。

ウメダダンスの様式と意味

2010年07月29日 | 
 神保町の古書店の店頭ワゴンに面白い本を見つけた。タイトルはSociety and the Danceで、舞踊人類学の論文集である。500円の値段シールが表紙に無造作に貼られている。ぼくは手にとって所収されている論文のタイトルを眺めた。
 すると、その中に極めて興味深い論文のタイトルがあることに気がついた。タイトルは、Style and meaning in Umeda dance. なぜ興味深いかって? そういう個人的な理由には答えられないのだが、とにかく私は炎天下の中、古書店の店頭ワゴンの前でこの論文に食いついたのである。
 この論文はパプアニューギニアのUmeda villageのidaとよばれる儀礼における仮面舞踊の研究であり、その踊りのステップの描き方の社会的意味について論じられたものなのだ。ぼくは迷わずこの本を買い、喫茶店に直行した。モンブランケーキを食べながら、この論文を読んだのち、本日のメインイベントである科研の打ち合わせに向かおう。ぼくのために神保町を打ち合わせの場所に設定してくれたS先生に感謝。