Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

次の本のテーマは?

2010年01月30日 | 家・わたくしごと
 ある雑誌から「書きたいテーマ、出したい本」というコラムへの執筆依頼が来た。2ヶ月前に本を出したばかりなのだが、その延長上で原稿依頼がきたのだろう。 
 私は、小説家のように常に締め切りに追われ続けても、何も出てきそうにない。やはり執筆する原稿の字数にはどうしても波がある。義務的に文章を書くことができないのである。一論文程度のものなら締め切りがあって、それに向かって執筆できるが、本一冊となるとそれは厳しい。
 書きたいテーマ、出したい本というのはあるし、少しずつではあるが原稿はたまりつつある。しかし、書き終えるのはまだ1年以上はかかるだろうし、なんだか本を出してからすぐに「書きたいテーマ、出したい本」というタイトルで文章を書くのは、少々気恥ずかしいものだ。しかし、出版されるまで何年かかるかわからない内容の本について夢を描くなんて楽しいじゃないか。それに文章にすることで、目標が明確になるわけだし。

S先生への預かりもの

2010年01月28日 | 
 バリで調査を続けながら一時帰国した博士課程のゼミの学生が、これまたバリで調査中の博士課程のゼミ学生から託されて、バリのガムランの音律研究に取り組むS先生への本を預かりました。ちょっとわかりずらいですね。(S先生、今日、本を送ります。)
 ゴング・クビャルというガムランについては、歴史、その楽器や音楽の変遷についての大きな研究というのがありそうでないという現状でしたが、とうとうバリ人の研究者(北部バリ出身)により、この編成の発祥地ブレレン地域のゴング・クビャルに関する研究が刊行されました。約400頁の大著です。

著者:Pande Made Sukerta
書名: Gong Kebyar Buleleng: Perubahan dan Keberlanjutan Tradisi Gong Bali
出版地:Surakarta
出版社:ISI Press Surakarta
出版年:2009
頁数:xxiv, 389p.
 
 

外国人が踊る風景

2010年01月27日 | バリ
 バリの都市部では、外国人がバリ舞踊を踊るという光景が決して珍しいものではなくなってしまった。要するに、バリ舞踊を学ぶ外国人がデンパサール周辺にひじょうに多く、先生たちが関わる舞台に弟子である外国人が出演する機会が増えたからである。

 私がバリに滞在していた12月末、デンパサールのカユマス集落で踊りのコンテストが開かれていたのだが、ちょうど休憩時間に外国人の踊りが披露された。ゴア・マチョとよばれるレゴンの中でも珍しい舞踊で、そうそうバリ人でも踊れる舞踊ではいない。そういう珍しい舞踊を外国人は学ぼうとするし、先生も忘れかけている舞踊を思い出しながら教えるのである。なんだか消え行く演目を「救っている」のは外国人のようである。

 私が留学している頃なら「日本人が踊る」なんていったら、それなりに大事件だった。私がワヤン一座で演奏していたころは、ワヤンではなく、私を見るという好奇心だけでワヤン会場にやってきた観客も少なくなかった。(もし、ぼくが綺麗なお姉さんだったら、ワヤンが上演されている村では上演中から大騒ぎになっていただろう。)しかし、今ではバリ人は何も反応しない。黙って鑑賞して、終わると静かに手をたたく。ただそれだけ。もうバリ舞踊はバリ人だけのものではないということをバリ人自身が悟った反応なのか、あまりにも当たり前すぎる風景になってしまったからなのか?

テレビ収録

2010年01月25日 | バリ
 デンパサールのアートセンターに行ったとき、テレビの収録をやっているというので覗いてみた。カメラが2台すえられていて、踊り手がスタンバイしている。ディレクターらしき人が、手を上げて「スタート」と声をかけると音響担当がスイッチをいれた。
 おどろいたのはこの瞬間である。なんと音源はカセットテープで、音を出しているのが大型のラジカセ。このスピーカーだと小さすぎて音が悪いので、外部スピーカーにつなげている。しかし、プレーヤーが所詮ラジカセであるわけで、音なんて知れたものである。スピーカーだって、運動会のアナウンスに使うような代物である。
 ガムランの生音(なまおと)だったら、あれだけ真剣になれるバリ人がどうしてテープ音響となると、こんなにもアバウトでいられるのだろうと首をかしげてしまう。しかもこの映像がチープな音とともにインドネシアの国営テレビの画面で流れるのだ。しかも野外の炎天下で踊り手は汗をかいていて、決していいコンディションとはいえない。やっぱり、「バリはまだバリなんだなあ」と実に奥深い感想を持ったのであった。

アビーロード風

2010年01月24日 | 東京
 東京にある実家のそばで、家の新築が行われているのだが(私の家ではない)、ここに実にユニークなビニールシートがかけられているのである。少々、太陽の光がシートに反射する時間に写真を撮影したせいか、見にくいのではあるが、大工が4人、それぞれ違ったものを持ったり、格好をして横断歩道をわたっている。
 40歳代以上の方々ならば、この写真をみただけで、これが「あのレコードアルバムのジャケット」をモチーフにしている(いや、まさに「ぱくり」といえよう)ことは一目瞭然。そう、ビートルズの「アビーロード」である。この写真、個人的には材木をかついでいるお兄さんが笑えてしまうのだ。
 ところでこの写真、みな靴や履物をはいているのだが、私はここに若干の問題を感じてしまう。どうせやるなら、一人が裸足でなくてはならない。ご存じだろうか?アビーロードのジャケットでは、ポールは裸足で歩いているのである。「ぱくる」のであれば、こういう小さなところにも気を配ってもらいたいものだ。

JALの話

2010年01月20日 | 家・わたくしごと
 「先生、突然お電話差し上げてすみません。私は○○新聞社の論説委員の△ですが、実は先生にお聞きしたいことがあって電話をしたのです。」
 新聞社から電話ということは、もしや私の本の関係だろうかと構えたところ、
 「実は、会社更生法が適用されたJALのことなんです。」と電話先で話している。
 「ちょっと待ってください。たぶん、電話をおかけになる方、間違えているんだと思います。私は民族音楽学者なんです。JALは関係ないと思います。会社更生法のこともよくわからないし。」すると、電話先の論説委員はこう続けたのだった。
 「いやいや、先生なんですよ。先生、以前JALの沖縄キャンペーンソングについて論文に書いてますよね。それをお聞きしたいんです。」そう言われてみれば、確かに4,5年前にそんなことを調べて論文にしたのだ。
 「実はね。JALは沖縄の観光にも貢献しているんです。そんなことを先生の論文を参考に書こうと思いまして。」

 沖縄にいるとJALの問題は他人ごとではない。離島便はすべてJTAなのでJALの子会社である。それに私はJALのマイラーである。今週も飛び続けてくれるJALに乗って東京に行くのだ。どんな記事になるのかはわからないが、JALがんばれ!という記事に私の論文が貢献できるのならば、ちょっぴり嬉しい……。

朝日楼

2010年01月18日 | 家・わたくしごと
 淺川マキの訃報に遭遇した。昨日の小林繁に続いて今日は淺川マキ。なんだかショックだ。
 浅川マキといえば、ぼくにとっては《朝日楼》である。まだアニマルズの《朝日のあたる家》しか知らなかった若かった頃、淺川マキの《朝日楼》に出会って愕然とした。こんなに悲しい歌詞だなんて。それに淺川マキの歌がまるで《五木の子守唄》のように聞こえた。その後、ボブ・ディランやちあきなおみのバージョンを知ってから、なんとなくアニマルズの《朝日のあたる家》がポップで、安っぽく聞こえてしまうようになった。
 部屋ではボブ・ディランのバージョンが静かに流れている。今日は本当にさびしい夜になりそうだ……。

Down by the Riverside

2010年01月17日 | 家・わたくしごと
 土曜日、大学の研究室でニューポートフォークフェスティバルのDVDを観た。たぶん4,5回目だと思うが、最後に出演者全員が舞台でDown by the Riversideを観客とともに熱唱している場面で、また涙した。観るたびに感動するのである。このコンサートの当時はベトナム戦争の最中であり、まさにベトナム戦争の反戦歌として歌われたんだろう。
 Down by the Riversideはもともとブラック・ゴスペルだったらしい。ということは特定の戦争のための反戦歌ではない。それにしても「戦争なんてやめよう、そして武器を川辺に捨ててしまおう」という詩が大好きである。「水に流す」という発想が実に日本人の私の心を打つ。そこにはもう敵も味方もなく、相互の憎しみはみな川に流れていってしまう、というそんな想いを感じてしまう。ジョン・レノンのイマジンはきっと、Down by the Riversideの現代版だ。
 今朝、youtubeでDown by the Riversideを検索したら、オデッタとピート・シーガーがそれぞれ歌う白黒映像を発見した。それを観て、また感動して涙した。「なんで、あんた、泣くわけさ?」 
 

ブンクス(テイク・アウェー)の会話

2010年01月16日 | バリ
 店員「お店で食べる?」
 私「持って帰るよ。」
 店員「ごはんの量はどうする?」
 私 「ふつうより、ちょっと多めがいいなあ」
 店員「おかずは?」
 私「えーと、まず野菜炒めと焼きソバね、それからジャガイモを甘辛く煮たものと、テンペを甘辛く炒めたもの、そうね、肉は、今日は鳥肉の串焼きにしようかな。一杯ピーナッツソースのたれ、つけてね。サンバルはいらないです。辛いのだめなんだ。」
 店員「一つでいいの?」
 私「もちろん。いくらかな?」
 店員「12,000ルピア」
 私「それ、きのうは11,000だったんだけどな。今日から値上がり?」
 店員「昨日は特別にサービスしたのよ。」
 私「じゃあ、続けてきたんだし、今日もサービスしようよ。」
 店員「じゃあ11,000ルピアでいいわ。」
 きっとインドネシアでナシ・チャンプルをブンクスするときに誰もが体験する日常的な会話。

年末の大騒音

2010年01月14日 | バリ
 去年は元旦にバリから帰国したのですが、今年は年末年始をバリで過ごしました(すごくリッチな表現のような気がしてきました)。この時期、インドネシアで登場するのが紙製のラッパ(トロンペット)です。トランペットとは発音しないのです。
 紙で作られたこの楽器は、年末から新年にしか利用されず、おもちゃみたいなものですから、この時期を過ぎると「ごみ」となり、路上で車にひかれてペッチャンコになって捨てられたり、あとは道路脇に放置されたりする運命です。季節ものの楽器。すでにクリスマスあたりから路上で100円程度で売られています。この写真は自転車でトロンペットを売る行商人のもの。売り手はジャワ出身で、自分で作るのではなく仕入れて売っているそうです。
 12月31日は、ホテルでもバリに観光でやってきたジャワのお客さんの中の子ども達が夜中まで「ブーブー」とトロンペットを吹き続けていて、もう大騒音でした。「おりゃ、静かにせい、このガキどもが!」と怒鳴りたいのをぐっとこらえて、「異文化理解、異文化理解、平常心、平常心、異文化理解……」と二つの言葉をお経のように部屋で繰り返し唱えていたのでした。ほとんど瞑想です。そして、そんな苦行の時を過ごすうちに年が明けていったのでした。