Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

遊歩道――東京街歩き(6)

2008年11月29日 | 東京
 先週、行き先の一つ前の駅で降りて、紅葉の木々の並木のある線路沿いの遊歩道を散策した。東京にいればあたり前の光景だったのかもしれないが、沖縄では決して見ることのできない晩秋に色づく広葉樹を目にすることで、四季の存在を再確認し、私はそれで安堵する。時として一つの季節が長く続く沖縄にいると、私は少しばかり不安になるのだ。
 紅葉の「華やかさ」は、時として「はかなさ」でもある。そのときの心情によってその両者のどちらかが心の中からひょっこりと、そしてはっきりと顔を覗かせる。私の安堵感はすぐさま散りゆく葉の行方を思い、憂鬱な気分に襲われた。ため息をついて見る景色なんてすっかり色あせてしまうではないか。
 「あの頃はどんなことを思いながらこの道を自転車で走っていたのだろう?」と通学路だったこの道を毎日走っていた学生時代のことを思い出そうとする。記憶の彼方から引きずり出したものといえば、道沿いに建つ古い木造のアパートから時折聞こえていた金管楽器の練習の音や、すぐそばに立つゴミ焼却場の大きな煙突から吐き出される白煙、そして自転車を抜かしていく電車から手を振る同級生たちの姿。しかし他には何も思い出せない。
 あの頃、季節はありきたりの光景でありすぎて、私はそれに関心すら持てなかったのだろう。歳のせいなのか、それとも沖縄に住んでいるからなのか、私はすっかり季節に敏感になっている・・・。


銀座三越――東京街歩き(5)

2008年11月28日 | 東京
 銀座四丁目交差点といえば、和光、鳩居堂、三越と思い浮かぶ。和光は敷居が高すぎて、ショーウィンドーから中を覗く店、鳩居堂は用がないから行かない。残る三越も、正直、お手洗いを借りるくらいでしか利用したことがない。とにかくどの店も交差点のシンボルであるが、私の人生とはあまり関係がない。
 銀座四丁目に立って、どこの写真を撮影しようかと考えた末、2回信号を待って撮ったのは三越だった。地味な和光に比べれば、やはりデパートはきらびやかで、それに入り口で待ち合わす人も多く賑やか。田舎から出てきたばかりの私は、やはりその喧騒や明るさに目が引き付けられてしまうのだろう。
 ちなみに沖縄にも三越は存在する。国際通りの真ん中に立っており、向かいは市場へ続く小さな通りである。雰囲気的には築地の場外市場の前に三越が立っていると想像すればいい。といってもその三越は、銀座や日本橋の三越とは「格」が違う。規模は当然ながら、高級志向のスーパーといった雰囲気で、年に2,3回、国際通りに出向いたついでに催事場で行われる物産展に足を運ぶくらいで、賑やかさや喧騒からはほど遠く、どちらかといえば静かで、寂しい雰囲気がある。真夏の国際通りを歩いて沖縄のみやげ物に疲れた観光客の癒しの場としては、売っている品物の種類も、室内の温度も最適かもしれない。
 銀座に長く勤め、デパート好きなかみさんは、沖縄に最初に来てこの三越をチェックしたとき、「これはデパートではない」と明るく言い放った。沖縄三越は、三越グループの直営百貨店ではないし、沖縄という事情からもそれぞれ経営ポリシーがあるので東京的なデパート観を押し付けて語るのは正統な評価ではない。しかし私も同様に、「三越」のイメージは、たとえお手洗いくらいしか借りたことがないにしても、銀座や日本橋の三越がそのイメージとして脳裏に焼きついているわけで、それが払拭できないがため、現在でもきわめて個人的ではあるが、家庭内では沖縄の三越を、折に触れ「みつごえ」と呼んで区別するようにしているのである。


珍屋(めずらしや)――東京街歩き(4)

2008年11月27日 | 東京
 20年前、私の実家がある国分寺は東京都にありながらも、「東京」と自信を持っていえない街だった。しかし近くにいくつも大学があったせいか、私が小学生の頃に村上春樹が最初のジャズ・バー「ピーター・キャット」を開いたのも、今も続く中山ラビがオーナーの「ほんやら洞」や、地味な名曲喫茶「田園」があるのもまた国分寺である。田舎街でありながらも当時はそれなりにハイカラな雰囲気があったのだろう。しかし子どもの私にはそんな店を知る由もなく、賑やかな吉祥寺やお洒落な国立が最寄の駅でないことが残念でならなかった。
 大学に入ってからそんな国分寺でよく通った店が「珍屋(めずらしや)」という中古レコード(当時は当然、レコードしか置いていなかった)だった。留学前にビートルズのプライベート盤を大量に売ったのもこの店だったし、ピート・シーガーや、ジョン・バエズのマニアックなフォークのレコードを買ったのもこの店である。場所柄なのだろうか、新宿や池袋の中古レコード屋では見かけないような珍しいレコードとよく出会えたものだった。私にとっては名実ともに「珍屋」だったわけである。
 今は北口、南口に数件店を構える。先週、国分寺のこの店のいくつかを巡る。ただ中古レコード・CD屋というのはどこも物が多いせいか通路が狭く、オーバーで着膨れした格好では集中して掘り出し物を探すことができないものだ。途中であきらめて最後の一軒は素通りすることにした。そんな店の前に立つと、《While My Guitar Gently Weeps》が店の外まで流れている。1975年、私が小学生で最初に聞いたビートルズのアルバムに入っていた曲だ。あれから32年たった今なお、色褪せることなくロックの遺産として伝承され続ける名曲。クラプトンのギターソロを聞きながら、今さらながら、国分寺が実家の最寄の駅であったことが嬉しく思えた。


夕陽---東京街歩き(3)

2008年11月26日 | 東京
 東京で夕陽が美しいスポットはどこかと尋ねられると迷わず答えるのが、夕刻に羽田空港から出るモノレールの進行方向左側に見える夕陽である。この夕陽に気がついたのはサラリーマン時代で、大阪からの出張の帰りに疲労困憊してモノレールに乗ったときだった。赤みを帯びた夕陽の輝きが眩しい一方で、そんな光に照らされる自分が恥ずかしかった。あの時は仕事の何もかもがうまくいかなくて、羽田空港から浜松町までずっと地下を走り続けてくれていた方が穏やかな気持ちでいられたのだろう。あの時の空港の地下ホームの暗闇から突然に世界が開けたように輝く夕陽は美しくもあり、寂しくもあった。
 「今日は夕陽が見られるだろうか?」そう思いながら私はモノレールに乗った。できるだけ空いている「快速」のモノレールを待ち、誰にも邪魔されないように、前に向かい合わせの席のない夕陽側の場所を探して座った。こんな時間にモノレールに乗ることはめったにないのだから。トンネルを抜けるまでの時間がとても長く感じる。
 突然、車内が明るくなって期待した以上の夕陽が窓いっぱいに広がった。あのときと同じように眩しすぎる夕陽が埋め立てられて川のように見える海に反射する。まわりに座るサラリーマンらしき男性たちの誰もがそんな夕陽には目をくれずに、目を瞑るか、疲れたようにうなだれている。
 今の私の日常のすべてが順風満帆に進んでいるわけではない。しかし一つ違うことがあるとすれば、私は今、自分の進みたかった道を、大手を振って歩んでいるということだ。そんな自分にとって夕陽は今、その日が終わってしまうという「終末」や「衰退」の象徴ではなく、少し格好をつけて言うとすれば「未知なる明日」の象徴である。とはいえ、私は「夕陽のガンマン」のクリント・イーストウッドの方が「明日に向かって撃て」のロバート・レットフォードとポール・ニューマンよりずっと好きなのだが。


雨への備え

2008年11月25日 | 家・わたくしごと
 昨日24日は、私が顧問を務める大学のジャワ・ガムランのサークルが世界遺産の識名園で野外コンサートを予定していた。ところがあいにく天気予報も午後から雨。事実、午後2半時からの開催時にはもう台風のような土砂降り。こういうときはしっかり天気予報が当たってしまう。まったく不運である。
 野外イベントというのは常に「雨」というリスクを背負う。今回は、雨天時には「大学」で演奏することになっていたが、雨があまりにも開演直前だったこともあり、会場の「御殿」(屋根つきの屋敷)を借りることができたことは幸運だった。
 私はこれまで、何度も演奏者のリーダーとしてこのようなリスクの高いイベントを経験してきた。途中で雨に降られたこともあった。しかし私の経験から思うに、重要なことはあらゆる天候やその変化に対応可能なマニュアルを準備することと、そして最後は勇気ある決断である。それこそがリーダーシップである。


Manneken――東京街歩き(2)

2008年11月24日 | 東京
 銀座4丁目交差点の近くにあるMannekenの前を通るだけで、ほんのりと甘い焼きたてのワッフルの香りがします。銀座を夕方歩くときまって、そんなおいしそうな香りにさそわれ、いつもこの店の前にできている行列の後ろに並んで、一つだけチョコレートワッフルを買うことにしています。焼きたてのワッフルの表面はサクサク、チョコがほんのり甘くて素敵な味がするからです。
 Mannekenは大阪周辺に多いベルギーワッフル屋さん。梅田駅やなんば駅、もちろん伊丹空港にもあります。大学院に行くときに通った千里中央にもあり、大阪の街ではどこでも見かけるワッフル屋。それでも大阪だって夕方になればこの店の前に行列ができるくらいなお店。私が勝手に大阪名物と称して、大阪での息子との二人旅でこのお菓子を食べさせたこともあります。東京では銀座4丁目でしか見たことはありませんが、やはりこの場所にあると大阪の「庶民のワッフル屋」とはちょっと違って見えるところが不思議です。それが「銀座の力」でしょうか。店構えもとてもお洒落な気がします。この店、上の部分に鏡がついていて、4丁目の対面のビルが写ります。それだけでも風景を合成したような不思議な光景が生まれます。
 ベルギーにいったときワッフルをよく食べました。高級なワッフルはブリュッセルのカフェで食べたナイフとフォークを使って食べるようなワッフルで、お皿にフルーツや生クリームが美しくデコレーションされていて、見るだけでも楽しませてくれるようなお菓子でした。でもやはり私が堪能したのは、街を歩いているとあちこちに点在するスタンドのワッフル屋さん。一つ買うと、日本のMannekenのように紙にくるんで渡してくれます。それを歩きながら食べるワッフルが最高。一番思い出に残るのは11月の寒くなったアントワープで暖かいワッフルをほおばったこと。ほのかに体が温まった記憶が残っています。銀座の街歩きは、不思議とそんな感覚まで思い出させてくれます。


TIFFANY & Co.――東京街歩き(1)

2008年11月23日 | 東京
 久しぶりに新橋から東京まで歩いてみました。もちろん銀座経由です。最近H&Mが銀座にできたというニュースを聞いて、たまにブランド店が立ち並ぶ銀座の街歩きでもしようと思い立ったわけです。H&Mは、ブランドとはいえ、私が考えるに高級ブランドではなく、「デザインがヨーロッパ風で安い」といった感があります。こういう言い方は失礼ですが、ヨーロッパのGAPみたいなものです。
 私の住んでいたライデンにも、近くのアムステルダムにも、とにかくちょっとしたヨーロッパの街にはたいていあるショップで、私もよくショッピングで利用しました。でも日本人には高級ブランドのようにも思われているのでしょう。入り口に人が列をなして入るのに順番を待っていたりします。なんだか写真を撮るのも悪くて素通りしました。
 H&Mから数十メートル先にはTIFFANY & Co.があります。日本の大手のデパートにはたくさんテナントとして入っていますから別に珍しくはありませんが、銀座のこの店を見て、1989年の12月初旬、ニューヨークの本店でかみさんに頼まれたアクセサリーを買ったときのことを思い出しました。地下鉄を乗りついで行った場所は、やはり銀座のような大通りで、店構えはとても立派だった記憶があります。12月ということもあり、美しいクリスマスデコレーションで街中が輝いてみえました。とにかくあの頃は英語が店員に通じるかどうかが心配でしかたありませんでした。サラリーマンだった頃で、スーツとネクタイという格好でした。
 買う品物は同じかもしれませんが、デパートのテナントよりも、こうして銀座のような場所にあるブランドショップとしての店構えの方がやはり買う気分もいいし、記憶にも残るのかもしれません。もちろん今回の「いでたち」は、Gパンに黒のGジャンにオーバーを羽織っただけ。なんだかそんな格好ではブランドショップに入りにくい・・・・もちろん、入るつもりはありませんでした。昔の思い出を楽しみながら歩くのが楽しい、そんな東京街歩きだからです。


オランダの夢

2008年11月21日 | エッグカップ

 最近進めている研究との関係で、オランダで調査がしたい資料が出てきたこともあり、この2月にオランダに行こうかどうか迷っている。私を躊躇させているものの筆頭は「寒さ」である。北海道と緯度が同じであるオランダの冬は当然寒い。いったんホテルに入ってしまうと朝からきちんと研究機関に通える自信がない。ホテルのヒーターのきいた部屋で結局はぬくぬくしてしまうのではないかという不安がある。
 そんなことを考えているせいか、明け方にオランダの夢をみた。最初に出てきた場面はタイの芸能調査にいつも一緒に行っている大学の同僚とともに横断歩道にいて、街を眺めている。とにかく予想通り寒いのだ(たぶん、明け方沖縄が寒いのが原因だろう)。横断歩道を渡りきったところにショッピングセンターがある。入ったとたんとても暖かい。(たぶん、そのとき私は無意識に布団をしっかりかけたのだろう。)なぜか私はそこで、暖色系のデザイン(少なくてもオランダカラーのオレンジ色は入っていた。)の折りたたみ傘をながめている(今日、東京に行く私は、昨晩、カバンに折りたたみ傘を入れなくてはいけないと考えていた)。
 次なる場面は、雑魚寝の旅館。オランダとは縁遠く、スキー場か山小屋のようであるが、眠っているのはみなスキー帽をかぶったヨーロッパ人ばかりである(過去に体験した「寒い場所」が蘇っている)。なぜか隣に寝ている息子に起こされて、寝ている人の足をふまないように旅館を出る。とそこは、またあのショッピングセンターである。息子が指差した店は、オランダの風車が描かれたエッグスタンドが売られている小さなお店で、ショーウィンドーの中にはエッグスタンドがたくさん並べられている(昨晩、寝る前に最近Yahooオークションで買って、飾り棚に並べたオランダ風車の描かれたデルフト焼のエッグスタンドを眺めて寝たことを思い出した)。
 夢は現実世界での体験の蘇生でもあり、また未来の予知でもあるというエリック・フロムの研究書を予備校時代に読んだことを思い出した。過去の経験はともかく、この夢の中にどんな未来予知が隠されているのか?ちなみに私は研究に行くつもりなのに、なぜ「買い物」ばかりが夢にあらわれるのか?えっ、これも予知!


サビ

2008年11月20日 | 大学
 授業で学生とともに、1980年代の松田聖子のシングルA面の曲を順番にメロディー分析をした。気がつかなかったが、ほとんどの曲の分析をしてみると、松田聖子の歌は最初にサビを提示して、それからAメロ、Bメロ、そして再びサビで終わるという曲が結構多いのである。
 学生が「最初にサビで聞く側をつかんじゃうんですね。」と言う。確かにそうだろう。サビの盛り上がった旋律を最初に持ってくると、その旋律が印象的であれば、確かに聞き手をつかむことができるのだろう。
 ボク「それじゃあ、ぼくの授業も最初にどーんとサビを提示してから、それからAメロ、Bメロ的に講義を進めればいいんだな」
 学生「でも、最初のサビで「こける」と、もう授業は救いようがなくなりますよ。」
その通りである。ということは、サビを最初に持ってくるというのは、自信に満ち溢れている証拠であり、ボクなんぞがそんな講義をするのは、ハイ・リスクな行為といえよう。ちなみにwikipediaを見ると、サビの語源の一説は、ワサビから来ているそうだ。ツーンと効かせるような刺激的な授業ができるようになってみたいものである。

寒さに負けそう・・・

2008年11月19日 | 那覇、沖縄
 那覇はこの数日で別世界のように突然寒くなりました。先週までは家で仕事をするとき半袖、半ズボンだったのが、今や、長袖、長ズボンどころか、上には3枚も服を着る始末です。秋を通り越して突然、冬がやってきてしまった感があります。
 私は寒い気候が嫌いです。これだけは断言できます。寒い地域には住めませんし、そのせいか、寒い地域の音楽にもあまり親しみがありません。ただしウィンタースポーツを楽しんだりすることに抵抗はありませんが・・・。それに私が行くようなスキー場はたいてい温泉地の傍にあるのです。
 最近は年齢のせいもあるのでしょうが、突然寒くなると、体が対応できなくなり、故障が起きます。その一つが首の痛みです。首がいたくなると、頭も目もあちこちがきつくなる上、朝からそんな痛みがあれば、そりゃあ一日ブルーな生活を送ることになります。そんな状態でも授業があるし、会議があるわけで、つい学生につらく当たったりしてしまいます。悪いのは「私」ではなく「寒さ」なんです!病院にいって、痛みがやわらぐ塗り薬をもらい持ち歩く生活。
 東京に住む私の知人たちはこれを見て笑っていると思います。「寒い」といっても沖縄の最低気温はまだ18度足らず。昼間は21、2度まで上がるわけですから。でもね。ここに住んでいるとこの温度はもう「寒い」温度で、あと1ヶ月もすると沖縄も10度近くまで下がります。もう極寒です。しかし大学に暖房施設はありません。重ね着をして震えているしかないわけ。そんな日も、首里城には、Tシャツを着た観光客が歩いています。いいですか!沖縄は一年中泳げないんだよ。ちゃんと冬もあるんだよ。観光客のみなさん!沖縄に来る前に天気予報をしっかり見ていらっしゃい。