Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

バパ・バリ・三浦襄

2011年10月26日 | 
 最近読んだ本の一冊に『バパ・バリ・三浦襄』がある。表紙のデザインについては個人的に「ちょっとどうかな?」の思ってしまうが、内容については三浦襄についてよくまとめて書かれている。
 私が三浦襄について初めて文章を書いたのは、「三浦襄氏のこと」『SURAT BALI(バリ芸能研究会会報)』5号, 1991, p. 8、であり、今から20年も前である。三浦襄のことを知ったのは、台北帝大出身の私の祖父が、戦争中にバリにあった日本の会社に勤めていた祖父の親友(藤岡保夫)を紹介してくれたことがきっかけだった。すでに亡くなられて久しいが、『バパ・バリ・三浦襄』の中にも登場する藤岡保夫氏は、その後、私家版の本を作っては私に送ってくれるようになった。その本の中に三浦襄のことが書かれていたのである。
 その後、三浦について書かれたいくつかの本や論文を読んだ後、三浦襄のことをもっと知りたくなって、私は関西に住んでいた藤岡保夫氏に会いにいった。そのとき、彼が涙を流しながら見せてくれたのが、三浦襄から遺品としてもらった腕時計だった。また私がかつて研究した音楽学者黒澤隆朝の日記にも、三浦のことがたくさん出てくる。私の編集した本の中では、三浦と黒澤の写っている写真も掲載している。
 一年前、学生がバリに来たとき、私はかれらを移転した三浦襄の新しい墓に案内した。あえてこのブログで三浦襄のことは語らないが、戦争中のバリに興味があれば、一度、この本を読むことをお勧めしたい。この本を読んだ後、きっとデンパサールにある三浦の墓の前で手を合わせたいと思うようになるはずである。
 それにしても今考えてみれば、バリと縁のない植物学者の私の祖父の親友が、バリとかかわっていたなんてある意味、バリ芸能の研究者となった私の人生にとって運命的な存在である。しかも、その人が三浦襄の最期の日を見届けていたなんて……。

空港入口で記者会見?

2011年10月23日 | 那覇、沖縄
 昨日、所用があり那覇空港まで車ででかけた。送迎用のプラットホームに車をつけて空港入り口を見ると、たくさんのカメラクルーやインタヴューアーなどの取材の一団がこれから来るであろう「誰か」を待ち構えていているのが見える。
 取材陣の格好を見て、かみさんは「なんだかすごくラフな格好だから芸能人じゃない?」なんて言っている。芸能人ならばもちろん「見学」して、あわよくば写真なんぞ撮影して学生に自慢しようと即座に思いつき、車の中でスタンバイ。それにしても芸能レポーターらしき人の姿がないのが気になる。
 しばらくして黒塗りのハイヤーが取材一団の脇に止まり、沖縄ではこの時期珍しいネクタイをした役人らしき人物が車の来る方角を指差しながら、取材陣に何かを指示しているのがわかる。「もしや政治家か?来るぞ、来るぞ」
 そこにタクシーでやってきたのは淡いピンクのネクタイをした見知らぬ「おじさん」(ちょっと失礼な表現ですみません)。着いたとたんに取材陣に囲まれた。かみさんに「あのおじさん、誰だかわかる?」と聞いてみると、「どこかで見たような気がするけど…」という答えが返ってきただけで会話は途切れた。二人とも「ピンクのネクタイをしたおじさん」が誰だかわからないのである。少なくても芸能人でもないし、テレビ討論会にしばしば登場する政治家でも政治評論家でもない。わからない人を見ても面白くないので、「行こう、行こう」とその場を立ち去った。
 夜、NHKのニュースをつけて二人で「あっ、この人じゃん!」と大声を出した。普天間基地移転問題でこのところしばしば沖縄を訪れる一連の政府の偉いお役人、官房副長官だった。政治オンチの私にわかるわけないよね。それにしてもこの時期、沖縄に来てまで背広とネクタイなんて本当にご苦労さま。でも交渉ごとをするのならば、似合う、似合わないに関わらず、「かりゆし」の方が沖縄ではいいかもしれないなあ。

研究室を1時間限定で大掃除

2011年10月18日 | 大学
 毎日やることが多い。今日も夜までの締め切りに追われ、教授会が終わってから間髪入れずにパソコンに向かう。世の中のサラリーマンはみんな忙しいんだ。そう自分に言い聞かせて仕事を続ける…。
 しかし、もうどうにも頭がまわらずにブレイク。この瞬間から私はなぜか研究室の大掃除に走り始めたのだった。書類や片付かない本の中で原稿を書くなんて無理、無理。そう思ったら何ヶ月も放置されていた書類の山を片付ける気になったのだ。
 1時間限定の集中作業。大きな机の色が徐々に姿をあらわす。相当の量のゴミが出たのだが、それでも時間限定の作業なので限界がある。片付けのせいかどうかわからないが、とりあえず原稿を書き上げてメールに添付して送る。こんな研究生活で本当にいいんだろうかと疑心暗鬼になる。

酒は伏見で

2011年10月15日 | 
 京都の伏見稲荷に近い大学で、学会の一日目と懇親会を終えた後、何人かの知人と「二次会に行こう」ということになった。すかさずPは、地理に詳しい開催校の先生に相談。「伏見にいいお店があるから」とタクシーまで呼んでもらったのだった。
 伏見といえば、1年半位前だったか息子と二人で旅した場所である。坂本竜馬ブームのころで伏見寺田屋の前は見学を待つ大行列だった記憶がある。さすがに中学生の息子といっしょだと「伏見の酒蔵で一杯」とはいかない。その時は街に香る日本酒に舌なめずりをしただけだった。
 今回は夜の伏見である。教えてもらった店は月桂冠の蔵元が経営する場所で、懇親会で食事をしたばかりのわれわれ四人は、生湯葉などをつまみに、限定の日本酒をゆっくりと、楽しく味わったのだった。ちなみに、お酒を飲むと頭痛がするとか、翌日の朝、9時半から自分のシンポジウムが開催されることを、飲んでいるときだけは都合よく忘れられたのだった。これも学会の楽しみの一つ。

知恩院の鐘の音

2011年10月14日 | 
 学会に滞在していた先週末、どうしても聞きたい音色があった。知恩院の大きな鐘の音である。70トン近くあるこの鐘は、大晦日に放送される「行く年来る年」で中継されるほどの有名な鐘で、大晦日以外にはめったに叩かれることがない。しかし、この10月は法然上人800年大遠忌で、正午に鐘が叩かれるという情報を入手していたのである。
 お昼少し前に行ってみると、意外に観光客は少ない。すでに鐘をつく4,5名の若者がスタンバイしている。それにしても大きな鐘であり、日本三大鐘楼の一つに数えられているという。お坊さんの話によれば、山の一部を切り崩して、鐘楼のある場所で鋳造したのだという。とてもここまで移動できる重さではない気がした。
 正午、一つの目の鐘が鳴らされた。この音をブログに言葉で表現するのはひじょうに難しいのだ。複雑な倍音がものすごい音量で、なんだか鼓膜から脳の奥底まで到達したことで、そこから体全体に伝達された信号により、あらゆる細胞が驚きによって、一瞬その働きを静止してしまったような、そんな感覚である。感動とは少し違う感覚で、そういう感情には表せない音なのだ。なんだろう。思わず「手を合わせてしまう」ような音である。
 何回たたくのだろう?私は五つ目くらいに山を下った。知恩院の山門で耳をすますと、まだ鐘は鳴っている。今から数百年前、今よりはるかに京都の市中が静かだった時代、この鐘の音はいったいどこまで届いたのだろうか?

祇園で「王将」

2011年10月12日 | 
 祇園で軽く一杯いきたいなあ、という場合、まずは八坂神社のすぐ近くで、祇園バス停の前にそびえ建つ「餃子の王将」で、ビールと餃子が最高である。祇園でお腹が減ったなあという場合も、やっぱり「餃子の王将」で定食が一番だ。
 京都に来てまで「餃子の王将」に行かなくてもいいんじゃない?という意見も若干聞こえてくるのだが、ここは「餃子の王将」であっても「祇園の餃子の王将」なのである。そりゃ、味は「餃子の王将」と変わらなくても、祇園で食べる王将の餃子は格別なのだ。理由なんて聞かれたって答えられません。
 息子と二人で京都を旅したとき、やはり昼食を「餃子の王将」で食べた。「何でこんな所で食べるのか」と息子に問われた時、私はこう答えた。
「学生はお金がないものなのさ。京都で高級な食事をするなんて贅沢だよ。いいかい。京都に来たら、まず安くてたくさん食べられるところを知っておかなければならないのさ。ぼくは親として君にそんな場所をまず知ってもらいたいんだよ。君がもっと大きくなったら、行きつけの割烹に連れていってあげるよ。」
 ぼくはとんでもない嘘つきである。

観光客の表情

2011年10月11日 | 
 京都の街を歩いて、観光客の表情を見ながらあることに気が付いた。沖縄にやってくる観光客と京都を訪れる観光客の表情は異なるような気がしたからである。
 沖縄にやってくる観光客には、その天気が多少曇っていようとも、あるいは雨が降っていようとも、なんだか現実から解き放たれたようなすがすがしい表情を感じるのである。ところが京都で出会う観光客の表情は、どう言えばいいのだろう? とにかく沖縄に来る観光客とは何かが違う。背筋がまっすぐ伸びて、顔の表情がきりりとしまったような、そんな風に見えてしまうのだ。
 そこが「南国の島」と「古都」の違いなんだろうか?那覇だって悠久なる琉球王朝の古都なのだが、やはり沖縄は「古都」よりも「南国」のイメージが圧倒的に強いのだろう。そんなことを考えながら、京都を歩く私の表情もやっぱり、きりりとしまって、背筋もピンと伸びていたんだろうか?

RAAK

2011年10月10日 | 
 京都では短い時間で、ちゃんとかみさんに頼まれた手拭い屋さんのRAAKで買い物もできました。写真がRAAKです。市内には数軒あるのですが、この写真の店は四条通りの人通りの多い場所にあるお店です。買った手拭いは「季節もの」なので、わが家で飾られるときにブログでお披露目します。
 それにしても、こういうお店のお客さんは女性ばかりで、入るのをちょっぴりためらってしまいます。自意識過剰かもしれませんが、店に入った瞬間の客の視線がちょっぴり冷たい気がしてしまって…。「なんかおじさんが入ってきたよ」って感じ?
 でも、そうは思いつつもドカドカと店に入って、そんなお店で売られている美しい絵柄を楽しむうちに周りのことなんて全く気にならなくなるものです。それも歳のせいかしらね。

京都に着く

2011年10月07日 | 
 なんだか朝からバタバタと大学で仕事をして、編集している定期公演のプログラムを印刷屋に渡してから、急いで那覇空港に向かう。やっぱり自分の学会発表の準備はほとんどできない。こんな私の姿を見ていた博士課程の学生に、「先生は給料もらっているから仕方がないわね」と言われた。その通りである。仕事とはそういうものである。
 若い頃は、ホテルで仕事をするなんて「キザな奴だ」くらいしか考えていなかった。でも今はそんなことを微塵も感じない。ホテルの部屋はビジネスマンの書斎である。私のホテルを選ぶ基準は、部屋やベッドの大きさでもなく、机の広さ、インターネットの使いやすさなどである。ただし首がヘルニアの私にとって枕の硬さは重要であるが。
 明日から学会が始まるが、いつものようにかみさんにRAAKで手ぬぐいを買ってきて欲しいと頼まれた。なんだか嬉しかった。なぜって、そんなことがなければホテルと学会の会場を往復し、松屋で牛丼を食べ、帰りの空港でお土産に「おたべ」を買うだけの二泊三日で、「京都」を全く実感しないもの。明日の午前中だけは、四条通りを祇園に向かってぶらぶら散歩しよう。やっぱりちょっとでも初秋の京都の空気を肌で感じないと。

減塩

2011年10月05日 | 家・わたくしごと
 最近、また血圧を下げる薬を毎朝一錠飲まなくてはならなくなった。ものすごく血圧が高いというわけではないのだが、やはり薬を飲んで一定の血圧をキープしなくてはならないらしい。さらに血圧を記す血圧管理手帳なる冊子を渡され、朝晩血圧を測って次回医者に行くときにはそれを持っていかなくてはならなくなった。
 ところで、私は毎日、研究室でお弁当を食べるのだが、欠かせないのが味噌汁である。日本にいるとどうしてもご飯には味噌汁が欲しくなる。これまでは気にせず安いインスタントのものを買っていたのだが、今日は自分の健康を考えて「減塩、20パーセント塩分カット」味噌汁を購入した。なぜだろうか、レジに持っていくのが若干恥ずかしかった。
 しかしこんな血圧を気にしなければならない時期、私はとにかく多忙である。今週末、京都で発表する学会の準備もしなくてはならないし、締め切りに追われる原稿やら、仕事が次から次に迫ってくるのだ。だからだろうか、すでに一週間記載した血圧記録を見ながら思うのである。「血圧なんて下がりっこないよな」と。