Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

西原を望む

2015年04月30日 | 那覇、沖縄
 この道は那覇に住んでいた頃、ウォーキングで歩いた道から見える風景。西原入口の高台から、西原(坂田)方面を望む風景。当時はなんとなく歩いていた風景だが、今見ると、谷間上の隆起する沖縄ならでは地形だ。
 70年前、ここは戦場だった。首里に近いこの場所は、米軍と日本軍が対峙した場所の一つ。今でもあちらこちらから不発弾が見つかると聞く。この地形なのだから、さぞかしたいへんな戦いだったことが想像できる。
 戦後70年。これまでの反省をするとか、しないとか…、言葉にするとか、しないとか…、そんな話がニュースから毎日聞こえてくる。ぼくはそんなことに今さら何かを言うつもりはない。答えは一つだ。首相談話は外向きの問題だ。大事なことは、日本人一人一人が、過去を忘れないこと。広島や長崎に原爆が落ちたこと、大都市に大空襲があったこと、アジア各地で悲惨な戦いがあったこと、それはもちろんのこと、沖縄で戦争があったこと、そしてそれは今も沖縄に深い傷を残していることを消し去ってはならない。そんな当たり前なことを書かなければならない背景には、若い世代の「過去の風化」を実感せざるを得ない現実に、今まさに対峙しているからなのだ。

何が変わったのかな?

2015年04月29日 | 那覇、沖縄
 石嶺団地の中の児童公演。団地はどんどん立て替えられて、昔の様相から一転。なんだか素敵な建物に代わってしまっているが、この一帯だけはまだ古い建物が残っている。たぶん時間の問題なのだろう。あと何年かすれば、高層団地に代わって、そんなマッシュルームみたいなスペースの間に、この公園は生き残り続けるのかもしれない。
 ここは記憶の源泉の一つだ。ここに立つとさまざまな風景や音がよみがえる。何が変わったのだろう?空気?太陽?時代?それとも自分?
 那覇に戻ったときは、そんな街を朝早く歩いてみよう。変わったものが「何か」を、五感を研ぎ澄まして確認する作業。何が変わったか、どうして変わったのかを自分に問いかけてみる。今ならば、きっとそれができそうなのだ。那覇はさまざまな意味で「帰る」ことのできる場所だということに最近気づいた。離れなければわからなかった大きな「発見」。

わが家の庭に思う

2015年04月20日 | 家・わたくしごと
 こうして写真をみると、実家の庭が意外に広いことに気が付く。ちょうど若葉が燃ゆる季節柄、柴はあざやかな緑が芽吹き、チューリップが咲いて、西洋シャクナゲは満開である。
 何十年、こうして自分の実家の庭を見つめてきただろう。いつのまにか果実を実らせていた桃の木はなくなり、中学のとき学校からもらってきたイチョウはあまりにも大きくなりすぎて切り、少しずつ庭の木々は変わっているけれど、しかし「庭」は、「庭」のまま40年以上、こうして草花を咲かせ続けているのだ。
 そんな庭より、大きく変わったのは、庭を取り巻く風景だ。庭はいつのまにか、三方を二階建の家々に囲まれてしまった。だから正直なところ、日当たりがものすごいいいわけではない。とはいえ、思い出してみれば、今から40数年前まで、三方の家の周りはすべて雑木林だった。だからやっぱり日当たりはよくなかったのかもしれない。ただ、庭は、林の隙間から木漏れ日を存分に浴びることができていただろうが。
 この庭だけは失いたくないと思う。まだ記憶のない頃からこの庭で遊び、この庭で育った。かつては祖父が、そして今では父が庭師である。いつかは見るだけでは許してもらえない時代が来るのだろう。いやいや、まだまだぼくが庭師になるのは先のことだ。もう少し暖かくなれば、藤棚が薄紫の花々で満開になり、梅雨に入ると紫陽花が太陽の代わりとなって庭を明るくしてくれる。まだしばらくはそんな景色を楽しむ立場を満喫させてもらおう。

シュールでした

2015年04月14日 | 家・わたくしごと
 昨日の浜松は、午前中いっぱい風が強くて、大学に出勤する前もマンションの窓から隙間風がヒューヒューと音を立てて入ってきて、まるで台風が近づいてきているような天気だったのです。ビニール傘ではとても傘がもたないだろうと思って、しっかりした傘でお出かけでした。そのおかげで無事に大学で仕事をして戻ったのは夜10時頃。雨も小降りで朝の風ことなんてすっかり忘れてしまっていました。
 マンションのエレベータにのったら、先客が…。傘の骨さんに「こんばんわ」。正直、あせりました。傘の骨であろうと、人間だろうと、いるはずもない(存在しているはずもない)ところで、遭遇する驚き!
 エレベーターの中は私一人。それにしても何かシュールなのです。これがふつうの傘だったら、ただの「忘れ物」にすぎないでしょう。たぶん誰かが管理人室に持っていくか、いずれ管理人が気が付いて保管してくれるのです。ところが、これは骨だけ。もしかすると、忘れられた傘の「花」の部分が、エレベーターを往復しているうちに「目にみえない何か」に食べられてしまったのかもしれない!
 そんなことを考えたら怖くなってしまいます。そんな時に限って、なぜかエレベーターの速度が妙に遅く感じものです。
 「速く!速く!遅いよ。どうして?こうなったら時間かせぎに写真でもとるしかない。もしかしたらこの傘、写真には花も映るかもしれないぞ。」
 残念ながら骨のままだったけどね。

林光さんのこと

2015年04月13日 | 家・わたくしごと
 久しぶりにヤマハでピアノの楽譜を注文して購入した。なんだか僕には不似合のようにも思えるし、購入しながらなぜかちょっぴり恥ずかしかった。「この人、楽譜なんて読めるのかしらね。きっと子どもにでも買ったのだわ」。そんな風に思われているのかもしれない。音楽大学出身者なのだし、そんなことは全くないのであるが、それほどピアノの楽譜はぼくにとっては遠い存在となり、そんな妄想を抱いてしまうほど身近にないのである。
 作曲家、林光さんの訃報が届いたのはもう3年前だ。ぼくは彼の作品をよく聞いたし、こんにゃく座の公演にも足を運んだ。浪人時代だろうか、ピアニストの志村泉さんのコンサートを聞いて、すっかりとりこになってしまった。彼の作品は平和運動、社会性、民族性を感じさせる作品が多い。あるいは表向きはそんな表題がついていなくても、それを感じさせるものもある。
 ある作曲家が私に、「あの人は、政治や平和に関わりすぎて、音楽が純粋じゃないのよね。」そう語ったことがある。「純粋」な音楽っていったい何なんだろう?私はそのときそんなことをふと考えた記憶がある。しかし大事なのはその作品だ。あらゆる思想的な部分を排除して「純粋音楽」を目指そうが、そこに社会性や民族性が含まれようが、作品そのものが重要なのだ。林光さんの作品は、ぼくにとって完成度の高い音楽作品として心に響くのである。

日曜日を浜松で

2015年04月12日 | 家・わたくしごと
 これまでのぼくの生活に「日曜日の浜松」というのはほとんど存在していなかった。正確にいえば、日曜日には浜松にいても、ほとんど夜遅くに「どこかから」戻るというパターンに限られていたからである。日曜日にのんびりする、という図式はもう私の中ではだいぶ前になくなってしまったが、それでもかつてそんな生活をしていた頃を思い出したのが今日の一日だった。
 このところ多忙と、移動が続き、なんだかすっかり憔悴してしまった感がある。土曜日も大学のガイダンスで、さすがに東京の実家で予定があったのだがキャンセルさせてもらった。結局、午前中は大学で仕事をゆっくりしたが、午後は運動不足解消も兼ねて散歩にでかけたのだった。
 浜松も駅前を除けば、ほんとうにのどかだ。駅の南をぶらぶら散歩しながら馬込川といっしょに新幹線を撮影してみた。小川ではないが、なんとなく春ののどかな風景を感じさせる。遠くで浜松ラッパの音が聞こえる。あちこちで会所開きが始まっている。浜松まつりの季節のはじまり。桜が散るとともに浜松の人々は、目に見えてまつりに猛進するのだ。だから浜松の散りゆくさくらの花びらは、日常から、儀礼という非日常への「どちらつかずの敷居の時間」の象徴なのだ。もう浜松市民はそんな敷居をまたいでいる。

Happy Birthday

2015年04月08日 | 家・わたくしごと
 本日をもって5?歳になりました。ということで、自分に「お誕生日おめでとう!」
 フェイスブック経由からは、たくさんの方々からお祝いのメッセージが届いています。本当にありがとうございます。
 先週末、沖縄のガムラングループ「マタハリ・トゥルビット」にスンドラタリ・ラマヤナの曲を教えていっていましたが、そのとき私の誕生日を覚えていてくれていたかつての教え子たちに、数日早く誕生日を祝ってもらいました。しかも私の大好きなジャーマンケーキ(しかも、石嶺にあるアロハのジャーマンケーキです)で、さらにはお手製のロウソクが素敵!何時間たっても消えない大きな炎で燃え続けています。
 今年の夏は、また沖縄のグループとともに、あの国際演劇フェスタに参加ができることになりました。ある意味、「里帰り」です。すっかり成長した昔の仲間たちと演奏できる喜びは、とても一言では表せません。今回は沖縄市ではなく那覇市で開催予定。これまでの沖縄市での舞台とは雰囲気も変わりそうです。詳細は後日発表されますのでお預けですが、これから稽古などで頻繁に沖縄を訪れます。あの暑い夏の舞台が待ち遠しい。歳は一つ増えましたが、まだまだやりたいことはたくさん。両手ではかかえられないほどいっぱいです。年齢なんかに負けてなるものか!