Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

ブログの冬休み

2007年12月26日 | 家・わたくしごと
 今日から海外に調査へ出かけます。しばらくの間、ブログは冬休みとなります。また1月に調査から戻りましたら、再開します。それにしても夕方のせいか、26日の関空はガラガラです。まだ年末の海外脱出というのは始まりませんね。あと2,3日するとたいへんなことになるのでしょう。免税店も閑古鳥が鳴いていました。
 それでは読者の皆さん、よいお年をお迎えください。私も正月を迎えるため、那覇空港で「どん平衛」をしっかり買いましたから、これで年越しそばの準備もOKです。

人生ゲームの教訓は?

2007年12月26日 | 家・わたくしごと
 子どもの頃、「人生ゲーム」がとても流行した。もちろん、わが家でも当時は友人や家族と盛り上がった記憶がある。今、考えてみると、「人生ゲーム」は子ども時代の私に、自動車保険、火災保険などの保険の意味、銀行の存在、人生に訪れるさまざまな危機や苦難というものの意味をぼんやりと理解するきっかけを作ってくれたのだろう。
 昨日、息子がおじいちゃんにクリスマス・プレゼントでもらった「人生ゲーム」でわが家は久々に盛り上がった。なんと30年以上ぶりで「人生ゲーム」に向かったのである。そんなことより、未だにこのゲームが存在していることだ。ゲーム盤に書かれている内容は変わっているとはいえ、ゲームのポリシーは何一つ変わっていない。時代が変わっても、変わらないゲームがある!やはり、その理由はゲームが超マニュアルだからであろう。それがデジタルであれば、デジタルの進化とともにゲームは消えて無くなる運命にある。
 さて、さんざん盛り上がって夜10時すぎにゲームを終えた後、冷静になってゲームを振り返ってみる。人生ゲームというには、人生にはいつ何があるかわからないし、最後は一瞬にして財産を失うことだってあるという、人生の「一寸先は闇」の性格を物語っているわけで、だからこそ、ゲームのプレーヤーは、ゲームの先(つまり長い人生)を見ながら、判断をする。しかし私の行き方は、人生ゲーム調でいえば、「今、一番金持ちであればいい」という半歩先も見ていない生き方である。目の前に次々と襲い掛かる「現実」に悪戦苦闘する日々を繰り返すだけだ。結局、30数年前の「人生ゲーム」から、私は何一つ教訓を得ていないということになるのか・・・。それとも現代社会では、半歩先を見るなんて無理だからこそ、理想の人生を夢見ることのできる「人生ゲーム」が今の世にも生き続けているのだろうか?


サンタはいるんだよ、きっと・・・

2007年12月25日 | 家・わたくしごと
 サンタはいるんだよ。きっといるんだよ。でもお父さんは見たことがないんだ。お父さんが子どものとき、クリスマス・イブの夜、枕元にプレゼントがちゃんと置いてあったもの。そのとき、お父さんは本当にサンタからプレゼントをもらったと信じたよ。
 ある時、友だちに言われたんだ。「サンタなんているわけないだろ。お前は馬鹿だよ」って。そのときお父さんは思った。「そうか・・サンタなんていないんだ。ぼくはずっと騙されてたんだ」ってね。
 その次の年からサンタは枕元に何も持ってこなくなってしまったよ。サンタを見たことのある人なんて世界中でも、あるいは歴史の中でもほんとうにわずかな人たちなのかもしれないけれど、そんな夢を見続けてもよかったんだ。でもお父さんはそんな夢を捨ててしまったから。
  夢を見失っていくごとに、こうして人は何かを一つずつなくしていくんだよ。だから夢を持ち続けることはいいことだと思う。それが夢だもの。見続けている間は、いつも幸せな気分でいられるのだから。


リゾートホテルの過ごし方

2007年12月24日 | 
 昨日から一泊で名護にあるリゾートホテルに宿泊した。もらった宿泊券の期限が迫り、使わないと損だというケチな根性から宿泊を決めたのであるが、どうせ泊まるならば、クリスマスの近くにしようと12月23日を予約したのである。
 沖縄は南国のリゾート観光ができる日本でも有数の観光地である。そのため本土からリゾート系のホテルにはたくさんの観光客が来る。それでは、沖縄の地元の人々にとってホテルは縁がないか、というとそのへんはバリとは違って結構、地元の人々もホテルを利用する。まず、ホテルのランチ・ブッフェ、それに結婚式。これは定番の利用法であるが、宿泊することも結構ある。だいたいホテルは地元向けプランというのを用意していて、閑散期などには県民が安くホテルを利用することができる。そのためか、家族でホテルにお泊りなんていう休日の過ごし方も存在している。
 わが家もそんな県民であるが、車で1時間程度のリゾートホテルに、それなりにお洒落をして、ちゃんと着替えの荷物を持って、まるで旅行に行くかのごとく(これも旅行かもしれないが)、ホテルにチェック・インしたのだ。私などは、大学で講義するときでは考えられないようなお洒落であった。
 リゾートホテルなのだから、やはりホテル・ライフを楽しまなくてはならない。そこはビジネスホテルとは違うのだ。さて何をするか・・・と選んだのが、息子と二人でのシーサー作りであった。すでにできている本体に好きなパーツを貼り付け、色も好きに塗るというものである。こんなものにお金を払うのかと思う方もいるかもしれないが、始めてみると結構楽しいものだ。ちなみに私が塗った部分は・・・その目を見るとバリ通の皆さんにはわかるはずである。しかしこれはシーサーである。バロンではない。まさに正統派リゾートホテルの過ごし方である。


UFO体育館

2007年12月23日 | 那覇、沖縄
 最近、最も「堅い」と思われている偉い政治家の質疑で、「あなたはUFOを見たことがありますか?」なんていうのがあったことが記憶に新しい。官房長官も苦笑いを浮かべながら「きちんと」答えていたのが、視聴者からすれば結構笑えたのである。さてそんなUFOのことだが、私が「それを見た」という内容の話ではない。残念なことだが、私は今だにそのような体験をしたことはない。
 昨日、キャンドルナイトが行われたイベント会場のある市立中学校に入るとき、体育館の入り口で妙に気を引くプレートが目に入った。UFOをイメージした形の硬質プラスチックの上にはなんと「UFO体育館」と記されているのだ!
 はじめはとんでもないイタズラをする生徒がいるものだと考えたが、よく見れば、それはイタズラなどではなく公式なプレートである。ということは、本当にこの体育館の名称は「UFO体育館」なのだ。と考え始めると、なぜだ?なぜだ?と想像を巡らしてしまう。
一.この場所はかつてUFOの離発着が行われた場所である。
二.体育館の形がUFOににている。
三.ピンクレディがかつて訪れた場所である。
 それにしてもなんとも体育館の名称としてはユニークである。ちなみに私の中学と高校の体育館の名称は「ギムナシオン」だった。これは、まあギリシャ語とはいえ、ありきたりすぎる名前だったかも。「UFO体育館」の一本勝ち。

ガムラン de キャンドルナイト

2007年12月22日 | 那覇、沖縄
 今日の舞台は、那覇市のある公民館が主催するキャンドルナイトの企画での出演だった。冬至と夏至の日の各2時間ずつ電気を消すという「地球温暖化」を考えるイベントとして企画されたものだ。そのため、スポットライトをいくつか使っているもののいつもよりも舞台はかなり暗く、観客席には数百のろうそくの明かりが灯っている。中学校の体育館のはずなのに、不思議と神秘的な雰囲気が漂う。
 考えてみると私が留学していた時代、バリにはまだ電気が通っていない村がたくさんあった。そんな村にでかけると、明かりといえば石油ランプかロウソウだった。舞台裏で、ロウソクを数本たてて、手鏡を見つめながら、化粧をしていた踊り手たちの光景を今も忘れることができない。しかしバリもそんな時代は遠い昔のことだ。そして日本のことを考えれば、はるか以前のそんな時代を思い起こすことができるのは、ほんの一握りの老人だけなのだろう。
 文明を一度手に入れた人間はそれを捨て去ることなんてできない。しかし、その文明によって地球が温暖化されていく現実を考えることは個人でもできるだろう。人が人を殺しあうテロを批判する大国はなぜ、地球温暖化を遅らせるべき自らの基準を定めようとしないのか?温暖化は、自らが自らの首を少しずつ絞め続けているという、いわばゆるやかな自爆テロと同じだということになぜ早く気づかないのだろう?

明日は舞台

2007年12月21日 | 家・わたくしごと
 明日は舞台。本番前の最後の練習はいつもと何かが違います。もちろん普段の練習と何一つやることは変わらないのだけれど、メンバーの顔つきもキリっとしまっているし、私のガムランをたたく姿勢も背筋がスーッっと伸びているようです。
 練習が終わると楽器の積み込みの準備のための作業が始まります。もう慣れっこの作業。おしゃべりをしながらも、次々に作業は進行していきます。15分もすれば明日、トラックに荷物を積み込める状態になって、「さよなら」で、皆あっという間にスタジオを後にするのです。
 今年は何度、こうして舞台に立ったのかな?沖縄でも東京でも、山形でも・・・。舞台はぼくにとって大事な表現の場。でも演奏ができるのは、一緒に演奏する仲間がいてからこそできるもの。だからこの一年の間、一緒に演奏してくれた皆に感謝。今年最後のいい舞台ができますように。

朋あり遠方より来たる

2007年12月20日 | 家・わたくしごと
 子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎子
 この一文は、私が中学生のときに最初に暗記させられた論語である。1年間、論語の授業のあった学校で、毎週一編ずつ記憶しなければならず、当時は相当数を「そら」で言うことができた。しかし現在、すべてを正確に覚えているのは五、六編にすぎない。しかし、論語の一番最初に出てくる最初に書いた一文は、今なおはっきりと記憶している。
 月曜日から、東京の友人が沖縄にやってきた。彼も私と同様に研究者で、大学の教員である。研究の打ち合わせをするのがその目的であったが、やはり楽しいのは彼と語り合うひと時である。居酒屋や料理屋で机を挟んで、お互いの研究についての話ができるのは至福のときだ。友人は理科系の教員なので、時折、私には理解不能の数式や専門用語が出てくるが、そんなことは関係ない。
 孔子は本当にすばらしい言葉を残したものだと、沖縄に住んでつくづく思う。東京に住んでいるころは、仲間と会えることは当たり前だった。ちょっと足を伸ばせば研究会も学会の定例会もたくさんあるのだし。しかし沖縄にくれば、自分で東京や大阪にいかなければ、そうした環境の中で常に大勢の仲間と話すことはできない。だからこそ、こうして時おり遠方からやってくる友人のありがたさが身にしみるのである。まさに「朋あり遠方より来る、また楽しからずや。」



きみも美ら海の仲間!

2007年12月19日 | 東京
 国分寺から那覇に戻る途中、立ち寄った吉祥寺駅で「沖縄」の文字を見て立ち止まった。「キレイな海に誘われて今日からきみも美ら海の仲間!」と書かれている。なかなか、いい感じのキャッチ・コピーである。特に最後の「きみも美ら海の仲間!」が気に入った。ちなみに「美ら」(ちゅら)というのは、NHK連続テレビ小説「ちゅらさん」で全国版となった沖縄の言葉で「美しい」を意味する。なので「美ら海水族館」は、「びらうみ」、「みらうみ」ではなく、「ちゅらうみ」となる。
 確かに沖縄の海はきれいだと思う。中部から北部に向かう途中の海は、真っ青、というよりも「エメラルドグリーン」であり、伊豆の海とは全く違う。もちろん海水もきれいなのだろうが、多分に砂が白いことも関係しているのだろう。伊豆の砂は「黒」である。
 しかし沖縄は今、「冬」である。ちょっと風でも吹けば、海岸はとっても寒い。夏は有料の海岸沿いの駐車場も今は来る人もなく「無料」であるところが多いし、さすがにこの季節にビーチ・パーティー(ビーチで開くバーベキュー・パーティー)もない。この季節に「キレイな海に誘われて」来るのは結構だが、絶対に「きみも美ら海の仲間」にはなれないはずだ。仲間になるためには海水に浸からなくてはならないのであれば、なおさらである。
 沖縄に戻ってから吉祥寺で撮影した写真を見ながらそんなことを考えていると、携帯が鳴った。明日、東京から沖縄に来る友人からの電話だった。
「沖縄って今、どんな気候なんですかね。半袖でも大丈夫ですか?」
 なんとタイムリーな電話だろう。まさに「この感覚」である。沖縄にやってくる多くの人々にとって、沖縄はいつでも「美ら海の仲間」になれる島なのだ。

骨董屋

2007年12月18日 | 東京
 中古、リサイクル、骨董、オープンマーケット・・・こういう言葉が大好きである。とにかく新しいものより、古いものが私の性分に合う。大人になってからそうなったのではなく、たぶん子どもの頃からそういう性癖があったのだと思う。中学生の頃から神保町の店々に通いつめ、何よりもあの匂いやニコリともせず黙って本を眺める客や主人が好きだった。
 性癖であるとはいえ、これは父親から影響も大きい。父は特別に高価なものを買うわけではなかったが、それでも古物商があれば、何の躊躇もなく子どもを連れて店に入った。私はそんな店の雰囲気が嫌いではなかった。ただ父親が気に入ったものを見つけると、必死に値切るのには少々閉口した。しかしそれは子どものときの話で、そんな父を見ていたからか、インドネシアで生活するようになってから、私の「値切り」は誰に聞いても「相当な腕」であったらしい。父のおかげである。
 オランダに住んでいるときも、よく野外の骨董マーケットに出かけた。週2回、デン・ハーグで行われていたマーケットには用事がない限り、大学での仕事が終わると必ずでかけた。本屋もたくさん出ていたし、ガラクタなような物をひやかしで覗くのもまた楽しかった。
 先週の土曜日に国分寺で西洋の骨董屋を見つけて入った。「いらっしゃいませ」なんて誰も言わない。二人の店員は少し顔をあげただけで、ただ黙々と何かに向かっている。年代もののランプに電気がともされている。オランダにもこんな店がいくつもあったことを思い出す。10分くらいだろうか、さんざんいろいろ品物をながめて、もちろん何も買わずに店を出た。「ありがとうございました」なんて店員は言わない。きっと、わずかに顔を上げて私の後ろ姿を見送ったのだろう。それが私の好きな骨董屋の基本である。