Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

行くところ、帰るところ

2012年03月31日 | 家・わたくしごと
 沖縄に赴任してから数年間、沖縄は行くところだった。東京の友人たちも、「今度は東京にいく帰ってくるの?」と僕に尋ねた、ぼくもそのように言われることに満足たし、自分の居場所はあくまでも東京でいたかった。そう思いたかった時期があったことは事実だ。
 あれから13年、友人たちは「今度はいつ東京に来る?沖縄にはいつ帰るの?」と尋ねるようになった。東京には「帰る」はずだった自分も、知らず知らずのうちに沖縄が「帰る」ところにかわってしまった。明日、私は沖縄を離れて静岡県に行く。そう、当然ながら新たな赴任地は「行く」場所である。そして4月末には沖縄にちょっとだけ帰ることになる。
 行くところ、帰るところは物理的な出発点を基準に考えるだけではなく、心の中にある居場所、拠り所を基準にして使う言葉。今、僕の「拠り所」はもうすっかり沖縄だもの。しかし、いつの日か、かつてそうだったように僕の中で沖縄は、「行くところ」へと戻っていくんだろう。なんだかそう思うと寂しいけれど、ここが私の人生にとって「故郷」になったことは言うまでもない。生まれた場所だけが故郷ではない。人生の中に「故郷」は複数あったっておかしくないもの。「バリ」と「沖縄」は僕のそんな「故郷」になるんだろう。行くところとしての「故郷」。

わが家のギャラリー

2012年03月28日 | 那覇、沖縄
 あと二日で完全に引越しです。わが家のギャラリーもそろそろ撤収の時期がやってきました。ギャラリーといっても場所はトイレ。オランダでしばらく暮らして帰国後、ヨーロッパで見た絵画が懐かしくて、日本で行われるヨーロッパの画家の展覧会のきれいなチラシを張り出したら、数年でトイレがギャラリーになってしまったのです。
 オランダやベルギーの絵画のチラシだけではありませんが、やはり日本で展覧会のあるオランダの画家や建築家は、ゴッホ、フェルメール、レンブラントが三大巨頭。建築家はリートフェルトでしょうね。ヨーロッパに行くまでは、この建築家の名前すら知らなかったのに、帰国してみたら日本でも頻繁に椅子の展示をやっていたんですね。
 もうだいぶチラシも痛んでいるので、今回でこれらの絵画ともお別れです。だいぶ楽しませてもらいました。次の家ではどんなギャラリーになるんだろう?新しいギャラリーを作る楽しみが増えてよかった…。

箱を捨てたいんですけど

2012年03月23日 | 那覇、沖縄
「ミー、ちょっと。その箱を捨てたいんですけど。なんでそんな所に入って入るわけ。いったい誰待ってんの。ねえミー、聞いてんの!」
「ワタシ、この家のネコじゃないんだし、アンタの言うことなんて聞くことないわ。」
「後ろ向いて話すなんて失礼じゃない?こっち向きなよ。」
「ワタシはこうしていたいの。早く大学に行きなさいよ。」
 本当にミーは気まぐれである。何日も顔見せないと思えば、引越しで忙しいときに箱を占拠してイジワルをしたりする。
「アンタ、いったい誰に似たの!」
「ホラホラ、会議始まっちゃうわよ。」
結局、ミーのせいで箱は片付けられずじまいだった。相変わらず、口うるさいミーである。

Nothing

2012年03月19日 | 大学
 昨日、研究室の荷物(といっても大部分は本)をすべて出しました。研究室の棚には何もありません。さまざまな事情から4月末までこれらの荷物と出会うことができません。次の大学の4月からの授業で使用する予定の資料は、CDやDVDも含めて別にしたつもりですが、それでも今になって「これも、あれも必要だった」と悔いてしまいます。どうして荷物を出してから気づくのかしら。たぶん荷物を出すまでは、冷静にものを考えられなくなっていたんですね。
 家の荷物も新たな赴任地に送りました。といってもこちらも本と同様で、4月いっぱいは生活必需品もトランク一つ分です。まあ、フィールドワークに慣れていますから問題ありませんけれど。
 今日でこの大学での最後の教授会を終えました。でも、まだ今日も他の会議が続きます。「立つ鳥跡を濁さず」って言うし、やはり最後まで自分の仕事は全うして移動したいと思っています。これで職場いくつ目かな?でも沖縄で13年勤務しました。これまでの人生の中でもっとも長く働いた職場でした。
 研究室から見える首里城ともお別れです。でも次の職場の窓からは何が見えるのかしら、と思うとそれほど寂しくありません。自分で決めたのですから。

Ganesha Bookshop was opened in Sanur

2012年03月12日 | バリ
ウブドに古くからあるガネーシャブックショップが2週間ほど前にサヌールにオープンした。実は昨年7月にデンパサールの芸術大学のある通りに支店を開店したが、この店を閉店にしてサヌールに移ってきた。やっぱりデンパサール市内では観光客は来ないし不思議な気がしたが、聞くところによると、どうも店主が芸術大学の傍に住んでいるらしい。
 さっそくサヌールの店を訪れたが、やはり専門書の多いウブドのショップに比べれば、海浜リゾートに来て、ちょっとバリを勉強したい観光客対象の品揃えである。しかし、ウブドに行かなくても注文すれば、ウブドに置いてある本をちゃんとサヌールのショップまで届けてくれる。
 ちなみに住所は、Jl. Danau Tamblingan no. 42
 赤い看板が出ているのですぐわかるはずである。ちなみにタイトルを英語にしたのは、最近ブログをフェイスブックに掲載している関係。バリの私の友人たちが、サヌールに本を買いにいくとは思えないのだけれど。

バリの病院に思うこと

2012年03月11日 | バリ
 私が学生時代から30年近くお世話になっているガムランとワヤンの師匠であるS先生が2週間以上入院している。はじめはタバナンの公立病院に入院していたのだが、やはり施設や検査の問題からデンパサールにある大きな公立病院に移った。
 いろいろな検査が必要なのだが、タバナンの公立病院には検査機器はあっても、それを操作できる人がいないという。それで公立病院に移ったのだが、一つの目の検査を終えても、医者が忙しくていっこうに検査の結果が知らされない。医者がミーティングをする時間がないらしい。さらに大腸カメラの検査が必要だというのだが、公立病院のカメラは壊れていて使えないという。払えるお金があるのなら私立病院で検査をするように勧められる。
 バリでも外国人が行くような私立病院や、ジャカルタの大きな病院ではこんなことはありえない。しかし一般のバリの人々が通う病院はまだまだこんな状況なのだ。なんだか悲しいやら、くやしいやら……。師匠に早く元気になって欲しいと祈るばかりである。

緑のクリームボール出現

2012年03月11日 | バリ
 バリに来たら食べるおやつが、クリームボールである。このブログにも何度も登場したパンである(過去のブログが多すぎて、探してリンクをはるのが、面倒くさくなってしまったのであしからず)。今回、緑色に着色したクリームボールが新たに登場したのを発見した。値段は昨夏と同じ6,000ルピア。6個入りなので日本円にすれば、一個5.5円くらいである。
 それにしてもなぜ緑にしてしまったのだろう?ちなみに、この包装のビニール袋に小麦粉、バター、卵、塩、酵母が、材料として表示されている。こういう表示がされていること自体、すごいことだと思うが、着色料についての表示がない。表示の材料だけでは緑になるはずがない。たぶんちょっぴりすぎて、材料には勘定されないんだろう。
 なぜぼくは緑のクリームボールを買ってしまったのだろう?ちゃんと着色をしていない普通のクリームボールだって同じに棚に並んでいたのだ。にもかかわらず、ぼくはこのクリームボールをとっさに選んでしまっている。
 そうだ。これが「商売」なるものなのだ。クリームボールを緑色に変えた密かなる戦略にぼくは引っ掛かってしまった。緑のクリームボールはきっと声をひそめて笑っているのだ。人間は、日々の生活の中に、わずかな変化を無意識で求めているのかもしれない。「わずかな」というところが重要なんだろう。パンをほんのり緑色に着色したような……。

バリのワヤン人形支え棒

2012年03月09日 | バリ
 前回バリに来た時に、スカワティ村のプアヤという集落に水牛の角でバリのワヤンの支え棒を作る職人がいることがわかり、3月5日までの期日で、黄色の水牛の角を使った9本の支え棒を注文した。飛び込みの客だし、さらに日本人の注文だったので、たぶんまだ出来ていないだろうと思いながらも、その家に寄ってみた。ところが私の注文通りの長さで、本数も間違えることなく、支え棒は期日に出来上がっていたのだった。正直、こちらの方が驚いたのである。
 ジャワではワヤンの支え棒の大半は、今でも水牛の角なのだが、バリでは職人がおらず、さらには水牛の角をバリで入手するのが難しいので、今ではすべて木で作られた支え棒になった。しかしバリのワヤンを上演する私にとっては、やはり人形を持った手の感触や重さが、水牛の角の方が、手に吸いつくようにしっくりくるのである。
 1980年代後半から90年代にかけて、バリではジャワの職人にバリで使うワヤンの支え棒を発注したのだが、ジャワとバリではワヤンの扱い方が異なるうえ、作り方も違うので、すぐに折れてしまい、今ではジャワの職人に依頼することはなくなってしまった。そんな中、「よし、俺が昔あったバリのワヤンの支え棒を復活させよう」と立ちあがったのが、プアヤに住む一人の職人だった。
 この水牛の角が、本当にバリのワヤンにしっくりくるかどうかは、日本に帰って、自分のワヤン人形に付けて上演してみないとわからないのだが、バリのワヤンの支え棒を伝統的な方法で作ろうと立ちあがった職人の心意気には感心してしまう。

好みの問題ですが……

2012年03月08日 | バリ
 せっかく美しく彫刻をしたにもかかわらず、それに赤のペンキを塗ったあと、さらに金色の塗料を凹凸の出た部分に塗る作業の途中の風景。赤と金に塗られた枠のバリの楽器は多いし、それを演奏することにも抵抗はありません。でもね、この作業を見てしまうと、「どうしてここまでして派手にするのかな」と思ってしまうのです。
 もちろん所有者の「好み」の問題ですし、インドネシア芸術大学の楽器の大半は赤金に彩られています。それにアートフェスティバルで演奏される楽器は、100パーセントといっていいほどこの色が使われています。ですからきわめてノーマルなのです。
 1980年代、私が留学していた頃のバリの楽器の多くは、木の雰囲気を残した茶色でした。私にはそれが自然でした。王宮が保有するような楽器だけは例外的に彫刻も深く、細かく、赤金で彩られていましたか、金は塗料などではなく金箔でしたし、赤も科学的染料ではなくて、自然のものから作られた伝統的な赤でした。王家が他とは異なる楽器を持つことは理解できるのです。
 バリにおいて舞台で演奏する場合、楽器が派手であることが今や、(きっと)必須条件です。徐々にそれまで茶色だった楽器の上には、赤いペンキが塗られて、金の塗料というアクセサリーを体中にブル下げてしまうようになりました。
 何度も書きますが、あくまでも好みの問題なのです。でも百年近く茶色のまま用いられていた楽器を赤の塗料で覆いかぶせる行為は、ぼくには血塗られた行為のように思えてならないのです。派手なのは演奏だけでいいじゃないですか?大事なのは、その楽器から奏でられる音なんですから。

AISHITERU

2012年03月08日 | 
 ソロ滞在中、朝、ぶらっと散歩に出かけた時に見つけたお店「AISHITERU」。鉄板焼きのお店のようだが、朝なので当然、店は閉まっている。
 私がこの店に目を止めたのは、タイトルが「AISHITERU」だったからだけでなく、この店のシャッターを含めた色彩である。不思議と全体が橙色と赤でまとめられ、この建物そのものが暖色でやわらかな香りを漂わせていたからである。私は店名とその雰囲気に不思議と引き込まれたのだった。
 私は知らないのだが、数年前、インドネシアでは「AISHITERU」というタイトルの歌が流行したらしい。たぶんその意味はわかって使っているのだろうが、この店主はそんな意味とこの建物のつくりや色全体をコーディネートしたのだろうか?
 ちなみに、夕方、開店していたこの店の前を車で通ったのだが、店の中央には、卓球台のような鉄板が置かれているだけで、救いようもなく殺風景なものだった。なんだかちょっぴりがっかりした。この店が閉店をしたまま印象的な黄色のシャッターを閉め続けていさえしてくれるのなら、私はきっとこの店を愛することができるのにと、思ったりしたのだった。