Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

台湾お菓子のホームラン王

2011年05月14日 | 台湾
 沖縄に住んでいると、結構、台湾のおみやげをもらうことが多い。その中でもっとも多いのが鳳梨酥とよばれるパイナップルケーキ。家にあれば美味しく食べるのであるが、うちの家族からは「今回、お菓子はいらない」と言われて台湾に出発した。
 家にお菓子は買わなくても、ゼミのお菓子やらガムランのお菓子は必要である。行天宮のそばの鳳梨酥が美味しいといわれる店に行き、買い物をしたのであるが、そのときに試食で出されたお菓子の一つをつまんだとき、「えっ、これは……」とその味に感動してしまったお菓子があった。おもわず食べた瞬時に「これを下さい」と言ってしまったほど、その味は私にとって「台湾のお菓子のホームラン王」だったのである。
 「翡翠 緑豆羹」なるお菓子である。これは、この店で売られるお菓子の固有名詞なのか、それともこの手のお菓子の名称なのかはよくわからない。要冷蔵のお菓子で半生のようなやわらかさがある。中華風ではなく、この味はまさに「洋風」に近い。
 「そんなに旨いって言うなら、なんで買ってこなかったんだ?」といわれそうだが、実はすでに40個も鳳梨酥を買った後の出来事だったのである。それに要冷蔵だし。次に行く機会があれば必ず買ってこようぞ!(でも空港の免税店にはこの手のお菓子を発見できなかったのは、私の観察不足なのだろうか?)

供物

2011年05月13日 | 台湾
 台湾からの帰国日、先方の芸術大学のコーディネーターは、仕事ずくめの私たちに気を使ってか、空港への帰途、台北市内の観光スポットの一つ、行天宮とよばれる関帝廟へ案内してくれた。
 観光スポットとはいえ、ここは現地の人々の信仰の場。土曜日のせいか、多くの人々が廟を訪れて賑わっている。なんとなく信仰の場を異教徒の私が、興味本位で覗くことに抵抗を感じてしまう。そそくさと手を合わせてなるべく邪魔にならない場所に移動した。
 ちょうどそこに並んでいたのが供物の数々。バリで供物は見慣れているが、台湾の供物も独特である。よく見てみると、供物を置いて祈りを捧げた後、再び自分が置いた供物の場所に戻って、それを持ち帰っている。これまたバリと同じである。
 こういう光景を見てしまうと好奇心が爆発。コーディネーターに供物の種類や意味について事細かに質問してしまうが、相手も困って廟の人々に一つ一つ聞いている。廟・供物、祈りの場は、文化人類学を学んできた私にとっては、観光地ではなく、すでにフィールドワークの場になってしまうのだ。結局、撮影した写真を見てみると、廟の写真ではなく供物の写真ばかりなのであった。

スクーター

2011年05月12日 | 台湾
 台湾のバイクはほぼ100パーセント二人乗りバイクなのだが、驚いたことに、ほぼギアなしのスクーターである。インドネシアも徐々にホンダやヤマハのギア付きのカブが減りつつあり、韓国や中国で製造されたスクーターへと移行しつつあるのだが、台湾のスクーター化の方が一歩も二歩も進んでいる。原付がないだけで、日本とほとんどかわらない。
 街中では東京と同様にたくさんの車が走るのだが、それらの車を二人乗り、三人乗りでスクーターがすりぬけて行く光景は、沖縄には見られないなんとなく「アジア」な光景である。東南アジアと沖縄、東京の風景と深く関わる私にとって、沖縄に近い台北は、また新しい風景を見せてくれる。沖縄らしくもあり、東南アジアのようでもある不思議な街。カブ派の私が、スクーターに乗ってみてもいいかしら、とふと思ってしまう街。


街で

2011年05月11日 | 台湾
 1980年代、インドネシアには華人が山のようにいたはずなのに、漢字で書かれた看板が一枚もないのが不思議だった。後になって、「漢字」の公的な使用が禁止されていたことを知った。すべては共産党とのつながりを絶つための手段だった。
今のインドネシアに漢字は珍しくない。それまで自らのアイデンティティを表出できなかった華人はスハルト政権以降の改革の中で、自文化を表現することが許された。インドネシア語には不自由しないのだが、それでも不思議とバリの街中で漢字を見ると安心する。
 当たり前だが、台湾は漢字文化圏である。しかも漢字は中国大陸の極限まで省略した簡体字と違って、日本の旧字体の漢字が用いられる。私自身は戦後世代であるにせよ。そんな文字を見ると、ある種の懐かしさすら感じるものだ。だからなのだろうか、不思議と外国に来たという実感がいつまでたってもわかないのは……。

やっぱりここでも

2011年05月10日 | 台湾
 台湾に来てもやっぱりガムラン。芸術大学ではガムラン・アンクルンを所蔵して、授業に使用している。ただおもしろいのはゴング。バリのゴングではなく、台湾で作ったゴング。それでもしっかりバリのゴングの音がした。
 東京から沖縄、アムステルダム。そして台北。ガムランを演奏する場所が世界に広がっていく。私がたどるガムランでつなぐ道は、次にどこに向かうのだろう?

台湾大学

2011年05月09日 | 台湾
 「台湾大学の正門を入ると二階建ての建物があって、その二階に祖父の勤めていた台北帝国大学時代の研究室があった」と祖母や母に昔から聞かされた。祖父の研究者としても出発点がここだった。
 仕事を終えて、夜9時過ぎにこの場所に立つ。金曜日の夜のせいか、まだ構内にはたくさんの人が残っている。図書館の前には仮設の舞台がたち、舞踊パフォーマンスの後に続くトークセッションが行われている。賑やかな構内。
 私の研究者としての原点がここにあったのではないかとふと思ってしまう。大きく息を吸った。なんだか懐かしい香りがする……。そしてここからre-start!

限りなく黄色

2011年05月08日 | 台湾
 大学のカフェでバター・ブレッドの朝食をとる。運ばれてきたブレッドはなぜか限りなく黄色に彩られている。バター溶けてこんな色になるはずがないのであるが、黄色すぎる。 
 周りに人がいる手前、犬のようにクンクン臭いをかぐわけにもいかないし、だからといって何食わぬ顔してほおばるのも芸がない。そこでパンを一口大にちぎって、口に入れるほんの少し前、大きく鼻から息をする。
 甘い匂い。バターというよりカスタード。口に入れるとやはりバターに似た、それでもお菓子のような味が広がる。ほんの小さな出来事なのに、朝からこれを食べただけで気分が高揚する。外国に来るというのはこういうこと?

台湾と私

2011年05月07日 | 台湾
 台湾に来るたびに思うのだが、沖縄とは文化が違うとはいえ、やっぱり僕から見ると遠からず近からずの関係を感じてしまう。台風が多いせいか、コンクリート製の建物が多いのは外見的な類似点だし、漢字文化圏という共通点も大きい。それとも台湾からの観光客を大学の近くて頻繁に見るからだろうか?
 もう一つに精神的な近さがある。亡くなった祖母も祖父も台湾育ちだし、東京の実家の母も台湾生まれだった。曾祖父は日清戦争後に台湾で建築技師をしていたらしいので、明治時代から私の母方の親族は台湾と関わりをもっている。小さい頃から台湾の話をかかえられないほど聞いてきた僕にとって台湾は精神的な故郷のような存在なのだろう。
 台湾にいた母方の親族は戦後、日本に戻り、今はその大半が東京に暮らす。私も東京で育ち、時を経て、今は台湾にほど近い沖縄にいる。なんだか南に向かわなくてはならない宿命を背負わされているのかと思ってしまうほどだ。「台湾に来た」と思う自分、しかし、きっと私のどこかに「台湾に帰ってきた」というもう一人の自分がいるに違いない。たとえ似ていたとしても、沖縄では我慢できなかったもう一人の自分が今、まさに満ち足りた時間を味わっているのだ。でも僕にはそれがわからない。もう一人の私は、私に語りかけることができないからだ。

帰国しました

2011年05月07日 | 台湾
 2泊3日の台湾出張から本日帰国しました。本日、仕事先の大学から空港に行く途中で道教の寺院に寄った以外はずっと予定で埋まった出張でした。そんな海外滞在でしたが、数回にわたって台湾特集のブログが始まります。