Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

草の香り

2009年04月30日 | 大学
 青い草はその香りを強く発しているわけではない。その草が刈り取られたあと、それが太陽の光を浴びたわずかな時間だけ、不思議な香りを発するのである。それは鼻をつくような強い匂いではなく、だからといってほのかに香るやわらかなものでもない。
 子どものころ、家の周りには芝の畑があった。一年に一度、それはきれいに刈り取られて土色の丸坊主になる。しかし種をまくと、不思議と翌年には再び一面が緑の芝畑に戻るのだった。子どものぼくは畑の持ち主の目を盗んでは、入ってはいけないそんなふかふかの毛布のような芝の上を走り、転げまわった。遠くから「出て行け!」と声が聞こえるたびに、一目散に逃げ帰ったことを覚えている。
 そんな畑の芝では、一年に一度、伸びた背丈がきれいに剪定された。切り取られた芝の葉は太陽の光をいっぱいに浴びてしばらくの間、畑に放置されるのだが、そのとき、あの草の香りが一面に漂うのだ。私は不思議とその香りに魅了された。大きくなってからも刈り取られた芝畑のそばを飼い犬とともに散歩するのが好きだった。しかし、そんな風景はもうずっと昔のことで、今、そんな風景はどこにも存在しない。まるで私の記憶が幻覚のようだ。
 今日の暖かな陽の下、大学の中庭がきれいに刈り取られた。芝ではないが、それはかつて私の家の周囲で毎年行われた剪定されたばかりの芝畑の風景とよく似ていた。午後3時近い休み時間、ぼくは日向ぼっこをしながらぼんやりそんな中庭のまわりに置かれたベンチで時間を過ごした。そのとき、私はあのときの香りを感じのだ。そうだ!私の好きだった草の香りだ。香りとともに昔の光景が次々に蘇る。芝の上を犬を追いかけて走り回る父や弟、私のグローブをめざして直球を投げる若い父の姿。
 たった10分であるはずなのに、まるで今日一日分の幸せをもらったような、そんな過去の香りを感じられた素敵な時間だった。正直なところ、ぼくはその刈り取られた柔らかな草の上を転げまわりたい衝動にかられたほどだ。そのせいだろうか、ぼくはすっかり元気になった気がする。


大きすぎると・・・

2009年04月30日 | 那覇、沖縄
 4月24日、那覇に本土で展開する大型書店がオープンした。私は出張や帰省した折に東京や大阪の大型書店にはよく行くのでとりわけ行ってビックリということはないが、地方都市の沖縄にこうした本屋ができたことはある意味、画期的なことである。
 この書店の開店の話を私から1ヶ月前に聞いていた息子は、「開店したら行こう、行こう」と繰り返しお経のように唱え続けてきたが、昨日、とうとうこれが実現したのだった。家族でバスとモノレールを乗り継ぎ(とっても行くのに20分もかからない)、この書店に到着。時間を決めて、結局1時間半以上はお互いに好きな本をブラウジングした。
 帰りがけ、息子に「どうだった」と問いかけると、「多すぎてどこを見ていいのかわからなくなった」というのである。なるほど、この言葉を理解することができる。目的があればすぐにその場所に向かうのだが、私の場合も今回は「店」を見に行ったわけで「本」を探しにいったわけではないから、それに近い感覚をもった。なんとなくブラブラはするのだが、集中できないパターンである。たぶん集合時間が決められていたせいもあり、焦りもあったのだろう。
 自分の歩いた書棚を思い出してみる。新刊小説、音楽、文化人類学、文庫、旅行ガイド、そして北欧雑貨。考えてみれば行く場所はなんだかいつも同じだ。大きなレストラン街にはいってランチメニューを考えても、結局、ほとんどど見ずに日本そば、カレーライスのどちらかになってしまう自分の選択肢の貧しさを悲しく思う。
 

たのまれP

2009年04月29日 | 家・わたくしごと
 「P(ピー)、新聞結束して」「布団たたんで」「新聞だして」「牛乳しまって」・・・などなど朝からPは大忙しである。まあ家の仕事をあまりやらないPとしてはブツブツ言いながらもちゃんとやりとげる。
 今日は昭和の日、朝起きるとすぐにかみさんに「水曜日だから新聞出して」と命じられる。別に昭和だろうが、平成だろうが水曜日の晴天は新聞回収の日なのである。
「ちょっとさー、朝からたのみすぎじゃん」と東京人の「じゃん言葉」で愚痴ってみた。するとかみさんの名言が・・・。
「Pはこの家でたよられてるってことなのよ」
 なるほど、ぼくはたよりにされているんだ!ものすごいポジティヴ志向である。言うかみさんもかみさんだけど、そんなおだてにのってポジティヴ志向になって仕事をしちゃう私も私である。しっかり結束して出したわよ。本日の朝の頼まれ仕事、完結。だって布団もたたんだもの。

時間の三つ揃い

2009年04月28日 | 家・わたくしごと
 夜中に目が覚めて、真っ暗な部屋の画面の消えたテレビをぼんやり眺めた。するとテレビの下に置かれたビデオに表示されていた時間が、333。つまり3時33分。時間の三つ揃いである。なんとなく嬉しい。
 考えてみれば、この三つ揃い、000、111、222、333、444、555の午前、午後あわせれば12回あるわけで、しかもそれぞれが1分ずつだから計12分、一日は1440分なので、この時間に遭遇する確立はさほど低いわけではない。しかし、パチンコ、スロットと同様に、なぜか横に数字がそろうと嬉しいものだ。
 3時33分に私は約1分間、真剣にそんなことを考えているうちに、ビデオの表示はもう334に変わってしまっている。さあ、そんな妄想は終わりだ。こんなことを真剣に考えているうちに頭がさえて眠れなくなるし。

超癒し系CD

2009年04月26日 | CD・DVD・カセット・レコード
 今月の頭だったか渋谷のタワレコのクラシック売り場の試聴コーナーで見つけたCDが「アルフォンシーナと海」である。波多野睦美(うた)、つのだたかし(ギター、リュート)の実に静かな作品ばかりを集めたCDで、ピアソラ、ヒナステラ、ヴィラ=ロボスといったラテン系作曲家からフランス、イギリスそして日本の作曲家の作品までがならぶオムニバス的な選曲である。
 買った直後は、試聴コーナーのマジックにはめられたと後悔したのであるが、このところ、この手の癒し系CDで言うなれば「癒されて」いるのである。特にピアソラの《オブリヴィオン》は、ギドン・クレーメルのヴァイオリンで演奏されたCDで聞いて以来、大好きな一曲である。
 この手のCDが必要なくなって、研究室でツェッペリンを大声で歌えるようになったとき、ぼくはまた元通りの「ぼく」に戻るってわけだ。このCDを聞いているばかりじゃ何も変わらないもの。さあ前を向いて進もう!

ピースの衣替え

2009年04月26日 | 家・わたくしごと
 2007年12月4日のブログにわが家のピースが登場する。実にかわいいペットであるが、動かないし、しゃべらない白熊である。あれから1年半、ピースはいまなおわが家で大事にされている。
 最近、ピースは1年半ぶりに(考えてみるとそんなに長い間!)、初めて衣替えをした。ピースの名が象徴するような平和の黄色のTシャツから、今度は白へ。しかもとうとう彼までBALIのTシャツを着ることになったのである。やっとピースもぼくらの仲間入りだ。ガムランもやるかい?

何かがかわったのか?

2009年04月25日 | 家・わたくしごと
 祖父を最近亡くしたゼミの学生がそのときの自分の状況を「何かが終わり、新しく始まる」と表現した。私にとって祖母の死はそこまで断定的に表現するほど明確な境界を跨いではいないのだが、やっぱり漠然と何かが何かにとって代わったような気がする。
 朝の両親の会話は以前とかわりなく賑やかだったし、私も普段とかわらずに昼食を食べて空港に向かった。そしてこうして空港で搭乗便が来るまで時間を潰しているのもまた日常的な行為である。
 しかし、やはり何かが変わった気がする。それが心の内か周囲の風景かはよくわからないのだが、きっと時間がたつにつれて輪郭が見え、色を認識できるようになるだろう。とりあえず、私はこれから仕事場である那覇に戻るが、時間をかけて少し考える時間が必要だ。とにかく、まずはゆっくり眠ることから始めよう。

指揮者になりたい?

2009年04月25日 | 家・わたくしごと
 最近、息子はドヴォルザークの交響曲8番と9番にはまっている。まあ、クラシック初心者向け名曲とはいえ、車、部屋、そして東京への移動にも持参するほどの熱の入れようである。
 まあ、聞く種類の音楽が増えることは好ましいことだと思うし、私も久しぶりにドヴォルザークを聴く機会ができてまんざらでもない。しかしだ。かみさんの話によると最近ぼそっと「ぼく指揮者になろうかな?」と呟いたそうなのである。
 ちょっと待ってれ!おれはそんなことは聞いてないぞ。きっとかみさんの幻聴にきまっている。まさか息子が音楽を勉強をしたいなんて言い始めるわけがないし、だいたいガムランしか演奏できないじゃないか。ジョークだよ、ジョーク。

満開

2009年04月23日 | 家・わたくしごと
 実家の庭は今、本当に花々が満開です。祖母の家と私の両親建てた家が共有するこのあたりではちょっと贅沢なほどの広さをもつ庭に、今は春の花々、色とりどりのチューリップ、鮮やかな赤で縁取られた西洋シャクナゲ、薄紫のキクのようなミヤコワスレ、清楚なダッチアイリス、小さな棚から咲き始めたフジ、野草のヤマブキソウの黄色、そしてプランターに植えられた春の定番ペチュニアなどが、広げたパレットに出された暖色の絵具のように散りばめられています。まだまだ小さい花もあり、まるでミニ植物園のようです。
 なんだか暖かい日差しの下、今日が祖母の通夜であることが信じられません。祖母の家に入ると、花の好きだった祖母の庭を指さす姿が目に浮かびます。どこからか私を呼ぶ声が聞こえそうです。温かで、素敵な春の日です・・・。

和声

2009年04月22日 | 家・わたくしごと
 高校時代、受験のために始めた和声なる音楽理論はとにかく退屈だった。規則、規則でそれに違反すると「禁則」と怒られ、そのうち音楽を作るというよりもむしろ、地雷を踏まないように最終地点に到達することばかり考えるようになった。はっきりいって、「紙上戦争ゲーム」の何が勉強になるのか「意味不明」だった時期が長かった。
 そのためか、和声を教えてくれていた先生もほとんど呆れはて、私の楽譜を見るや否や、ピアノを弾くどころか、「禁則」を指摘する赤いラインだらけにして、「出直してこい」と怒り心頭で私を追い出す始末だった。ある日、先生に「君、弦楽四重奏を聞いたことはあるかい?」と尋ねられた。もちろん、そんなものはBGM以外で真面目に聞いたことはなかった。「ない」と答えると、彼はそのとき、曲を聴きながらこれを読むようにと、モーツァルトのポケットスコアを貸してくれた。「これでできなきゃ破門」という最後通告だったのかもしれない。
 私はたいして興味もなかったが、日比谷図書館からレコードを借りて弦楽四重奏なるものを聞いた。ところが、不思議なことに私はその日から和声に夢中になってしまった。和声が規則でなく、リアルに「音楽」であることを始めて知ったからである。次々とスコアーを買って曲を聴くようになり、その後、あれだけ嫌だった中野の和声の先生の家に行くのが楽しみになって、不思議と不出来な私がなんとか這い上がってきている姿をみた先生も私をやっと「生徒」として扱ってくれるようになったのだろうか(少なくても門前払いはなくなった)、彼から学んだ三年間、いろいろな話をしてくれるようになった。そんな会話の中から彼が和声にいかに魅了されているのかを垣間見た。そして、そういう先生に私はすっかり魅了されたのだった。
 ある意味、先生の創作の方向性は、当時の私にはなかなか理解できなかった。今さら古典的な和声にもとづいて作品を作る意味があるのかどうか私には理解しづらかった。というのは当時の私は「今日の音楽」のようなコンサートに夢中になっていて、和声を真剣に学ぶものの、それは「過去の遺物」くらいにしか考えていなかったからである。
 あの頃から30年近くたって、最近その先生のヴァイオリン協奏曲と弦楽四重奏のCDを二枚手に入れた。聴いてみると、それは全く現代音楽とよばれる音楽の正反対に存在するような「和声」によってつくられた究極の古典的な作品なのだ。しかし、今だから思えるのだ。これがいかに勇気のある行動だったのかということを。あるいは先生にとっては、それは至極当然な創作行為であったのかもしれない。先生がどこまでも古典的な和声を愛し、2002年に亡くなる人生の最後まで自分の書きたい曲を、社会に迎合することなく書き続けたことに感銘すら覚えてしまうのだ。結局、私は和声とは異なる音楽の世界に進んだが、こうして今なお音楽の世界で生きていることを先生に自慢できないことが残念でならない。どうして会いたいと思ったとき、人はもう私の前にはいないのだろう・・・。