Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

アリ・アリ・アリ

2015年08月30日 | バリ
 真珠湾攻撃のトラ・トラ・トラではない。本日の話題はアリ・アリ・アリである。この写真は今週の水曜日に調査に行ったお寺の楽器である。歴史のある楽器でいろいろ交渉をしてその音を録音をさせていただくことになった。そこまでは通常の調査である。寺院の楽器であることからバリの正装に身を包み寺院の僧侶に会い、お祈りをした後、いろいろな話を伺い、歴史のある寺のあちこちを案内してもらった。
 さてここから調査の作業が始まるのである。楽器の布をはずしてS教授と協力して採録していく。私はふつう音をたたく役割を担うため、楽器を少し動かしてはそこに自分の体を移動していく。これを何度か繰り返しているうちに、なんとなく足もとから膝あたりまで、何かがもぞもぞと動いている感覚がある。しかし録音作業中なので「痒い」とか「あれれ?」とか声を出しにくいのだ。とにかく「変だ」と思いながら作業を続けていく。一台の楽器が終わって、ふと下を見ると…。
 一面アリなのだ。まさにアリ・アリ・アリ!しかもアリは、私の素足から膝へ、そして太ももへ大量に移動しているのだ。「わ、わ、わ、わ」ということで録音はいったん中断。まずは体の中にいるアリの退治。といっても人前でパンツ一枚になるわけにもいかず、とにかく腰布のパタパタしながらアリを飛ばすのだが、これがまた難しい。しかもこのアリ、咬むのである。もう痒いし、腫れるしたいへんだった。なんとか調査は無事に終わったが、ホテルに戻って足を見たらまだ数匹くっついてアリの根性にまさに脱帽だった。この写真を見て思いだすのはその音ではなくてアリ、ただそのことだけである。
 

ある肖像写真

2015年08月28日 | バリ
 私がワヤンを学んだタバナン県のトゥンジュク村のダランの家には、この写真が長きにわたり飾られている。その存在に気がついたのは1984年のことだったが、当時大学2年だった私にはこの写真の正体がわからなかった。それほどまでにインドネシアの歴史に無知で、バリの音楽を勉強していたということだ。
 1986年から留学をして、毎日、この写真と向かい合った。勉強しているときも、ワヤンを製作しているときも、すぐ私の上にこの写真の男がいた。その頃には、この写真の正体を突き止めていた。若き日の「スカルノ」である。しかし1980年代はまだスハルト大統領の時代であり、スハルトによって失脚させられ、さらいには左翼思想に傾いたスカルノに対して、社会は冷たかった。たとえ心中はスカルノびいきであったとしても、家にはスハルトの写真が飾られていたものである。だから、ときに村の人々はダランに対して陰口をたたいた。
 「あんたの先生は変わり者よ。ふつうスカルノの写真なんて大っぴらに飾らないものよ。だいたいスハルト大統領の写真を飾らないんだから。ダランだから許されるのよ。」
 スカルノを信奉するということは、ある意味、当時は禁止されていた「共産主義思想」の持ち主と思われてもしかたがない時代だったのかもしれぬ。つまり「左」であることを公然と公表していることになる。それでなくてもダランの家にはひっきりなしに客人が訪れる時代だったから、初めての来客はさぞ驚いたことであろう。それでもダランはこの写真だけは終生はずさなかった。
 1999年に政変が起きて、スハルト大統領は失脚し、インドネシアの民主化は大きく変わった。今では80年代が嘘のようにスカルノに関する研究や、書物が本屋にあふれているし、スカルノの肖像があちこちに飾られる。ある意味、スカルノを古き良き時代の象徴にまつりあげているようにも思えるのだ。
 私の師匠の一人であるダランがなくなって、もう十数年の歳月が流れた。しかし今なお、この写真だけははずされることなく主人の変わった家の壁にひっそりとかけられている。僕はこれを見るたびに時代に屈しなかった師匠の生き方を誇りに思う。そして自分もまたそうして生きなければならないと、毎年、この家に来るたびに思いを新たにするのだ。

遅い夕食

2015年08月26日 | バリ
 S教授との仕事が片付いたのが11時30分。デンパサールまで戻ってきて、「お腹へった。なんだか空腹を通り越したみたいだね。でもやっぱり食べないと眠れないね」と話しながら、S教授をサヌールに送るついでに食べるところを探す。24時間営業のパダン料理という選択もあるが、辛い料理が多いので、夜遅いとちょっと重い。
 サヌールにあるホテル関係の人たちが利用するワルン(食堂)で食事をすることに。ホテルは24時間営業だから、そこで働く人たちが仕事の帰りに寄って食事をしたりテイクアウトをして帰っていく。なんだかここでそんなホテルマンたちの話を聞くと映画のシナリオができそうな店。作業のあとの食事はうまいね。夜11時45分、これを食べながら「また太るなあ」と後悔しながらも美味しくいただいたのだった。さすがにバイクだし、夜遅いので飲み物は砂糖ぬきのジャワティーである。
 1980年代前半、この場所ではないが、やはりサヌールのホテル従業員のためのワルンがあり、大先輩二人とギャニャール方面でワヤンを見た帰り、よくそこに直行して夜中ビールを飲んだことを思いだした。いわゆる「青春の思い出」。

朝食

2015年08月26日 | バリ
 宿泊している場所は朝食がないので自分で買いに行くなり、前日から買っておくなりしておきます。この日の朝食は前の日に買ったチョコドーナツ。25円くらいでしょうか。コップはブクブク棒でお湯が沸かせるように、海外出張のときは必ず持参します。
 日本だったら、パン、ハム、ヨーグルト、サラダ、コーヒーとだいたい毎日このメニューですが、インドネシアではこのシンプルさなのである意味、新鮮です。甘いものが食べたくないときはご飯ものを買いに行けばいいし。
 この写真は昨日のものなのですが、この日の夜はS教授と夜、音響解析のための古いゴング・クビャルの音を採録に行きました。これがまたおもしろい調査だったので、次回はその話を。毎日、食べたものの写真を掲載した上で、その日の話題というのはどうだろう?

毎度毎度ですみませんが…

2015年08月25日 | バリ
 またこの写真かね、とあきれる方がいらっしゃるかもしれませんが、バリに来たら二日に一度は食べる「そばめし」ならぬ、焼きそば入りナシチャンプる7,000ルピア(62円)。これがなくちゃインドネシアは始まりません。このおかげで私は元気にしております。毎度、毎度、ブログにアップしてごめんなさい。
 撮るたびに思うのですが、おかずの「色」にバラエティないなあとつくづく実感します。こういうところがインドネシアなんでしょうね。
 本日はから音響解析のための録音作業が始まります。なんとなく役割v分担が決まっていて、集落との交渉はM教授と私、録音作業は共同、解析はS教授、その分析や考察は共同で行っているのですが、このプロジェクト、数年間頑張って続けていることから結構データも集まり、面白くなってきています。一人ではできない研究ですが、だからこそ楽しいのかもしれませんね。

シンドゥー市場にて

2015年08月23日 | バリ
 本日、バリに到着しました。WIFIの確認も兼ねてブログを更新します。久しぶりのガルーダの直行便に搭乗したことから、ものすごくやってはいけない贅沢をしているようでなんとなく落ち着きませんでした。いつになっても貧乏性なわけです。
 このところ利用しているデンパサールのゲストハウスに到着。なんとなく嫌な予感がしたのですが、案の定、予約していた部屋がなく、一番安い部屋になりました。ちょっと贅沢しようなんて色気が出たのがいけなかったのでしょう。こういう運命なんですね。贅沢をしちゃいけないってことなんでしょう。正直、部屋の種類はどうでもよかったのですが、ちょっぴり怒ったふりをしたら、安い部屋をもっと負けてくれました。役者だなあ。でもゲストハウスが悪いわけだし。
 すぐにS教授と明日からの打ち合わせ。バリの研究協力者に電話で確認などなど。S教授と行こうと思っていたシンドゥ市場の入り口のレストランMama Putu2が閉店で、これまたがっかりでパサールでナシチャンプル15,000ルピア。サヌールなので外国人がいっぱいで、前には西洋人の観光客がおいしそうにサテーを食べていて、やっぱり観光地だなと。贅沢といえば、今日はバイクがないので、サヌール往復タクシーを使いました。片道4万ルピア(330円)。インドネシアではかなりの贅沢ですね。とりあえず、明日から始動です。

二宮金次郎はまだ学んでいるのです

2015年08月21日 | 浜松・静岡
 天竜区龍山に残っている廃校になった小学校。校庭には雑草が生い茂り、平成21年から子供たちの声の聞こえなくなった小学校。少子化、限界集落が生む負の資産。
 校門を入って校舎の前に茂る木々を目をこらしてよく見ると、枯れ木を背負って本を読む二宮金次郎の像が立っている。たぶんほとんどの人が気が付かない。子どもも大人もいなくなった校舎の敷地には、まだ「一人」だけ彼が残って学問をし続ける。
 もう彼は「人」から「木」に変わりつつある。この地に根を張り、誰もいなくなった校舎を、まるで仁王像のように護り続けているようだ。いずれかはこの木々の中に埋もれていくであろう二宮金次郎。しかし彼がここにいる限り、ここは「学校」であり続ける。
 

龍山の吊り橋

2015年08月20日 | 浜松・静岡
 10月17日(土)に浜松市天竜区龍山にある森林文化会館にあるパイプオルガンのコンサートを開催します。チラシも完成し、今は広報活動の真っ最中です。大学から車で1時間以上かけて、切り立った山の間を流れる天竜川に沿って広がる龍山町を訪問。もう今年になって4回目。室内楽演奏会スタッフも気合が入っています。
 実は車2台でいく予定でしたが、なんだか当初、手をあげていて学生が「やっぱり行かない」ということになり、ワゴン車一台でいくことになったのでした。さまざまな施設を回り、森林文化会館から二俣へ戻る途中、「吊り橋をわたってみよう」ということになりました。結構、揺れます。風が強いと危険です。ということであることを思いついたのでした。
 室内楽演奏会スタッフになるためのイニシエーション(加入儀礼)
 風雨で荒れ狂う日に、この橋を3分で往復すること。途中で引き返すことなく往復できたものだけが、室内楽演奏会のスタッフとなれる。
 どうだろう?たぶん来年は室内楽演奏会はなくなるな。ちなみに写真に写っている方は、私とともにこのイニシエーションの判定をする側のお方です。

夏休みの思い出

2015年08月15日 | 家・わたくしごと
 小学校の2,3年の頃だと思う。まだ国分寺駅も木造で、西武国分寺線も赤とクリーム色のツートンカラー。夏にはカタカタと天井で扇風機が回っていた。たぶんピアノの習いにいった帰り、夏休みの昼下がり、国分寺から西武国分寺線の先頭車両に乗った。とにかく暑い夏だったことがぼんやり思い出される。冷房の入った今の電車ではもはや考えられないが、窓はどこも全開だったし、扇風機の音も記憶している。
 客はほとんど乗っていなかった。もちろん今となってはどんな客が乗っていたのかは記憶にないのだが、子どもながらにある種の恐怖感を覚えたものだ。この電車は目的地には行かず、どこかとてつもなく遠く、知らない場所に向かって、もう戻れないのではないか…。あれから40年以上経っているのに、なぜか今も忘れられない空気、光景、音。
 一昨日、お盆の昼下がり、ぼくは同じように西武国分寺線の先頭車両に乗った。その瞬間、私は「あの光景」を思い出してしまった。まるでぼくはあのときの小学生に戻ったように。この時間を急降下する感覚を言葉にするのは難しい。体の中にあのときの生ぬるい風が駆け抜けていく。

夏の熱海

2015年08月14日 | 家・わたくしごと
 真夏に熱海に行った記憶はもうはるか20年以上前のことだ。最近は熱海は観光地としては「いまいち」だとかホテルの廃業が増えているなどいろいろな噂は耳にするが、真夏の熱海は家族連れの観光客で大賑わいだった。なんだか昔からの観光地の賑わいは、安心感すら覚えるものだ。
 学生たちと一泊二日の温泉旅行。これまでそんな旅行はしたことがなかったが、学生たちの企画にのった。ゼミ生の留学の壮行会も兼ねた旅行だったし、断る理由もなかった。それにしても4年のゼミ生4名はとにかくかしましかったのだが。
 熱海港から熱海の温泉街を一望する。夏の温泉なんて暑くてとんでもない、という人もいるが、そんなことを言うなんて「とんでもない」。なかなかおつなものだ。ゼミの学生たちは留学する学生を除けば、来年の4月から社会人。記憶の片隅にこの旅行のことが残るだろうか…。いや、これからもっともっと楽しいことがあるんだからね。