Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

樹木のイメージ

2016年02月19日 | 浜松・静岡

 沖縄から戻ってもう1週間以上経過してしまった。それにしても久しぶりの沖縄は寒かったし、ある程度予想はしていたものの、やっぱり寒い沖縄というのは切なかった。沖縄はいつも暖かい、なんて思う観光客は許せないと、那覇に住んでいた頃は憤りを感じたものだが、住む場所変われば、やっぱり僕も「観光客」なのである。
 そんな沖縄で撮影した国際通りの写真。もちろんお日様は出ているものの寒いのである。しかしどうだろう?この写真を見て、そんなイメージが湧かないのではないだろうか?それはやはりこの両側に植えられた南国の木々の力である。実は、写真を撮影する私ですら、そんな錯覚にとらわれてしまうのである。
 樹木のイメージというのははなはだ大きいことに驚きを隠せない。その木々が繁茂する地域のイメージが、体内温度を自然にあげてしまうのだ。脳の力にもびっくりポンである。どんなに寒くてもTシャツを売り、半袖のかりゆしを売る国際通り。まさに那覇を象徴するような通りの一つだ。そこに街路樹として植えられた南国風の木々。この街づくりに関与した人々にはまさに脱帽である。


懐かしの銀天街

2016年02月12日 | 那覇、沖縄

 先日、沖縄市役所の方の案内でコザの銀天街を訪れた。シャッター通りの商店街はコリンザ周辺の一番街だけでなく、少し離れた銀天街も同様である。実はかつて一番街周辺は、白人の米兵、銀天街の周辺は黒人の米兵の歓楽街だった。白人と黒人は同じ場所でお酒を飲むこともできなかったのである。
 実は今から7,8年前だろうか、銀天街で新たなアート活動を始めた若い人々から誘われて、この商店街の一角の路上でワヤンを上演したことがある。面白い上演だった。車が通行できる道路を通行止めにして、そのど真ん中でワヤンを上演した。ワヤンのすぐ横は居酒屋で焼き鳥を焼く煙が、上演している私を容赦なく襲ってきたのを覚えている。それでもお酒をのみながらおじさんたちが、笑いながらワヤンを見ていたことを思い出す。なんだかバリのような、沖縄のような、不思議な光景だった。
 月曜日の昼間の銀天街の路地はあいかわらず寂しい。ところが、この数年で銀天街は大きく変わったという。夜になるとここにさまざまな屋台やバーがお店をあけて、毎夜、若者が集まる素敵で、オシャレなエリアへと変貌したという。なんだかインドネシアのパサール・マラムのようだ、この怪しさ、市場の雑踏といった雰囲気は、ちょっと趣向を変えただけで、魅惑的な空間へと変貌する。
 浜松もまた駅周辺はシャッター街へと少しずつ変貌してきている。しかしここを銀天街のように変えるのは至難の業だ。なぜなら整いすぎているのである。街がきれいすぎるのだ。じゃあ、ちょっぴり怪しい街に作りかえちゃうかな?


那覇でステーキ屋

2016年02月11日 | 那覇、沖縄

 日曜日から火曜日まで出張で那覇に行っておりましたが、なんと、14年間那覇に住んでおりました間、一回も行ったことのなかったステーキ屋にて初めておいしいディナーを食してまいりました。なかなかの美味でございました。本格鉄板焼きなるもの、「物心ついてから」はじめての経験でございました。
 正直申しますと、鉄板焼き屋は「人生初」ではございません。なんと、まだ「物心がついていない」幼少の折、あの都内でも有数な日本橋にたたずむ鉄板焼きの名店「紅花」に行ったことがございます。わたくしの父親としては、最高級のものを幼少の私に食べさせようという思いだったのでしょう(恥ずかしながら、わたくしは、B級グルメ派でございまして、自分の息子にそのような経験をさせたことはございません。)。しかし、鉄板焼きの「いろは」もわからない幼少のわたくしは、どうもスパゲティが食べたい、カレーが食べたいなど、自由奔放なわがままを申したようでございまして、それはそれはシェフをはじめ両親までも困らせたという話が、わが家の「伝説」として残っておるようでございます。
 なぜでしょうか、その伝説の後、私は鉄板焼きといえば、「お好み焼き屋」「もんじゃ屋」以外に行くことはなくなったわけでございます。子どものときの記憶はほとんどございません。ただ、紅花なる場所が、薄暗い店であったこと、シェフが背の高い帽子をかぶっていた記憶だけが、鉄板に張り付いて、いくらこすっても取れない「おごげ」のように、妙に脳裏のどこかに焼き付いております。
 今回入ったお店、まるで記憶がよみがえるような雰囲気でございました。おもわず、「スパゲティー・ナポリタンを一つ」と注文してしまいそうでございましたが、タイミングのいいことに、その日のランチは沖縄市役所にてナポリタン定食を食べたばかりでございまして、そのせいか、ぐっとこらえることができまして、「サーロインステーキと生ビール一つ」と、緊張のあまり声を震わせながら注文することができたのでございます。なんというか、やっと幼少期のつらい記憶をこの日をもちまして乗り越えることができた、という不思議な心境でございます。鉄板に張り付いていた「おごげ」が、きれいにはずれたような心持ちというのが正確な表現でございましょう。この場を借りて、あの日のわがままを両親に心より詫びたい気持ちでございます。


微笑みを忘れちゃだめさ Jangan lupa senyum

2016年02月05日 | 家・わたくしごと

 水曜日、4年生の最後のゼミが終了。全員、無事に卒論も提出し、はじめて新年会兼お疲れ様会を開催。あまり学生とは飲食をしないのだが、この日ばかりは、社会に旅立つ予定の5名と楽しい時間を過ごした。
 さて、終了間際のことだったか、4年生たちが私に「通知表」を渡してくれたのだった。おいおい、こっちが君たちに渡すものだろうと思いきや、それは手厳しい成績表ではなく、寄せ書きのような、楽しい通知表だった。内容は秘密だが、それでもまずまずで、一応は合格だったようである。それだけでも安心である。
 実は、卒業予定を5名と書いたが、じつは当初、私のゼミは7名で、一名は家庭の事情で退学した。あと1名は、現在、バリ島に留学中なので、現在の私の4年ゼミ生は全員で6名ということになる。留学中の学生にもこの日のイベントはラインで伝わっているわけだし、留学中とはいえ、大好きな仲間たちが先に卒業してしまうわけだから、気持ちは複雑だろう。
 しかし5名の友人たちは、ちゃんとこの留学生の言葉も寄せ書きに加えていたのだった。いい仲間たちだ。
 Jangan lupa senyum, karena senyum itu sehat !
 ほかの5名が感謝の言葉を述べてくれているのに対し、このバリ滞在中の学生の文章はこうだ。「微笑みを忘れちゃだめさ。なんたって微笑みこそ健康なんだ。」
 この言葉、どうも両替屋のどこかに書かれていた言葉を「借用」したようだが、なかなかグサッときた言葉である。まさにその通りだ。ぼくもこのことはわかっている。できるだけ微笑みを忘れないようにしている。でも最近、僕の微笑みは、表面上とりつくろっているだけじゃないのか、なんて考えてしまう。心から微笑むことができなきゃだめだ。表面的な微笑みなんてむしろ「病気」だよ。
 そこで、
 Jangan senyum atas muka, senyum dari hati itu sehat! 顔だけで微笑んだってだめだよ。心から微笑むから健康なんだ。
と読み替えることにして、今日からがんばることにする。