Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

蟻地獄

2007年05月31日 | 東京
 日曜日に玉川上水を歩いていて蟻地獄を発見した。樹齢百年以上のクヌギの大木の根元にできた乾燥した穴の中に、三つも見つけてしまったのである。だいたい蟻地獄は乾燥した場所にしか存在しない。かくれんぼで神社の床下にもぐり込んだとき、その地面に敷かれた蟻地獄のあばた模様の絨毯を見たことはないだろうか?円錐状の穴にあやまって落下した蟻は、この穴から這い出そうともがくのであるが、もがけばもがくほど上ろうとする壁面の土が崩れ、外に出ることができない。そしてそのうち穴の奥から現れたウスバカゲロウの幼虫の口に挟まれて、土の中に引きずり込まれ、蟻はその一生を終えるのである。
 なんとなく食虫植物に似ているような気がするが、実はその「トラップ」は異なっている。食虫植物は虫をその香りや味という魅力で「誘う」のであって、欲望に負けて騙された虫がその「落とし穴」にはまる。しかし蟻地獄はただ歩いていて落ちる単なる「落とし穴」である。ようするに自らは穴を掘るだけで、相手の一瞬のすきにつけこんで、食ってしまおうとする「トラップ」なのである。「ハニー・トラップ」が「本能と欲望への敗亡」であるならば、蟻地獄はいわば「拉致・監禁」である。


音工場HANEDAの「ハンス」を思う

2007年05月30日 | 東京
 沖縄に移住する少し前のこと、音工場HANEDAのガムラン講座に連れてきていた当時1歳の息子が、スタジオの奥やゴングが置かれている位置ばかりを気にしていた。「何かいる」というのである。そんなことが続いているうち、わが子以外は誰一人としてその存在を確認していなかったにもかかわらず、「超自然的存在」が潜んでいるのだという結論に達してしまった。確かにガムラン楽器のゴングには魂が宿っていると考えられているために、あながちジョークではなく真実味を帯びたのである。そしていつの間にか、その「超自然的存在」は、「ハンス」と名づけられた。しかし、いったいなぜ「ハンス」になったのだろう?ハンスといえば、まず思い出すのがヘッセ『車輪の下』の主人公である。あとは音楽関係で、ハンス・アイスラー、ハンス・フォン・ビューローぐらいか?どちらにしてみんなドイツ系である。
 ほぼ9年の月日がたって、「ハンス」の存在を記憶しているのは、たぶん私を含めて数人だけである。だいたい私の息子も「ハンス」を憶えていないのだから。ところが、先日の音工場の発表会でぼんやりゴングを眺めているうちに突然、「ハンス」のことが脳裏をよぎったのだ!天気もいいし、気持ちよくガムランも響いているし、きっと「ハンス」は大喜びだろうな。そんなことを考えているうちになぜかとても幸せな気分になった。
 10歳になった息子には、まだ「ハンス」は見えるのだろうか?それとも年を重ねていくうちに見えなっていくのかな。「ハンス」どころか、今の私には身の回りに存在するはずの多くのものがぼんやりと形を失って見えるのだ。進行の速度は、きっと心が曇る速度と同じなのだろう・・・。 

新緑

2007年05月29日 | 東京
 新緑は本当に美しい。この時期、沖縄から実家に戻るたびにいつもそう思う。玉川上水の緑道を歩きながら、何枚か写真に写すが、やはり写真にしてしまうと、その場で実感した風も音も香りも抜け落ちてしまって、妙に無味乾燥なものになってしまう。
 国分寺に住んでいた頃は、一年に一度めぐってくる季節に過ぎず、さらにはひどい花粉アレルギーに見舞われる時期とも重なって、早くこの時期が終わることを切願していたものだ。ところが、沖縄に住んだとたん、その緑のありがたみが身にしみたのである。
 亜熱帯の那覇の植生は、明らかに国分寺とは異なって年中、濃い緑に囲まれている。はじめのうちはそんな光景がインドネシアと似ていて物珍しかったが、今は何かもの足りない。沖縄だって年間の温度差は20度位あって、常夏の島ではない。それなりに季節を感じるのであるが、こと植物となると本土のような明確な変化は少ない。
 5月の連休に10歳の息子が「お父さんカメラ貸して」といって撮影したのは小金井公園の新緑だった。「葉っぱがきれだね。」と満面の笑みを浮かべる子どもは、2歳から沖縄で暮らしている。新緑の美しさをからだいっぱいで感じる息子の成長を嬉しく思うのと同時に、東京で育った私としては少し複雑な気持ちである。

音工場HANEDAガムラン発表会

2007年05月28日 | 東京
 土曜日に羽根木公園で行われたガムランスタジオ音工場HANEDAの講座生によるバリ・ガムランの発表会にゲスト(特別出演)で参加した。ゲストというと普通、一、二曲に参加するというのが普通であるが、私の場合は、演奏された曲のすべてに参加したので、講座生よりずっとたくさんの曲を演奏したことになる。
 音工場HANEDAは東京におけるジャワ、バリガムラン活動の拠点のひとつであり、今年で設立20周年を迎える。私も沖縄に赴任するまではここで週一、二回の講座でガムランを教えていたし、今でもここのグループの演奏活動に参加している。羽田空港からバスで20分程度の距離に位置することもあってか、現在もなおこのスタジオに入り浸る日々が続いている。というより、音工場が第二の故郷みたいなものである。

 さて発表会であるが、例年、世田谷の羽根木公園プレーパークの仮設野外ステージで行われ、大勢の観客がブルーシートに座って、新緑の中でガムランと舞踊を堪能する。講座生は普段、大音響の青銅製打楽器のアンサンブルを室内で演奏しているわけで、年に一度の発表会はバリのように野外でガムランを演奏できる数少ない機会なのだ。
 この発表会にほぼ毎年参加して思うのであるが、この舞台はすでに音工場の「年中儀礼」と化していて、「行わない」ということは考えられないのである。実のところ、今年は9月末に20周年のイベントを開催することから、「5月の発表会はいいんじゃない?」などという声もちらほら上がったのだが、結局は開催してしまったのであった。つまり儀礼なのだから、規模を縮小してでも行わなくければならないのである。そしてこれに参加し実践することで、音工場にかかわる人々(音工場共同体)はその絆を確認し、絆は強化されるのである。さて、この「儀礼」につきものなのが、ハレの食事である儀礼食「グリーンカレー」である。プレーパークの人たちが準備するこの儀礼食を共食することも不可欠な儀礼行為である。いつの頃からか始まったこの習慣について説明できる参加者がおらず、すでに慣習的行為と化している。もちろんハレ着であるバリの演奏者の衣装を各自が着用する。最近のバリのオダランのように同じ衣装を着用するような規則はないために、衣装は色とりどりで1980年代のオダランを彷彿させる。

 儀礼が終わるとたいていは饗宴となるのであるが、今年は久しぶりに吉祥寺の「いせや」で知人と小宴会を開いた。ほろ酔い気分で帰宅途中、私の頭の中には、バリのガムランと高田渡の《自転車にのって》が絶妙にコラボレーションをして、言い知れぬ快感に酔いしれた。

会議にのぞむ三原則

2007年05月25日 | 家・わたくしごと
 今週の午前中は、授業のあった月曜日を除き、火曜日から本日金曜日まで毎日10時から会議で、なんだか会議のために大学に行くようだ。「講義に出向く」という意の日本語に「出講」があるが、日本の大学の教員には「出勤」がぴったりである。
 ところで昨年、父が私に会議にのぞむ三原則を教示してくれたのだが、それがまことにありがたいお言葉であった。さすが父である。このお言葉によって、私は会議前にお腹がいたくなるようなことがなくなったのであった。
 会議が自分の考える方向に進まない状況の中でいかに対応すべきか、について父は以下の三つの対応を提案する。
①黙って従う。
②自分の意見を言って従う。
③説得する。
 当たり前のことなのだが、いつもは①、たまに②、ごく稀に③という態度で会議にのぞむことが肝要なのだ!さて今日の会議は?

バリ舞踊マヌッ・ラワ

2007年05月24日 | CD・DVD・カセット・レコード
 「テープが切れて使えなくなった」とかみさんが私のところに持ってきたのは、今から10数年前にバリで買ったガムラン音楽のカセットである。そりゃ、何度も聞けば壊れるはずである。とうにテープの寿命は過ぎているだろう。
 かみさんが聞いているのは舞踊曲マヌッ・ラワで、水鳥の動きを模したバリ舞踊である。1982年に創作された作品で、当時としてはバリ舞踊の伝統的な動きに加えて、西ジャワの「孔雀の踊り」や西洋のバレーの動きを取り入れ、革新的な振り付けを加えたとてつもなく新しい創作作品だった。踊り手の衣装も当時としては斬新だった。そして大作曲家ブラタ氏の手による「ノリ」のいい音楽も手伝って、バリで大ブームとなったのである。私の記憶が間違っていなければ、《走れコータロー》《泳げたいやきくん》《ダンゴ三兄弟》のヒットに匹敵するようなブームで、私が1983年の春にバリに行ったとき、どこもかしこも、この作品で溢れていた。「犬も歩けばマヌッ・ラワにあたる」状態である。
 現在、わが大学のガムラングループでもこの曲を習得中である。というか無茶苦茶時代遅れの作品を練習しているわけで、「何もナツメロをいまさらやらなくてもいいのに」とバリの友人に言われるかもしれない。でもこうして日本人が流行遅れの曲をしっかり伝承していれば、いずれ私たちが「バリで忘れさられた作品」の伝承者になっているかもしれないのだ。

合鴨

2007年05月23日 | 
 先日、古宇利島で合鴨の卵というのを10個300円で買った。店屋のおばさんに「黄身が普通の鶏より大きいから卵が重いでしょう?」といわれ、その宣伝文句にのせられ買ってしまったのである。
 ところでその合鴨であるが、いったいどんな鳥なんだろうかと考えてみると、それらしき鳥はイメージできるが、「これだ!」と自信を持って言えないのである。確かに合鴨は、回転寿司のネタにもあるし、なんとなくフランス料理にもありそうだ。しかし東京生まれの私は、カモといえば、皇居にいる「カルガモ」くらいしか思い浮かばない。でもあんなに小さい鳥が、鶏の卵より大きな卵を生むなんて信じられない。
 「合鴨農法」というのを聞いたことがある。田畑に放し飼いにすることで、土壌もよくなり害虫駆除もできるという農法だったと記憶する。となると、あのバリの田んぼで放し飼いになっていて、夕方になると長い竹の棒の先につけた白い布を親鳥だと信じて、列をなして小屋に帰っていく鳥が、「合鴨」なんだろうか?
 突然、オランダのデン・ハーグで買った本の中の一枚の風刺画を思い出した。1934年に出版されたフランス人の風刺画集で、絵のタイトルは「バリの観光」である。絵の中のバリの農民が連れて歩く「合鴨」は、ステッキを持つガイドが連れて歩く「観光客」と並べて描かれている。それだけでも十分面白いのだが、一歩踏み込んで、観光客が現地の人の「カモ」になって、高い買い物をして帰る、と考えるのはいささか不謹慎だろうか?これって日本人にしか理解できないジョークではあるけれど。

タイの徴兵制度

2007年05月22日 | 
 この春、南タイの小さな町の食堂で遅い夕食をとりながら、なにげなく店で働く中年の女性に「この町に影絵芝居の人形遣いはいますか?」と聞いてみた。すると「有名な人形遣いがいるよ。願掛け成就の儀礼にはひっぱりだこでね。特にこの町では子どもが軍に入隊しないように願掛けをするときは大抵、願いがかなったらこの人形遣いに上演を頼むんだよ」と、「おらが村」自慢のように話してくれた。
 タイの日常について勉強不足の私は、「軍隊に入らないために」という意味がすぐにはわからなかった。同行していたタイ人の説明によると、タイの徴兵は「クジ」で決まるのであり、赤を引くと入隊、黒を引くと入隊免除だそうだ。つまり両親は、「黒」を子どもが引くようにと願掛けをするのである。
 最近、読み終えた本にタイ人の小説家ラープチャルーンサップの短編集『観光』(古屋美登里訳、早川書房、2007年)があって、その中に「徴兵の日」が所収されている。この小説では徴兵のクジをテーマにし、賄賂によって「金持ち」が「黒」を引くことができるようなシステムの存在についてリアルに描いている。しかし、この話はほんとうにフィクションなんだろうか?インドネシアに長く暮した私にはあながち空想の出来事とは思えないのであるが・・・。

悲しき風鈴

2007年05月21日 | 家・わたくしごと
 風鈴の音は夏の風物詩である。やわらかい風鈴の音は、やわらかな風そのものだ。夕涼み、浴衣、団扇、麦茶(ビール)、そして軒下に釣り下がる風鈴・・・なかなか風流である。
 さて沖縄だが、基本的に本土に比べると四季が明確とはいえない。そして明らかに夏が長い。もし風鈴が夏の風物詩であるならば、一年の半分以上は軒下に架けていなくてはならない。そうなると季節と涼しさを感じるというよりは、耳障りな音具に過ぎなくなる。
 ところで現在、多くの家がクーラーを使うようになった。世界は温暖化現象で気温が上がり、夕涼みなんて風流な行為は一般的ではなくなり、大半は部屋を閉め切ってクーラーで涼をとる。となると風鈴の音なんて聞こえるわけはない。しかし、それでも風鈴を家の中にかけて、クーラーの冷気や扇風機の風で、風鈴を楽しむ人がいるらしい。こうなると風鈴はもはや、自然の風を感じる音具ではない。
 さて、我が家の風鈴だが、マンションのベランダの洗濯物干しをかけるフックに一年中吊り下げられている。こうなると四季とは無関係である。かみさんによると、この風鈴は洗濯物に糞を落とす鳥除けなんだそうである。しかし鳥の寝静まる今晩もベランダでは風鈴が悲しく鳴り響いている・・・。
 

古宇利島へドライブ

2007年05月20日 | 
 古宇利(こうり)島へドライブに行ってきた。2006年に橋が開通したことから、沖縄本島から車で行けるようになった島である。この島は今帰仁(なきじん)村にあり、那覇から沖縄自動車道の終点まで走り、そこから一般道を30分も行けば到着してしまう。那覇からならば、ちゅら海水族館のある海洋博公園に行くよりずっと近い。那覇市内のわが家からは、わずか1時間半のドライブコースである。
 一年前に開通した古宇利大橋によって島の人々はきっと便利になったのだろう。しかし一方で、この橋がこれまでの島の自然、経済、文化環境を大きく変えてしまうのではないかという懸念があるのも事実である。それまではほとんど訪れなかった観光客が、橋の開通とともにどっと押し寄せてくるわけだから。
 事実、島には公共の休憩施設や売店が新たに建てられ、今、流行のカフェがあちこちに点在する。公園では、地元の子ども達がエイサーを披露する。観光化の波はいやおなしにこの島にもおとずれているのだ。
 私たちゲストは、そうした島の状況を十分に理解することが必要だ。島の将来を担っているのは島の人々だけではなく、そこを訪れる「私たち」でもあることを忘れてはならない。