Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

1チャンネルと2チャンネルのはざまで

2007年09月29日 | 東京
 「あー疲れた」としきっぱなしになっていた布団に寝そべって、枕元に転がっているテレビのリモコンを探してスイッチを入れ、ニュース番組を探す。天気予報が見たいのである。無意識にチャンネル2を押す。サーと音が鳴って白い画面がうごめいているだけだ。ふと我に帰って普段押しなれないチャンネル1を探して押す。テレビの画面には突然、NHKが映る。そうだ、ここは私の故郷、東京だ。
 NHKは少なくても東京では1チャンネルであり、東京にいるときは「NHKにかえて」なんて言わず、「1チャンにして」と言っていた。子どもの頃は、NHKは一番古い由緒正しい放送局なのだから、「1」であると信じていた。でもなぜNHKの教育の方が「2」ではなく「3」であるのかはわからなかった。こうした私の中のNHK神話が崩れたのは、関西を知ってからである。いくらチャンネル1を押しても関西ではNHKは映らなかった。まさにカルチャー・ショックだった。
 今、私の住む沖縄ではNHKは2チャンネルと教育の方が12チャンネルである。私の息子はNHKとはそういうものだと信じている。私もだんだん沖縄のチャンネルに慣れてきた。慣れてきたのは頭であるよりも、リモコンを操作する私の左手である。もうパブロフの犬のようにNHKをつけるときには2チャンネルに親指がいくのである。
 今日、国分寺の街を歩きながらそんなことを考えているうちに、なんだか私は1チャンネルと2チャンネルのはざまをさまよっているような気がしてきた。いったい僕はどこにいるんだ?あるときは1、あるときは2、もちろん臨機応変に対応できるならばいいが、私はそれほど器用ではない。
 そんな不器用な私が今日買ったのは、私の愛するフォークシンガー、ウディ・ガスリーとレッドベリーのフォークソングの中古CDである。考えてみれば彼らも人種、階級というはざまの中をさまよい続け、決してうまく世の中を生き続けたシンガー達ではなかった。The Land is your Landとガスリーはアメリカを歌った。ぼくにとってのmy landはどこにある?



はじめてのお裁縫

2007年09月28日 | 家・わたくしごと
 息子が学校の家庭科の授業で、はじめての裁縫を経験している。小学校5年になるまでボタンの付け方一つ教えていなかった親も悪いのだが、それにしても子どもにとっては、何もかもが初めての体験であり、作品を完成させるために必死である。
 彼が最初に作ろうとしているのはブックカバーである。模様の入ったフェルトと緑色のフェルトの生地を縫い合わそうとしているのであるが、これが彼にはホームワークを数十頁こなすに匹敵する大作業なのだ。実際、授業でやってきたのであるが、その結果は「あまりにも」ひどく、どうひいき目にみても褒めることができない作品であり、両親は彼にほどいて最初からやりなおすことを勧めたのである。こういうときは、大喧嘩になることが想定されるのだが、しかし、彼自身もその成果に満足できていなかったようで、かくして家で最初からこの作業が行われることになったのであった。
 しかし息子は忙しいのである。夜は私以上に忙しい。塾、ガムラン、英語、テニスと習い事を終え、10時過ぎからこの裁縫にとりかかるのであるから。「母さんは夜なべをして、手袋編んでくれた・・・」という「裁縫=夜作業」を正当化した歌詞があるが、わが子の場合も同様である。まず夜は電気があっても暗いので、針に糸が入らない。
「お母さん、針に糸が入らない」
「夜だと暗くて、お母さんも入れられないでしょう」とまず怒られる。
やっているうちに母親が作業を見ては、
「そうじゃないでしょう!ここは、こうやって・・・」というと
「わかってるよ!」と言い返す息子。ところが,
「お母さん、玉止めがぬけちゃった。どうしよう。」と情けない声を出すと
「お母さんは他の仕事をしているから待ってなさい。」と怒られる。
 本人は必死なのであるが、母親と息子の掛け合い漫才を見ているようで、傍観している私は結構、その会話を楽しんでいる。
 さて、やっとのことで、二箇所のステッチが数日かけて終わったのだが、私の目にも一本目よりも二本目の方が明らかに上達しているように見える。さて、本日は息子の小学校の前期終業式なのだが、家庭科の授業があってこのブックカバーを完成させるという。たぶん、今日、学校で作業した部分も家でやりなおしになるんだろうな。ちなみに息子は、私にこういっている。
「このブック・カバー、お父さんの本棚にあった村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の大きさに合わせて作ったんだよ。」
 ということは完成品はもらえるのだろうか?


新しいお土産

2007年09月28日 | バリ
 バリのお土産は常に進化している。20年前には、木彫、銀製品、ちょっとした布製品はあったが、今のクタ、ルギャン、ウブドなどに点在するおしゃれなブティックはなかった。だいたいどのお土産屋も同じようなものを売っていて、その値段の違いを確認してから買い物をしていた。しかし今では、特定の店にしかないもの、一点もののお土産が激増し、観光ガイドにはそんなショップがあふれている。私はその手の店には興味がないのでほとんど入ることはないが、入らなくてもバイクで走りながら新たなお土産の一つ、二つを発見することはできる。
 今年発見した新しいおみやげは、小型のルロンタックである。ルロンタックとは、長い竹竿につけられた色とりどりの旗で、寺院の儀礼などで飾られるものは7,8メールにもなる。それが年々、観光客向けに短く作られるようになってきたのは気づいていたのだが、とうとう1メールほどの超小型のルロンタックがお土産物として登場した。これが登場する5年ほど前、パユンとよばれる、やはり儀礼に使われる装飾された傘も小型化してお土産化した。ちなみにパユンの方は以前かみさんが買ってきた。
 それにしても儀礼に使うものを次々におみやげ化していくなど、バリ人はなかなかしたたかである。次はどんなものがみやげ物になるだろう? 高僧プダンダの格好をしたバリ猫、聖水グッズ(マントラ本付き)、魔女ランダ饅頭と聖獣バロン煎餅セット・・・。毎回行くたびに新たにお目見えする土産物発見に心が躍る。



バリのBONSAI

2007年09月27日 | バリ
 日本の文化である盆栽は、今や日本だけのものではない。20世紀末から世界に広く知られるようになり、英語でも、インドネシア語でもBONSAIである。さて、そのBONSAIだが、9月にバリ島サヌールのグランド・バリビーチ・ホテルの前の海岸で盆栽展示会が開かれた。
 私がたまたま通りかかったのはまだ朝8時過ぎだったが、大きなテントがいくつも並び、多くの見学者が一つ一つの鉢を食い入るように見ている。日本で盆栽市や展示会などには行ったこともなく、日本人がどのようにこれらを眺めるのか見当もつかないが、やはりマニアにとってはその樹形をじっくり楽しむのであろう。
 さてインドネシアのBONSAIであるが、とにかく「でかい」のである。日本の盆栽にはたぶん「わび」「さび」の世界が詰まっているのだと思うが、インドネシアのBONSAIにはそのような「日本の美学」は全く感じられない。さらに大きいだけでなく、赤や黄色の花をたくさんつけて、パッと明るいのである。しかし、その枝ぶりや幹の形などは相当にこっているように見える。ものによっては、展示会にもかかわらず、枝や幹には針金がぐるぐる巻いてある。こういうものは、展示会でははずすのが一般的であるような気がする。盆栽の作り手が私に声をかけてきた。
盆栽を作った男「君は日本人か?」
わたし「はいそうです。」
盆栽を作った男「わしの作品をどう思う?」
わたし「すごく派手ですね。」
盆栽を作った男「形はどうだ?」
わたし「日本にはない独特なものです」
盆栽を作った男(嬉しそうに)「ありがとう。」
 私は別に褒めたわけではないのだが、彼は日本人の私の意見が聞けたことが嬉しかったらしい。私はただ単に日本人であるに過ぎず、盆栽のことなんてこれっぽっちもわからないのだが。
 ところでサヌールにはBONSAI CAFÉなるカフェ・レストランがある。ちなみに店の周りはBONSAIだらけであり、コーヒーを飲みながら美しいBONSAIをじっくり鑑賞できる。もっともBONSAIであり、盆栽でないことを付け加えておこう。


不思議な店「モロダディ」

2007年09月26日 | バリ
 写真に写った店「モロダディ」は、デンパサール市街のハサヌディン通りのバドゥン川にかかる橋を渡ってすぐ左に曲がる路地の奥にある。看板には何を扱っているか小さく書かれているが、店を外から見る限りは、文房具とスポーツ用品を売っているようにしか見えないのである。しかし二階に上がるとマニアックな本屋なのだ。
 この店、実はバリの宗教関係の書物をかなり並べている。たぶんバリでもっともこの種の本の種類の多い本屋の一つではないだろうか?なぜか店屋は薄暗く、いつ行っても客は一人いるか、いないかである。
 私がこの店の存在を知ったのは、私と同時期にフィールドワークに来ていた人類学者からだった。誰かに教えてもらわなければ絶対にわからない店である。それにしても本屋を全く主張していない店構えは、実のところ、私が留学していた86年から全く変わっていない。ふと、この店の本業は1階で、2階の本屋は道楽なのだろうかと思ってしまうほどだ。
 古い店が次々と姿を消していく中、モロダディもいずれなくなってしまうのではないかという不安にかられ、私は用の有無に関わらず、毎年、この店に足を運んでしまう。そして訪れるたびにこの店が今もあり続けていることを確認して安堵するのである。もちろん今年も、「モロダディ」は昔のままで、あいかわらず午後1時の店内は数本の蛍光灯がついているだけで薄暗く、店員はレジの床にゴザを引いて供物を作っていたのであった。そういうなにげない風景に遭遇すると、ここに来てよかったといつも思う。

ウブドでバリ舞踊をみる

2007年09月25日 | バリ
 「7時から始まるから、いい席に座りたければ早く来た方がいいね。この時期、観光客が多いからね。くれぐれも早く来ることだよ。」
 久しぶりにウブドの王宮で観光用に上演されるバリ舞踊を見るために、路上でチケットを販売しているお兄さんからチケットを買うと、くどいほど「早く来い」と言われる。確かに8月から9月のウブドにはまだ観光客を多く見かけるが、いつ行っても観光客がわんさといる気もする。
 夕食をとって、いわれた通り30分前に会場となるウブドの王宮に行ってみると、今日は王宮の儀礼の準備があるし、雨も降りそうだから会場は隣の集会場だという。空を仰ぐと、雲ひとつない夜である。しかし「儀礼があるので」という言葉は、水戸黄門の印籠に匹敵するのがバリである。「さっきは王宮であるっていったやろ!」なんて激昂しても自分が哀れになるだけなので、言われた通り集会場に向かったのだった。
 ところがである。まだ開演まで半時もあるというのに観客席はほぼ満席ではないか?なんて観光客は気が早いのだろう?この調子では1時間以上も前に来て席をとっているに違いないのだ。しかも席の並べ方が全く最低である。舞台は1メートルくらいの高さのところにあるのだが、狭い集会場には後ろまでイスが並べられているだけで、客席には全く段差がない。ということは後ろの客にとっては、前の客の頭でひじょうに舞台が見にくくなるわけである。王宮で上演する場合は、前方は桟敷になっているし、屋敷の中には少し高くなっている場所もあるため、観客にとってはそのバリ的な雰囲気も手伝ってか、ひじょうに気持ちよく鑑賞できるのだ。
 80,000ルピア(約1,000円)も払って見ようとしているのに、まるで観光客の頭を見に来たようなものである。後ろの席は半額にしてもらいたいものだ。さらに頭にきたのは、前方にはやたらと座高の高い西洋人が座っていることである。君たちの「頭」を見に来たわけではないのだ!しかし、どうしようもない。私は「早く来い」といわれたにも関わらず、他の観光客よりも「早く」は来なかったのだし、ガタガタ文句を言ったところで、どうにもなるものではない。インドネシアでは文句を言って成就する場合と、成就しない場合の見極めが大切なのだ。
 「チェッ、やられたぜ」なんてふてくされながらも、あきらめて、シルエット状の観光客の頭と、明るい舞台で繰り広げられるバリ舞踊をカメラ片手に鑑賞したのだった。すると終演30分前、会場はとんでもない豪雨に襲われた。屋根に当たる雨音は、ガムランの金属音を消し去ってしまうほどの大きさである。
 それにしてもバリの村に住む人々の天気予測は正確である。私が調査する村でも、ちょっとした気圧や風向き、強さを感じとって、「雨が降るから」と庭に干してあったクローブの実をあっという間に片付けると、その10分後には本当に雨が落ちてくる。天気予測はすべて彼らの五感でおこなわれるのだ。ちなみに私にはなぜこんな天気がいいのに片付けが始まるのかたいていの場合は理解不能である。
 この雨にあたって頭からびしょ濡れになってデンパサールに帰ることになったら・・・と思うと、席の場所や、前に座る西洋人のことなんてどうでもよくなってしまった。なんだか、踊りに感激するよりも、バリの人々の天気予測に感心した芸能鑑賞だった。ところで、撮影した写真の大半には、はっきりシルエットになった前方の観客の輪郭が映っている。これもいい記念である。


なぜサヌールのビーチは美しい?

2007年09月24日 | バリ
 バリ島にはサヌールという海浜リゾート地がある。といっても日本の団体観光客の大半は、ヌサドゥア、クタの二つのやはり海沿いのリゾート地へ宿泊することが多く、サヌールには日本人は少ない。車もあまり通らず、長期滞在をするオーストラリアやヨーロッパからやってくる観光客がのんびりと一日を過ごしている。私はこの静かで、少し寂れたリゾート地が大好きである。
 このサヌールの海岸には、海岸沿いに遊歩道が作られていて、サヌール海岸の北から南まで歩くことができる。日の出の頃、東に広がる海は真っ赤に染まり、涼しい海風が吹くこともあって、この遊歩道は、早朝からたくさんの健康志向のバリの人々が集まるウォーキングスポットとしても有名である。高血圧の私も運動不足解消に今回の滞在中、この海岸通りを早朝に何度か歩いた。
 歩きながら思うことだが、サヌールの海岸はとても美しい。観光パンフレットのチラシや広告に出てくるような場所にたびたび遭遇する。しかし、この海岸は自然に作られたわけではない。正直のところ、人工海岸と言っても過言ではない。やっと太陽の光が少し地平から顔を見せる時間、サヌールの海岸には、お揃いの服を着た清掃員が集まり、海からの漂流物や海岸に捨てられたゴミを回収し、あるものは海岸に掘った大きな穴に廃棄され、あるものは車で運ばれていく。暗い海岸にはほとんど人がいないためにこの作業を目にする人は少ない。つまりは涼しく、誰も見ていない時間に作業をするのである。同じ頃、ホテルのプライベートの整備が始まる。まだホテルの宿泊客がぐっすり眠っている頃である。ホテルの従業員はゴミを一つ残らず拾い、さらに風紋のような筋をつけていく。
 多くのバリの人々が遊歩道を歩き出す頃、海岸では作業員たちが大きな樹の日陰で輪になって談笑している。「朝からおしゃべりしてバリ人は働らかないなあ」なんて思ってはいけない。すでに彼らがすっかり作業を終えた時間なのだ。サヌールのビーチは、そうした人々の日々の努力で美しくあり続けている。


ドリアンから生まれた車

2007年09月23日 | バリ
 日本で果物の中から誕生したといえば、桃太郎である。桃が二つにパカっと割れると、中からかわいい男の子が生まれた話は日本昔話の定番でたいていの日本人ならば知っている。
 さて、私は先日、バリの官庁街をバイクでぶっ飛ばしていたときに、とんでもないオブジェを見つけたのであった。それは「果物の女王」と呼ばれるドリアンの中から生まれた車をイメージした大きなオブジェである。たぶんこれは車の宣伝なのだろう。果物の女王というくらいなのだから、そこから生まれた車もそんな気品ある高貴な香りを漂わしているのであろう。
 しかし、実際のところ、私はドリアンという果物をたった一口すら食べることができない。だいたい人は、ドリアンをものすごく好きなタイプと絶対に食べないタイプに二分できる。なんだかその中間タイプというのはいない気がする。私はその匂いで完璧にアウトである。好きな人には「女王の香しき香り」なのかもしれないが、私には「肥溜め」「たい肥」など、どれも「臭さ」と結びつく印象ばかりである。一度、ジャワに行くとき、夜行バスに熟れたドリアンを載せたインドネシア人がいて、私は一晩中、その匂いで吐く寸前に追い込まれたことがある。ちなみにインドネシアの国内線は、確かドリアンの機内持ち込みは禁止である。
 この官庁街のオブジェの横を通るたびにいつも思うのだが、私は決してこの車を買わないだろう。だいたい近寄るのも嫌だし、きっと車中にあの匂いがこびりついて、どんな車の香水を使ったところで消えるはずがないからだ。日本人なんかに買ってもらうための宣伝じゃないから「どうぞご自由に」とでも言われるだろうが、私のバリ人の知り合いの数人もドリアンが何よりも嫌いである。ということは、必ずインドネシア人にもこのオブジェがマイナスイメージとして受け取られているはずなのだ!


バリの朝食

2007年09月22日 | バリ
 バリでは、村にいる時以外は、朝食だけは部屋で食べる。もちろん、ちょっと外に出れば屋台で2000ルピア程度(約25円)の朝食はとれるのだが、あえて部屋で一人朝食を楽しむのである。私の朝食には必ず以下の三点が必要になる。
 私の朝食は基本的にパンである。ということで、まず食パンである。これは日本のものと、その形状や味はほとんど変わらないが、スーパーで一番安いパン(1斤、約45円)を買うと、冷蔵庫に入れておかなくてもたいてい暑いバリでもかなりの間、カビが生えないという特徴を持っている。どうしてだろう?
 次にマーガリンである。私はこのブランドを「Blue Band」と決めている。この銘柄は私が留学した80年代にはすでにあり、冷蔵庫が一般的ではない時代を想定した製品であるため、冷蔵庫にいれるとカチカチになって温まるまでまったく利用価値がない。しかも日本のマーガリンと違って妙に黄色で、更に不思議な味である。炒め物、パンのお供など、さまざまな用途に利用できると書いてある。いったい何から作られているのか不思議だが、あまり深く追求しないことにしている。
 最後に、チョコの粒。これは日本ではケーキやドーナツなどに振りかける顆粒状のチョコである。私は1983年に最初にバリに行ったとき、よくデンパサールの宿の朝食に、パンにマーガリンを塗り、この顆粒状のチョコをかけて、パンをサンドするチョコ・マーガリンサンドが出されたが、それ以来、現在にいたるまで私はこの朝食に、はまり続けている。日本には顆粒状のチョコが、ケーキの素材としてしか売られていないため、インドネシアに行くたびにたくさん買って、家にストックしているのである。
 ところで、今から3年前に私は長期、オランダで生活したのだが、そのとき私の朝食が実はオランダ人の朝食であることを始めて知ったのだ。オランダでは、このチョコの顆粒のことをハーゲルスラグ(「チョコのあられ」とでも訳するのがいいか?)といい、ちゃんとスーパーに行くとジャムと隣り合わせに並べられている。もちろん、大きなスーパーに行けば、10種類くらいのハーゲルスラグが売られている。そのおかげで、私はオランダで、おいしいパンとマーガリン、そして口の中で甘くとろけるハーゲルスラグのおかげで、毎日すがすがしい朝をむかえることができたのだった。ちなみにオランダのホテルに泊まると、朝食には一食分をパッケージしたハーゲルスラグが必ず用意されている。
 私のバリの朝食は、ようするにオランダ人の朝食だったものが、植民地支配を経て、インドネシア人に伝わったものだ。なんと私の朝食はヨーロピアンなのであろうか!
 さてこのチョコの顆粒であるが、当然のことながら、オランダのものと、インドネシアのものは天と地ほど味に違いがある。なんといってもオランダの隣はベルギーである。チョコは旨いにきまっているのだ。インドネシアのものはというと・・・、まあ、読者の方々も次に行くときはお試しあれ。ちなみに私はこのインドネシア製のチープなチョコ味もまた好きである。


手を振られたら・・・

2007年09月21日 | 那覇、沖縄
 今日の沖縄は不思議な天気。青い空がのぞいて、真夏の太陽の日差しが大地いっぱいに差し込んだかと思うと、突然、ものすごい豪雨。なんだかその繰り返しで一日が過ぎていく。バイクが足の私は、午前中、総合病院の入り口の横に置かれたベンチで、横殴りの大雨が、南国の木々の青々と茂った葉を打ち付ける音を聞きながら、ぼんやりと雨の止むのを待っていた。私のすぐ隣には、入院用のパジャマを着た初老の男性が、私と同じようにそんな風景を眺めている。
 雨の中、次々に車が病院の玄関の前に寄せては、同乗者を降ろしてすぐに立ち去っていく。たぶん、多くはこの病院に来る患者で、運転しているのは家族なのだろう。振り返って運転してくれた人に一言二言、何かを言う人もあれば、振り返りもせずに、ただ黙って玄関に消えていく人もいる。何台目かの車に、中年の夫婦らしき二人が乗った濃紺のセダンがすっと玄関前に停車した。運転手は男性の方で、おりる女性に微笑みながら軽く手を振った。女性は半身だけ振り返ると、ほんの一瞬だけ、相手にだけ見えるように腰のあたりで小さく手を振った。あっという間に車は、玄関から駆け出していく。
 「手を振る」、「振り返す」なんてありきたりの風景なのかもしれない。しかし私は、中年の男性が、中年の女性に手を振る光景というのをあまり目にしたことがない。たいがい「さよなら」とか「おーい」と手を振るのは子供か、若者である。年をとるにつれて、手を振ることからだんだん遠ざかっていくのだ。そんな身振りは「子ども」がするものだと思うからだろうか?
 私はたまに大学の構内を歩いていると、学生に手を振られることがある。挨拶というのは、映画の一シーンのように、通りすがりに軽く一礼するくらいが大学らしくていいと個人的には思うのだが、とてつもなく元気な学生に「せんせー」と叫ばれ、遠くから手なんか振られると、想定外の挨拶にどのように対応していいかわからなくなってしまう。最初のうちは、赤面してしまうほどだったが、そのうち、笑顔で手を振り返すことを覚えた。
 かみさんは、私がバイクで出勤するとき、マンションの三階のベランダから、駐車場を出る私を見て手を振る。さて、振り返ると小刻みに手をふっている彼女を見て、私はどうしていいか悩んでしまった。はじめのうちは、ただ振り返るだけだったが、そのうち、聞こえるはずもないのに、「じゃあね」と言って、片手運転で大きく手を振ることを覚えた。
 手を振られたら・・・当たり前のことかもしれないが、微笑んで手を振り返せばいい。それが言葉を必要としないコミュニケーション。挨拶されたら、挨拶することと同じことなのに、どうしてそんなことを大人になるとできなくなってしまうのだろう。大きく手を振り返さなくたっていい。恥ずかしくて大きな声を出せない挨拶があるように、そんな時は、そっと隠れるように手を振ればいい。今日の朝、私が見た光景のように。
 そんなことをぼんやり考えていて、ふと我にかえると、もう真っ青な空が広がっている。