Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

浅草で見つけたレコード店

2007年11月30日 | 東京
 ものすごい数の演歌歌手のプロモーション用のポスターが貼られる店頭。店屋の前を通り過ぎる者は、その異様さにおもわず立ち止まる。外観の印象的な店である。もう外側の様相だけでもこの店に扱われているCDのジャンルがわかるというものだ。
 店屋に入ると長唄がかかっている。はやりのJポップやアメリカンポップがBGMに流れる普通のCD屋とは明らかに一線を画している。店屋に入ると、まず目につくのは膨大ミュージック・カセット。若い世代はこんなメディアを知らないかもしれないが、演歌の世界ではまだミュージックテープは普通に流通しているのだ。次に目に入ったのは、売れ残りなのか、中古なのかわからない演歌のEP盤やLP盤のレコード。それ以外には、わずかに日本のポピュラー音楽、それもフォークなどのマニアックなCDばかりである。この規模で佐渡山豊のベスト盤のCDが並んでいる店など他にあるだろうか?そして最後にみた壁一面には、日本の伝統音楽、そして落語である。
 浅草にはこんなレコード屋(これは明らかにCDショップとはいえない)がまだ存在しているのである。浅草を愛する者には、演歌、日本の伝統音楽、伝統芸能の愛好者がきっと多いということだ。この手の店を渋谷や原宿に作ったところで採算はとれないに違いない。ちなみに、銀座の歌舞伎座の並びにも、大阪の通天閣歌謡劇場のそばにもこの手の店が一軒ずつあったはずだ。浅草にもいわずと知れた浅草演芸ホールがある。レトロな場所には、レトロな音楽や芸能の愛好家が集うということか?


日の丸がたくさん

2007年11月29日 | 東京
 11月23日、インドの操り人形を見るため、浅草の「金のうんこ」が眩しいアサヒスクエアに出かけた。少し早く着いたので、久しぶりに秋晴れの青空のもと、浅草寺や六区の付近をブラブラと散歩することにした。銀座線の浅草駅に着いてわかったのだが、この日は浅草酉の市。そのせいなのか、それとも連休だからか、ものすごい人である。改札口を出てから浅草寺の山門までも、人ごみでなかなか進まない。ちょっと横道からという手もあるのだが、やはり神社に行くと思うと、チョロチョロっと横道から、仲見世の途中に出るなんていう小ざかしい真似はできないのである。
 さて、「山門を入って仲見世に突入」と思いきや、それどころではない。もう前に進むのもたいへんである。流れの中心に入ったら最後、絶対に店屋を見ることは不可能である。外国人観光客も、この人には呆れ顔である。泣き叫ぶ子ども、ちょっとぶつかっただけで睨みつける「おっさん」や「姉ちゃん」、こんな大混雑にもかかわらず手をつないでべたべた歩くカップル・・・。ここは神聖な参道や!
 とまあ、いらいらしながら歩くうちに気が付いたのは日の丸である。仲見世商店街のほとんどの店からは、参道に向かって日の丸が立てられているのだ。これは何の意味があるのだろう?と考えはじめたとたん、混雑なんて全く気にならなくなった。思想的なものなのか、それとも外国人を喜ばすための仕掛けなのか、あるいは勤労感謝の日だからか?それにしても、観光地にこれだけ日の丸が並ぶと圧巻である。近年は「日の丸、君が代問題」が世間を騒がしているが、さて、ここはそうした見地から見るといったいどうなるんだ?しかし、そんな問題を全く感じさせない浅草仲見世はやっぱり偉大である。

実像と虚像

2007年11月28日 | 東京
 この風景を見つめながら、ふとこれは自分自身かもしれないと思った。ちょうど中心から左右に半分ずつ、左右対称に二つの像が存在する。ビルの建物とその影は、どちらもその真正性を帯びて、自己主張をしているかのようだ。しかし、それは所詮、実像と虚像にすぎない。
 右側の私が笑うと、左側の私はそれを見てはにかむ。左側の私が手をあげそうになると、右側の私は、フンと言わんばかりにせせら笑う。馬鹿馬鹿しくなって私のあらゆる怒りが大きなため息とともに吐き出される。しかし、どちらが実像でどちらが虚像なのか?私の中の実像と虚像もまた自己主張を始める。いや待てよ・・・どちらも虚像なのかもしれないぞ。そして私の今まで知らない場所に、ひっそりと誰にも知られず実像は存在しているのかもしれない。結局、人生とはそれを見つけるための旅なのだろうか?

街路樹の電飾化粧

2007年11月27日 | 東京
  クリスマスが近くなると、東京の街々ではこぞって街路樹の電飾化粧が始まる。こんな化粧が始まったのはいつ頃かあまり記憶はないが、子どもの頃の電飾は、自分の家のクリスマスツリーくらいで、街にはこんな飾りはなかったと思う。こんなクリスマスの装いを、昔はとても楽しみにした。どの街も年々、電飾の規模がエスカレートしていったし、つい何年か前まで、東京駅前には「ミレナリオ」という電飾の町並みが作られ、それを見るためには、新年の明治神宮のような混雑を味わわなければならなかった。それでも、一度はそんな景色を見に行った。        
 今から9年前、沖縄に来た年のクリスマス前、東京のような華やかな電飾化粧がされていない那覇中心部がとてもさびれて寂しく感じた。それでも、明るい町並みやわずかな電飾が感じたくて、わざわざ夜遅く、国際通りを車でドライブしたりした。お土産屋ばかりの明るさ、生暖かい冬のわずかな電飾でも、ないよりはましだと思った。
 先週、渋谷の道玄坂で、毎年変わらぬ街路樹の電飾化粧に出会う。渋谷の坂の中で一番大きな木が茂る道玄坂は、私が大好きな場所である。父の実家が渋谷のこの方面にあったこと、中学、高校時代は、古本屋やYAMAHAがあったことでよくこの坂を訪れた。確かに木が大きい分、渋谷の他の坂に比べると電飾は派手である。しかし最近思うのだ。どこもかしこも電飾で化粧されるようになった今、思い切って何にもしない街路樹があってもいいのではないだろうかと。その坂だけがアンチ・クリスマスの反逆坂に見えたりするのかもしれないが、大体、電飾なんかなくても、ビルのネオン、坂道沿いに並ぶショップの明かり、通行する車のライトだけで十分明るいのに、なんでここまで街路樹を電飾しなければならないのだろうか?暗いから光が必要なのだ。明るいのなら、必要なのは「暗さ」ではないか?


消えたマイアミ

2007年11月26日 | 東京
 マイアミといえば、フロリダ州のマイアミではなく、松田聖子の《マイアミ午前五時》のことでもなく、言わずと知れた橙色の看板が目印の純喫茶の名称である。ルノワール、談話室「滝沢」と並んで、私の中では三大「純喫茶」だった。携帯がない時代、「マイアミで何時」といえば、六本木でも渋谷でも、たいてい待ち合わせで会えないことはなかった。決して旨いとはいえないコーヒー、ドアを入るとタバコの煙で白く曇った店内。当時吸っていたインドネシアのタバコの銘柄グダン・ガラムの丁子の香りとマイアミの落ち着きのない不思議な空間・・・それは私にとっての80年代、90年代そのものである。
 沖縄に行ってから、とんと東京の純喫茶などという場所とも縁がなくなった。だいたいバブル崩壊後、「カフェ」なる新たな飲食店形態が日本中に林立した上、「ドトール」、「スタバ」などという洒落たコーヒーチェーン店もできて、そのせいか、薄暗くて、タバコ臭く、待ち合わせと時間潰しに使われる喫茶店に注がれる日本人のまなざしが、多少とも冷たくなった気がする。
 そんな時代のせいなのだろうか、ふと気づくと渋谷のマイアミが消えて、妙に明るい雰囲気のパスタとピザ屋「マイアミ・ガーデン」に装いを新たにしている。流行の「カフェ」を思わせる雰囲気だ。もうマイアミは時代の役割を終えたのだろうか?そんなことを思いながら、よく看板を見てみると・・・「旧喫茶マイアミ」としっかり書かれているではないか!
 やはりマイアミは歴史的、伝説的純喫茶なのだ。まるで時限付きモニュメントのように、かつて賑わいをみせていたマイアミの存在が、ちゃんと看板にまで記されているのだから。嬉しくもあり、悲しくもあり。まあ40代半ばの「おじさん」の戯言ですから。


小さい秋、大きい秋

2007年11月25日 | 東京
 久しぶりに戻った実家で目を覚ますと、父に「庭のもみじの鉢植えがきれいに紅葉しているからみてごらん」といわれる。パジャマ姿で庭に出てみると、確かに太陽の光に照らされているせいか、もみじの葉は赤く染まって輝いているように見える。「庭の中の小さい秋だろう?」と父が言う。
 《小さい秋》という童謡がある。小さい秋、小さい秋、小さい秋、見つけた・・・という歌詞ではじまる歌で、秋を歌ったからだけでなく、短調のせいか、ものすごく寂しく聞こえる曲である。1ヶ月ほど前だろうか、子どもが部屋で歌っていたので、今でも学校で教えることがあるのだろう。この歌に歌われる「小さい秋」は、夏から秋に変わりゆく季節の移ろいの中で、秋らしい現象を見出すという、いわば「秋現象の発見」を物語っている。
 父のもみじは、確かに植木としては「小さい」。つまり体積(面積)からすれば、どこもかしこも秋一色の現在、鉢植えのもみじなどは、微々たるものである。それに、もみじの紅葉なんて、みようと思えば、100メートル歩いた玉川上水でも見ることができるのだ。しかし「小さい」、「大きい」は量の問題ではない。父にとって丹精こめて育てた庭の植物の秋は、父にとっての「大きな秋」である。どんな美しい秋の風景よりも、父の気持ちや心の中では、庭の秋こそが、大きな意味を持つ。
 そんなことを考えながらもみじの葉をじっくり眺めてみる。よく見ると、結構、枯れているではないか?言わなくてもいいのに、私は余計なことを言う。
「お父さん、もみじ、遠くから見るときれいだけど、近くで見ると結構枯れてるじゃない?」
と、父はこう切り替えした。
「きれいな時に東京に帰らないお前が悪い。」
 確かにそうである。父にとっての「大きな秋」にケチをつけるなどもってのほかである。


電車で携帯を落としたら

2007年11月24日 | 東京
 落し物としての携帯は相当な数にのぼるらしい。簡単に持ち運びできるほど小さいわけだから、もちろん落とす可能性は高い。私のようにほとんど携帯とは無縁で、電話番号だって20人程度しか「電話帳」に入っておらず、さらには5,6年前の年代物の携帯を使っていれば、たとえ落としてもダメージは少ないが、今や多くの日本人にとって携帯は命綱のような存在になりつつある世の中である。落としたら、それは大事件、というより明日からどうすればいいのか、途方に暮れてしまう人だっているだろう。
 昨日、東京で打ち合わせをしている最中、知人が携帯のないことに気づいた。その後、数人であちこちを探したが見当たらない。とりあえず電話を止めてもらい、「もしかしたら」という期待からJRに問い合わせたのである。すると・・・なんと見つかったのだ。落とした自分の電話番号さえわかれば、ちゃんとわかるようなシステムが出来上がっているのである。拾得物とした預かった駅員は、その携帯の電話番号を調べてセンターに登録するのである。センターは問いあわせがあれば、その保管駅をすぐさま調べるのだ。ネットでも調べることができるらしい。
 すごいではないか!まあ、それだけ携帯を落とす人がいるからシステムが出来上がったのだろうが、それにしても、さすが日本である。もしもJRで携帯を落とすことがあっても駅員に届いていさえすれば落とした携帯は自分の手元に戻るのだ。JR東日本、なかなかやるな。(たぶん全国のJRのほか、私鉄だって同様なシステムがあると思うのだが、実証していないので・・・)
 ところで、携帯を落とした知人が、その所在がわかった後、「落し物の携帯が置かれた部屋っていうのは、もう携帯がなり続けてすごい音なんですかね」と言う。そんなわけないでしょ。電源切っているに決まっているじゃないですか!


冷蔵庫の中

2007年11月23日 | 東京
 昨日の沖縄の午後は、長袖シャツを肘までまくって、研究室の窓をあけて仕事をしていたほどの陽気でした。ポカポカというほどではありませんが、晩秋というほどの肌寒さでもなかったのです。でも学生たちは重ね着をしたり、マフラーをしたり、毛糸の帽子をかぶったり・・・。少し暑苦しいようですが、沖縄もおしゃれができる季節に入りました。
 最終日のJTA58便で、東京に来ました。JTAはジャパン・トランス・オーシャン航空の略。沖縄の離島と本島を結ぶエアーラインで、以前は南西航空と呼ばれていたそうです。今はJALグループのひとつで、東京、大阪、小松などにも飛んでいます。小さい飛行機ですが、なんとなく機内はまだ沖縄です。客室乗務員の一人、二人は沖縄顔だし。
 羽田に到着したのは夜11時すぎ。ドアがあいて機内から出た瞬間、前を歩いていた小学生らしき子どもが母親に大きな声でさけびました。
 「お母さん、冷蔵庫に入ったみたいだよ!」
 そうです。その通り。まさに南国の扉を開けたら、そこは冷蔵庫なのです。それもとてつもなく広い冷蔵庫。
 私はこれから二日間、この冷蔵庫の中で暮らします。写真は冷蔵庫の中に存在する「品川駅」。カチカチに凍りついたアイスのようにも見えます。明日はどんな景色が待っているかな?二日後には、ちゃんと冷蔵庫のドアがあいて、また南の国に戻れますように。中から冷蔵庫のドアは開けられないらしいので。

「笑い」は耳から

2007年11月22日 | 家・わたくしごと
 この4,5年、バリではワヤン・チェン・ブロンとよばれる新しいワヤン(影絵人形芝居)が人気を博している。とにかくワヤンといえば、チェン・ブロン。老若男女は皆、チェン・ブロンの大ファンといった様相を呈しているのだ。バリの新聞に掲載されたこのワヤンの人形遣いのインタヴュー記事を昨晩読んでいると、気になる部分に出会う。
「私のワヤンは面白さを前面に出しています。伝統的ワヤンでは、演目から、観客は、文学や哲学を学んできましたが、文学も哲学もワヤンから学ばなくたって本で読めばいい。だけど「笑い」は本で読んでも面白くないでしょう?聞くから面白いのです。だから、私のワヤンは、文学や哲学よりも「笑い」を重視するんです。」
 なるほど、だから面白いはずである。そして、それまでのワヤンの常識を覆し、文学的要素や哲学的な要素を排除してしまったわけだ。なるほど納得である。もちろん、これまで培われてきたワヤンの伝統が、このワヤンの存在によって揺るがされていることは否定できないが。
 そんなことを考えてパソコンの前に座っていると息子が寝る直前ニコニコしながら、私の所になってきて こんなことを言う。
「お父さん。今、学校で流行ってるんだけど・・・。ぼくの言うこと、繰り返して言ってくれる?」
 そういって、犬、猫、チョコボール、ヤンバルクイナ・・・などなど、一つずつ単語を言われて、私は仕方なくそれを単語ごとに繰り返した。最後に息子はこういった。
「この中で、ふつう食べられるものどれ?」
 私は考えてこう答えた。
「チョコボール!」実に簡単な問題である。ところが息子はこういった。
「ぼくの言ったことを繰り返し言わなきゃいけないんだよ!引っかかった!」
私は彼の罠にまんまとひっかかったわけだ。しかし、このくだらなくも、面白い言葉のやりとりは、確かにワヤン・チェン・ブロンの人形遣いが言うように、こんな風に文字にしてしまったら、あまりにもそっけないものだ。笑いはやはり時間芸術のように、笑った瞬間、さらりと消えていくのが「粋」である。 


次世代を育てる

2007年11月21日 | 大学
 このところガムラン・グループは舞台が続いて、新人をしっかり育成できないことにメンバーの多くは頭を抱えていた。ガムランに興味があってスタジオに勇気をふるって一人でやってきた人に、丁寧に教えることができなければ、「誰も相手をしてくれない」ということで、二度と来なくなってしまう可能性があるからである。そんな理由から11月10日の海洋博公園での演奏が終わったのを機に、顧問の私はメンバーに新人育成の日を設けて「初級者コース」を開催することを提案したのだった。教えるのはメンバーが「廻りもち」で行えば、さほど負担にもなるまい。
 もちろんメンバーの同意を得て、「さあ、一回目は誰が教える?」という話になったとき、「やっぱり言い出したのは先生だし、先生からじゃない?」ということになってしまったのであった。私はガムランを教えるのが好きである。さらに原稿の締切りが間近に迫っているときなどは、まさに現実逃避、頭の切替、ストレス解消には最高の環境であるため、進んで引き受けたのであった。
 第一回目は昨日、6時半から始まることになっていて、30分も前にスタジオに入り、楽器の準備やら、片付けなどを一人で行う。まるで開店初日のレストランのマスターのようである。準備万端で希望者を待ち始める。来ない・・・誰も来ない。不安になり始める。スタジオで落ち着いて座っていることができなくて、外と中を行ったり来たりを繰り返す。それでも来ない。「誰か来たぞ!」と思いきや、メンバーが手伝いで来てくれた。でも肝心の教える相手が来ないのだ。
 最初の「お客」がやってきたのはちょうど6時半。もう「いらっしゃいませ。ようこそおいでくださいました。今、メニューをお持ちします。」と大声で言ってしまいそうな、そんな気持ちであった。初日は5人で開始。このまま全員が続けてくれて、来年の7月の初舞台で皆がデビューしてくれることが私の切なる願いである。このブログを見て、私も参加したいという学生は、来週の火曜日からいらっしゃい。写真のポスターがあなたの校舎のどこかに貼られているはずです。