Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

「はずれ」の本

2009年07月31日 | 
 鳥の名前のバリ語名称を調べようとしているのだが、写真や絵もあって、さらにバリ語の名称も掲載されている本を持っていない。ふとPeriplus Editionsが以前出版していたシリーズにFlowers of BaliとFruits of Baliがあって、その中にバリ語とインドネシア語表記があったことを思い出した。もしかすると同じ出版社でBirds of BaliがあるかもしれないとAmazonで検索してみると、大当たり。しかし1989年に出版された本はすでに絶版で古書もたいそうな値段がする。諦めながらも、とりあえず「日本の古本屋」のサイトで検索すると、なぜか日本の古書店でこの本がヒットするではないか!もう、嬉しくてすぐに購入手続きをした。
 この本が昨日、大学に届いた。これでバリ語の表記もバッチリと思って本を開いてみると・・・これが大はずれなのであった。カラーで描かれた鳥の絵が美しいのだが、学名と英名しか書かれていないのだ。これにはガックリである。送料を入れれば2000円近い出費なのにもかかわらず、必要な情報を得ることができなかったわけなのだから。それにしても同じシリーズなのだから、表記を同じように学名、英名、インドネシア名、バリ名と表記してもらいたいものだ。
 これがインターネットで本を買う場合の落とし穴。わかっていながら、タイトルに騙されるという経験をしたのは正直、両手の指の数では足りないほどだ。特に洋書の場合はその確立がかなり高い。インターネットは本当に便利なのだが、目次や内容がブラウズできないのが痛い。グーグルではすでに洋書の目次や内容の一部を見ることができるサービスが始まっているがこれもまだごく一部である(もちろんこのサービスに助けられたことも多い)。ところで、もう一冊、1989年にOxford Univ. PressからThe Birds of Java and Baliという本が出ているのだが、これにはバリ語やインドネシア語名称は出ているんだろうか?今度はもう少し慎重に調べてから購入することとしよう。

新しいワヤン人形

2009年07月30日 | 家・わたくしごと
 注文していた新しいワヤン人形を、たまたまバリから戻ったガムランのメンバーが持って帰ってきてくれた。ご覧になってわかるように、長い竜の人形で、十センチ程度の長さの皮を繋ぎあわせているのでその形が自由に変わり、とぐろを巻いて、時には敵を雁字搦めにしてしまったり、森の中を自由自在に飛び回ったりする観客にはとても面白い人形である。
 この人形、実はある人形遣いが1980年代に創作した新しいワヤンの一つで、伝統的なつくりのワヤン人形ではない。伝統的なものは、竜の人形のパーツは個々には動かず、その影の操りかたで、いかにも動いているように見せるものだったし、現在でも多くのダランがその竜を使っているはずだ。私も20年前はそうした伝統的な手法を身につけた。
 最初にこの竜の人形を見たのはワヤンをバリで勉強していた頃で、これを目にしたときは驚きで愕然とした記憶がどこかに残っている。パンダワ一族とラクササ(魔物)の戦いの一場面で、ラクササの放った矢が大きな竜に姿を変え、勇者ビマに襲い掛かり、ビマに巻きつくのであるが、そこにビマの弟アルジュナがあらわれ、竜に向かって矢を放ちビマを救出する。
 ビマに竜が巻きつくなんて私が学んでいた村のワヤンではありえず、当時、筋金入りの伝統主義者だった私は「これは伝統的なワヤンの冒涜ではないか」と思う一方、「でも、あの人形が使ってみたいなあ」という気持ちが心のどこかに芽生えたことは否定できない。
 あれから20年、とうとう私もその竜の人形を手にしたのだ。嬉しさのあまり、まるで子どもがおもちゃと戯れるように時々、家で動かしていたのだが、ふと人形遊びをしながら思い出したものがある。あのウルトラセブンに出てくる金色をした宇宙竜ナースのことだ。ワイルド星人に操られた宇宙竜ナースはなかなか手ごわい竜で、ウルトラセブンに巻きつき雁字搦めにしてしまった光景が、ふと頭をよぎったのである。そうだ、ぼくがあれほどこの人形が欲しかったのは、ウルトラセブンの影響なんだ。ということは、ここで人形をもっているぼくはワイルド星人じゃないか!


キップ・カレー kip curry

2009年07月29日 | 家・わたくしごと
 朝早く起きて冷蔵庫を開けたら、「パンにのせて食べていい」と書かれたポストイットの貼られた銀色のボールを見つける。中を覗いてみると、かみさんが私が眠りについた後、夜遅く作ったキップ・カレーが入っていた。キップ・カレーといっても日本人には聞きなれない言葉だろう。キップはオランダ語の鶏肉のことで、薄くカレー味のついた鶏肉のことなのだ。といってもこのキップ・カレーはオランダではサンドウィッチに挟む具のことである。
 オランダのスーパーに行って驚くことは、とにかくサンドウィッチに挟む具が多いことだった。具といってもハムとかチーズ、ジャムはもちろんのこと、ツナ、ポテトなどなど、すべて日本でいう1リットルのアイスクリームが入っている大きく丸い入れ物で大量に売られているのである。つまり蓋をあけて、ナイフでパンに載せるだけで簡単にツナサンドができてしまうわけだ、オランダ語がよくわからない頃、私はスーパーにいくたびに一番小さい入れ物に入ったサンドウィッチの具を順にひとつづつ買って挑戦した。正直、最後まで食べるのに相当苦労した種類もあったのだが、このキップ・カレーはかなり美味だった。家族が来たとき、ほとんど毎日、キップカレーでサンドウィッチをつくり、出かけるときにも「お弁当」にして、オランダ生活にこの食材は不可欠といった日々を送った。
 日本に帰ってから、かみさんはたまにこれを作ってくれたが、やはりオランダのようにすぐ買える方が楽だし、鳥のささ身からこれを作るのはそれなりに時間がかかる。オランダから戻ってからの年数が一年、二年と経過するとともに、キップカレーもわが家から少しずつ忘れられていったと思いきや・・・突然のように今朝、冷蔵庫にキップカレーが現れたのだ。もちろん嬉しい。大好きなのだから。しかし、私はなぜ突然のようにこのサンドウィッチの具が再び登場したのかを考えている。かみさんが突然、思い出して食べたくなったと考えるのが普通だが、しかし、ここにはもっと深遠なるメッセージがこめられているとしたらどうだろう?たとえば、そろそろ「オランダ」にいきたいなあ、なんていう私へのメッセージだったとしたら・・・。

ホテルがない!

2009年07月28日 | 那覇、沖縄
 沖縄にはたくさんのホテルがある。たぶん東京や大阪といった大都市は別としても観光地の沖縄には地方都市のわりにはたくさんホテルがあるのだと思う。よほどのことがないとビジネスホテルがどこもいっぱいなんてことはないし、実際、観光シーズン真っ盛りのこの時期だってお盆休みを除けば部屋はなんとなるらしい。
 しかしである。我々が学会を開催しようとしている10月のある2日間のホテルがどこもかしこもいっぱいなのだ。これに驚いたのは学会開催のホスト側である実行委員会(つまり、われわれ)なのである。とてつもなく大きな会議が開催されることを今日知ったのだが、それとは別に新型インフルエンザで延期になった修学旅行なるものがいっきに秋に押し寄せてきているという。
 この状態はラマダン明けのデンパサールやサヌールのホテル状態に似ている。いつもはガラガラのホテルやロスメンまでが、BとかLの記号ではじまるジャワのナンバープレートがついた車や、聞きなれないイントネーションのインドネシア語をしゃべる観光客で溢れている状況が脳裏に浮かぶ。
 私は会議が終わった午後からインターネット検索や旅行会社との連絡に追われているのだが、かんばしい返事はなし。しかし諦めてしまったら学会は開催できないわけだし、あとは皆の知恵を絞って努力あるのみ。こういう時って意外にやる気になるんだよね。若い頃していた仕事を思い出すからかな?


蓮の花、開く

2009年07月27日 | 
 もう小玉川でワヤンの公演をしてから一週間以上が経過してしまっているので、今更その話題かと思われそうだが、やはりどうしても書きたいワヤンの話が一つ。それが写真に写った花開く蓮の矢の話題である。
 今回の演目の最後では、悪役のプルサダが、仏様の化身スタソマに矢を放つがすべての矢はスタソマ王の手前で蓮の花に変わって、スタソマの周りはまるで蓮の池のように美しい花で満ち溢れる。このシーンをどのように演出しようかと相談したとき、ダランの補佐役であるクテンコンの一人が製作した矢がまさに「蓮の矢」なのだ。以前のブログに掲載したもの(5月20日)は試作版であり、今回のものは上演仕様。細い紐を操作すると、扇子のように花開く矢で、写真はまさに花開いた瞬間なのである。このまま、スタソーマ王の前で蓮の花はハラハラと地面に落ちていく。
 からくり人形というのは、意外にバリのワヤンには存在しない。ジャワ島の木偶人形では首が切れると血が吹き出るといったリアルなからくりが施されているのを見たことがあるのだが、ジャワやバリの影絵芝居としてのワヤンでは、新しいモティーフが次々に作られても、そこまでのからくりが施されたものはみたことがない。リアルであり過ぎることは観客の想像力を奪ってしまうことになり、影絵人形劇の本来ある姿を変えてしまうことになるのだが、21世紀のワヤンなのだし、そこに多少のクリエイティブな部分があったとしても問題はあるまい。花開いた蓮の矢に驚いたという声が耳に届いたりすると「やってよかったな」とつくづく製作してくれた友人に感謝する次第である。


今日もまたありがとう

2009年07月26日 | 家・わたくしごと
 本日、小学生向けに行ったバリ島のガムラン音楽と舞踊に関する講義、ワークショップ、鑑賞会が無事終了しました。先週は山形県でワヤンでしたが今回は沖縄。そして今週も関係してくださった皆さんに心から感謝です。私が一人でできない部分を私に何も言わずにカバーしてくれているメンバーの人たちはもう私の宝です。ありがとう。
 参加してくださった方々が笑顔で帰っていく姿をみて、やっぱり開催してよかったと思いました。結局、定員には満たない人数でしたが、それでも小さいことを少しずつ積み重ねていくことでいつかは、多くの人たちに来ていただけるイベントになるのだと思います。来週の土曜日はまた別の舞台。今日以上にいい演奏ができるようにまた練習ですね。小さなことの積み重ねで私達はここまできたけれど、まだまだそれを続けていかないと。先は長いのだもの。

夏バテる

2009年07月26日 | 家・わたくしごと
 小玉川でのワヤン練習の写真をみながら「涼しい場所でよかったなあ」と思った。これが沖縄だったらたいへんである。なんといっても暑い。たぶん火を使って2時間以上もこのバテルというガムラン編成で上演したら、ダランである私どころかガムラン奏者もへとへとになって、場合によっては最後までたどり着けない演奏者も出てくるかもしれない。
 夏に演奏するバテルを、「夏バテル」と勝手に私は呼ぶのだが、まさに夏バテで疲れた体を駆使する過酷な行為なのだ。そういう意味で、重ねて書くが、夏にもかかわらず小玉川の涼しさのおかげで誰一人夏バテらなくてよかったのである。
 なんだかまったくまとまりのない文章だねとお思いだろうが、それでいいのである。ちなみにただ「夏バテる」という単語を自慢したいだけの内容なのだから。もしすでにガムラン界周辺で使用されている言葉であれば、「今頃あいつ、あんなこと言ってるよ」なんて笑ってくれていいんだよぉ。

ダランの友

2009年07月25日 | 
 ワヤンの人形遣いのことをダランという。ダランは一人で人形を操るだけでなく、あらゆる人形のセリフをしゃべり、歌も歌い、人形箱を右足でたたきながら効果音も出し・・・といろいろな演劇的行為を行う、といったことがたいていの解説書に書かれている。自分だってあちこちにそう書いているのである。しかし、本当のところ実際には一人でワヤンを上演することはできないのだ。もちろんそこには音楽を奏でる演奏家が必要であるのだが、人形操作だけでも一人では決して上演できないのである。
 バリのワヤンをみたことのある人は、ダランの両脇には二人のダランの助演者が鎮座しているのをご存知だろう。この二人のせいで、人形を操る側からスクリーンを撮影しようとしても彼らが邪魔になってなかなか写真がとれないし、ダランの人形操作もよく見えないので鑑賞者にとってはすこぶる邪魔な存在なのである。しかしこの二人もまたダランなのであって、ある意味、物語や用いる人形の大半を知り尽くしている。そして、常に次の場面を考えてダランより先に話を展開させ、ダランが用いる人形を次々に準備してすばやくダランに渡しているのである。
 この二人をバリ語でクテンコンketengkongという。トゥトゥタンtututanという言い方もあるのだが、トゥトゥトtututというバリ語は「従う」とか「従属する」といった意味で、これでは「ダランに従う」といった力関係が読み取れてしまうから私は嫌いである。クテンコンはダランとの従属関係で存在しているのではなく、同格でありいわゆる「友」といった関係である。この「友」という表現は、南タイの影絵芝居ナン・タルンで用いられる表現で、タイ語でこの影絵芝居の演奏者のことを「人形遣いの友」とよぶ。クテンコンもまさにダランの友である。私のワヤンのクテンコンはいつも写真の二人。はっきり言うと彼らなしではワヤンの上演は不可能である。時にはさまざまなアドバイスをもらい、影の映り方をチェックしてくれる「先生」でもある。
 先週のワヤン上演のため、彼らと現地の練習会場に到着して楽器や道具を運んだ直後、二人が始めたのは卓球。なんだかもう童心にかえったように無邪気な叫び声を上げボールを追っている。「あのー、歳を考えましょう。明日のワヤンでぎっくり腰なんていやだよ。」と言う前に一人はフロアーで回転レシーブ。ちなみに翌日、体が痛いとぼやいていたのもこのうちの一人であった。不慣れな運動なんてするから筋肉痛である。皆さん、ワヤン終了まで慎重に体調管理をしましょうね。皆さんなしではワヤン上演ができないわけですから。もちろん前日のアルコール摂取の必要性とUNOで盛り上がることについては十分に認識しておりますので・・・。


桜の樹の下で

2009年07月24日 | 
 『桜の樹の下で』と書くと渡部淳一の母娘が同じ男性を愛してしまった小説になってしまい、たぶん作家の名前か、同名の映画を思い浮かべてしまうだろうが、今日のブログはそんな恋愛の話とは程遠い。さらに梶井基次郎『桜の樹の下には』を思い浮かべる人は、かなりマニアな小説好きで「桜の樹の下には何が埋まっているのだろう?」なんて考え始めると今日の話にはついていけなくなる。
 私は先週の日曜日、その「桜の樹の下で」ヤシ油のランプを使ってワヤンを上演するはずだったのである。青々と葉の茂った桜の樹々は、淡いピンクで満開になった桜に負けずおとらず美しい。夜にはヤシ油の炎に照らされてそんな木々の枝ぶりや葉の形がシルエットのようにのぞめるはずだったのだ。しかし雨が降って、私はこの舞台で上演することなく小玉川を後にした。
 帰る日の朝は雨もあがり曇り空。私は早起きしてぶらり歩いて宿からこの舞台に向かった。まだ朝6時過ぎで周りには誰もいない。少しの間、村の人々がこの上演のために築いてくれた何も置かれていないまっさらな舞台をボーっと眺める。するとそんな舞台の上にはちゃんとスクリーンやガムランやそれを取り巻く人々が見えてくる。賑やかなガムランの音や私自身の「聞きなれない声」や観客のざわめきまで耳に届くのだ。桜の樹の下には、そんな不思議な感性を呼び起こす力が渦巻いているのだろう。私はそのときやっと何かをやりとげたような爽快感に満ち足りて、あらゆる拘束から解き離たれたような開放感を味わうことができたのだ。すべてはあの桜の樹の下での不思議な出来事。


扇風機はなくても風鈴が・・・

2009年07月23日 | 大学
 ゼミの学生が暑さのせいか夏バテで食欲がないという。バリ舞踊もこなす学生なので本番が近いこともあり気の毒だ。学生はクーラーは部屋で使わないという。それでは扇風機はあるの?と私が何気なく聞いたところ学生が一言。
「扇風機はないけれど、窓にいくつか風鈴がかかっていますから」
 なんてシュールな発言なのであろう。扇風機は体感温度を直接に下げるが、風鈴の音にはそんな作用はない。しかし、風鈴は確かに日本人の聴覚から「涼しさ」をイメージさせ、たぶんそんな脳からの信号が体に伝達するのだろう。しかし、だからといってたくさん風鈴をかければいいというものではない。
 暑くてたまらないという方、扇風機より前に私のゼミ生が実践する「風鈴による体感温度の低下」を試みてはどうだろうか?ちなみに風鈴は「百均」に売られていたと思うので、これで「涼」がとれるならば、これ以上ないという節約になるに違いない。まあお金に余裕のある方は、一つといわず二つ買ってかけ比べてみてはどうだろうか?一つだけの方が効果的だと思うのだが。