Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

「ぷれせた」Tシャツ

2010年05月31日 | 東京
 音工場omoriの発表会は、世田谷区にある羽根木公園の中の羽根木プレーパークで行われる。この場所、実にユニークな活動をする子どもの遊び場で、大人が常設して、遊園地では体験できないフィールドでのさまざまな遊びを体験することができる。これもだめ、あれもだめ、という「規則づくめ」で作られた公園とは違い、自然の木々の中で、木登りOK、焚き火もOK、穴掘りOKなんて公園が、都内において存在すること自体、奇跡である。現在、世田谷区には複数のプレーパークがあり、NPO法人「プレーパーク世田谷」が運営しているそうだ。そういう活動にはほんとうに頭が下がる。
 毎年恒例の音工場のガムラン発表会では、プレーパークの人々がさまざまな箇所で協力してくれる。舞台設営もまたプレーパークのスタッフ抜きでは考えられない。そしてこのイベントの名物の一つが、ちょっとホットなタイ・カレーである。有料でタイ・カレーを販売してくれるのだが、もう音工場発表会とタイ・カレーは切っても切れない関係。たぶんタイ・カレーを楽しみにきている観客もいるだろう。それ以外にも手作りのフルーツケーキやクッキーなどの販売もあり、そんな買い物の楽しみもある。
 販売デスクを眺めていると、とても気になるTシャツが販売されていた。「プレーパーク世田谷」のTシャツで、かわいらしく「ぷれせた」と書かれている。毎年、Tシャツはなかったような?それにしても素敵なデザインでおもわず目がとまって手にとってしまった。
 「素敵なデザインでしょう?沢田としきさんという人がデザインしたんです。このデザイナー、プレーパークの活動に協力してくれていたのですけど、先月、亡くなってしまったんです。」
 なんだか、その言葉を聞いてすっかり切なくなってしまった。プレーパークで遊ぶ子どもたちが、自然の輝きを取り戻したように生き生きとして遊ぶデザイン。2010年の音工場の発表会に参加をした記念に一枚購入した。ここに描かれた子どものように、素直に、楽しいガムランがこれからもずっと演奏できれば幸せだな。そんな思いでTシャツを着ようと思う。

止まった時間

2010年05月30日 | 東京
 今年も音工場OMORI発表会が、昨日、羽根木公園のプレーパークで無事に開催された。寒い日にもかかわらず満員大盛況。毎年恒例、日本最大(級)のバリ・ガムランフェスタは無事に閉幕。休憩時間なしの3時間以上ぶっ通し、いったい延べ何人出演したのだろう。すでに回数も15回目、最初にあの舞台を観た小学生の子供たちはもう成人しているわけだ。
 今年も、多くの曲に参加させてもらった。講座生でもないし、今はもう講師でもない。しかしたくさんの仲間たちが私を暖かく迎えてくれる。久しぶりに大家族に会う気分。会うたびに家族が増えているような気がする。バリ・ガムランの和、大きく、広がる。
 私は音工場でコンスタントに毎週教える講師としての役目をもう10年も前に終えている。沖縄からでは教えていけないもの。だからなのかもしれないが、私の心の時間は10年前でぴったり止まっている。もちろん、それからだって今まで音工場といっしょにたくさんの活動を行ってきた。でも「講座」の時間は10年前のまま。だから、ここにきて以前教えた講座生に会い、小さな舞台で演奏するとき、まだぼくがあなたたちの「仲間」だった頃の、あの頃の気持ちに戻れるんだ。
 楽しかった時間が終わって、一人で井の頭線にのって帰途に就いたとき、なぜだか急にさびしさがこみあげてきた。そう、ぼくは遠くに行ってしまった転校生なのだもの。ちょっとだけ昔の仲間に会えて、でもぼくはまた自分の住みかへと戻る。そんな私をいつも迎えてくれる皆にぼくは、本当に心から感謝。また来年も会おうね。来年ここにくれば、ぼくは11年前の自分に会えるのだもの。


可否茶館

2010年05月29日 | 東京
 昨日はポカポカ陽気の東京で、ジャケットを脱いで長袖のシャツ一枚で気持ちのよい一日だった。そう、今は先週に続いて五日ぶりの東京である。
 今日、秋葉原から御徒町方面へ歩いている途中、おもしろい場所を見つけた。日本で最初に喫茶店が建てられた場所である。ビルの脇にひっそりと建っているから、誰もそんな場所に目を留めない。写真を撮る私が面白いのか、モニュメントよりも私の方がジロジロとみられているようだ。
 このレンガ風のモニュメント、上に大きなコーヒーカップのオブジェがある。やはり当時はきっとハイカラな上野が近かったからだろうか。当時のコーヒーはどんな味だったのだろう。しばらくそんな思いにふけってみた。幸せな時間。だから街歩きが好きなんだ。

「添田唖蝉坊は生きている」

2010年05月28日 | CD・DVD・カセット・レコード
 最近購入したCDのうちの一枚。1973年にレコードで発売されたもののCD復刻である。添田唖蝉坊は、日本のポピュラー音楽史の中では、その創世記に登場するシンガーソングライターである。いわゆる明治時代から歌われるようになった「演歌」の演歌師。息子の添田知道は、父親の仕事を継承するだけなく、多くの評論を書いたので、唖蝉坊のことも多くの記録が残っている。
 この「演歌」が現代によみがえったのは、実は1960年代後半のフォークシンガーたちによるところが大きい。こうした音楽を「発見」し、そのままの歌詞を歌ったり、1960年代の世相にあわせて替え歌にしたりと、さまざまな形でよみがえった。唖蝉坊は若くして日本社会党にかかわり、「演歌」が社会主義思想の宣伝歌となっていったことを考えると、1960年代後半のフォーク歌手たちがとりあげたのもわかるような気がする。
 高田渡もそんな「演歌」復興の立役者の一人である。高田渡は唖蝉坊の詩を使って、アメリカ民謡に乗せたり、自ら作曲して歌った。高校時代からぼくは高田渡の歌を、唖蝉坊の歌と知らずに聞いていたのだが、不思議と世相を歌う内容というのは、今にもぴったりだ。今《のんき節》の最初の歌詞を聞いて、なるほどと思うのである。
 学校の先生は えらいもんじゃそうな
 えらいからなんでも 教えるそうな

『時代はかわるーーフォークとゲリラの思想』

2010年05月27日 | 
 「フォークとゲリラの思想」という刺激的なサブタイトルのついた1969年に刊行された本を古書店で買う。出版社は日本社会党の機関紙を出していた社会新報社で、この時点で、本が左派系の内容であることがわかるというもの。
 1969年といえば、まさに大学紛争真盛りのころで、フォーク・ミュージックが、体制批判などと関わっていた時期。フォークは「かくあるべき」という主張が、本全体から漂ってくるような内容である。「フォークはどこへいくのか」という娯楽化しつつあるフォークへの不安も見え隠れし、当時の左派系の人々がフォークミュージックをどのようにとらえていたのか興味深い。
 ところで、この本の巻末に「付 みんなでうたってほしいうた」という二十数頁があり、そこに楽譜付で入っている歌がこれまたすごい。ほとんど当時は放送ではかからなかった岡林信康、中川五郎、高石友也、南大阪べ兵連、東京フォークゲリラなんていう方々が作ったり、歌ったりしたもので、とりわけ放送にはのりにくい歌ばかりで驚きである。ちなみにわが方の愛する高田渡もちょくちょく本に登場する。

「タイ騒乱でバリ島観光が活況」らしい

2010年05月26日 | 家・わたくしごと
 Yahoo Japan を開くと、画面中央のトピックスの項目に「タイ騒乱でバリ島観光が活況」という項目が掲載されていた。反射的にクリックをしてしまう。
 読んでみると、タイの政情不安から観光客がタイからインドネシアのバリに流れているようで、今年の1月から3月までのホテル稼働率は昨年の68パーセントから一気に91パーセントに上昇したと書いてある。91パーセントなんてありえない数字である。正直、いったいどのホテルで統計をとっているんだろう。ヌサドゥアとサヌールの四つ星以上のホテルだけの統計とか? いつも宿泊するローカルホテルが1月から3月の間、91パーセントの稼働率なんて想像できない。
 バリは2回のテロ以降、特にオーストラリアからの観光客が激減していたのは事実。タイの政情不安は喜べないが、バリが観光客で潤うというのは悪いことではない。その一方で、すっかり観光客の減ったバリもまんざらじゃなかったな、なんて勝手に考えたりする。外国人(僕)は自分勝手だなと思う。

こんな所にエッグスタンドが?

2010年05月25日 | エッグカップ
 週末は所用で東京だった。実家に帰る途中、ちょっと運動がてら歩いて、国分寺のリサイクルショップに寄ってみた。店に入ると入り口のすぐ左に「割引対象外」という張り紙のある飾り棚があって、中にはちょっぴり高そうな洋物の磁器が並んでいる。「東京のリサイクルショップは、沖縄とはなんとなく売られているものも違うなあ」と思いながら、何気なくその飾り棚を覗いたのだった。すると……。
 なんと、その一角にヨーロピアンなエッグスタンドが、10個ほど並んでいるのだ。目を疑った。しかし、どうみてもエッグスタンドである。すべて種類が異なり、手にとってみるとほとんどは Made in Englandとなっている。きっとコレクションを誰かが売りに出したのだろう。一応、舶来イングランド製ということもあって、飾り棚に入れられているのだ。
 ひとつ、ふたつと手にとって見るが、なかなかデザインも絵柄もいいのだ。しかし、やはり一つ800円くらいから1500円くらいまでさまざま。すべて買うなんて大人買いをできるものではない。7個目か8個目に手にとったのは、写真のエッグスタンド。正直、これがエッグスタンドなのかどうかよくわからないが、その形とデザインがすっかり気に入ってしまった。裏を見るとロイヤル・コペンハーゲンなのである。
 それにしても、「こんな所」というのもたいへん失礼なのではあるが、ふつうのリサイクルショップ(基本は古着と電化製品、靴、雑貨である)でロイヤル・コペンハーゲンのエッグスタンドに出会うなんて、ある意味、奇跡だ(と私は思う)。そんな感動をさめやらぬ中、家へのお土産としてこのエッグスタンドを購入したのであった。

久しぶりのエッグスタンド

2010年05月21日 | エッグカップ
 ここ数ヶ月、エッグスタンドコレクションはひとつも増えなかった。オークションをたまに覗くのだが、なかなか自分の気に入ったフォルムと絵柄のものが見つからないのである。たまたまあったとしても、自分の決めた額より高ければ入札しない。そんなときはオークション用の写真を見て楽しんで終わりである。
 二週間ほど前だろうか、フィンランドのアラビアがつくった「これだ」というエッグスタンドが登場。購入した場合は居間の飾り棚におかれることになるため、まずはかみさんに相談。彼女も「これはいいね」ということになると入札!という手順を踏む。
 久しぶりのエッグスタンド。これまで出たことがない柄ということもあり、たぶんアラビアを収集するような方々と競るはめに。それでもなんとかギリギリ自分の決めた入札額の許容範囲内で落札した。
 届いてみると、やはり競っただけあって愛着がわくものである。なんだか鶏の絵が実にかわいくてよろしい。エッグスタンドには鶏の絵が描かれているものが多数あるし、エッグスタンドのフォルムそのものが鶏になっているものもあるが、この絵のデザインは北欧チックで楽しめる。ゆで卵をこの二つエッグスタンドで順番に食べてから、棚に飾ることに決定(ということで現在は食器棚に収納されている)。

旅行 in 本屋

2010年05月20日 | 家・わたくしごと
 「今日はどこの国を旅しようかな」
 大学で仕事を終え、ブラブラ家まで歩きながら考える。徒歩で帰るようになってから、途中でTSUTAYAの本屋に寄るという楽しみができた。本屋では必ず「トラベルガイド」のコーナーに立つ。そして国を選んで世界各地へと旅に出る。
 せっかく行こうと思った国のガイドがない時はがっかり。ちょっぴり田舎の本屋さんだし、書架ににない国の旅行ガイドは1ヶ月たっても補充されない。きっと店員だって気づいちゃいないもの。だからといって、買うわけではないから注文なんてできないし。
 今日の旅はシンガポール。もう20年も旅したことのない国。空港では何度もトランジットしたんだけどな。頁をめくりながら地下鉄にのって、街を歩いておいしい中華を食べて、それから、どのデザートにしようかと頁を歩き回った。
 そろそろ帰らなくっちゃ。飛行機に乗り遅れちゃうからね。お腹もへったし……。

収納された「記憶」、呼び出された「記憶」

2010年05月19日 | 家・わたくしごと
 大学生はふつう四年経過すると卒業していく。カレらが卒業してしまった後、しばらくの間、ぼくには、物理的にも精神的にもなんだか嵐がさったようにポッカリ隙間が出来るのだけれど、しばらくすると次の1年生を迎えて、そんな「過去」のことはある日を境に急速な勢いで忘れてしまう。記憶を何でも貯めてはだめなんだ。記憶容量は銀行の口座と違うもの。そうして新たな記憶が新しい記憶に変換されていく。消去!一回か二回のボタンを押して、それでフィニッシュ。そんな記憶はもうゴミ箱に捨てたまま、二度と戻らないと思っていた。冷たいようだけれど、それでいいと思っていた。

 でもね、そんな捨ててしまったはずの「記憶」は、体のどこかにある別の「ディスク」の中に無意識にコピーされていて、そこに納まっていたんだ。日常生活の中では、そんな存在には全く気づかないまま、ぼくらはそんな「記憶」をかかえ続けている。しかし、その「記憶」を意識的に呼び出すコマンドをぼくらは知らない。

 久しぶりに七年前に卒業した学生達に会った。卒業後、仕事がらみで何人かと会ったことはあったけれど、こうして同窓会のように(同窓会ではないけれど)向かい合って食事をしたことはなかった。七年の月日の中で卒業生たちは成長して、なんだかぼくと同じ(ぼく以上の)「背丈」になってしまっている。ぼくは停滞してまま、周りは大きくなっていった。なんだかヨーロッパの古城のように大きな城壁に囲まれてしまったようだ。

 容量が不足するためにやむをえずに抹消したはずの「記憶」が、どこからともかく引き出されてくる。こんな大量な記憶がどこかの「ディスク」に眠っていたなんて!ぼくには今、さまざまな記憶が目に見えるようだ。さっきまで話していた店のからっぽの机の前には、今しがた話をしていた彼女たちの姿ではなく、無邪気な学生だった(少なくてもぼくには当時そんな風に見えていたのだ)頃の姿が目に浮かぶ。しばらくこのまま引き出しが自由な記憶容量の中に入れておこうと思った。なぜだかわからないけれど、しばらくもう一つの「ディスク」に収納してしまわないでこのままにしておこうと……。