バリから沖縄に戻る日に、先生の家に挨拶に行くと、しばし話しの後、胸のポケットから小さな袋にはいったものを私の前に置いた。
「君へのプレゼントなんだ」と彼は、笑って言った。
「これは、トゥアレンのケペンのネックレスだ。昔のバリには、トゥアレンやアルジュナがデザインされたケペンがバリで創られていた。それは今ではお守りとして使われている。トゥアレンは神であり、ワヤンにおける重要な話し手だ。君はダランだし、大学の先生だから、このケペンが必要なんだ。ぼくはこれを、クルンクンに行って注文してきたんだよ。」
私はこうしたケペンがあることを、大英博物館が出版した書籍から知識としては知っていたが、実際のケペンを見たことはなかった。
「もちろん、これは当時のケペンではなく、それを忠実に再現したものだ。しかし重要なことは、金、銀、銅、錫、鉄と五つの金属が混ぜ合わされて作られていることなんだ。ガムランも同様にかつては五つの金属を混ぜたといわれている。もちろん、銅と錫以外は微量だから、音には関わりがないが、バリにとって重要な5という数が大事なんだ。」
そんな話を聞いて、ぼくはとても嬉しかった。ぼくはこれからトゥアレンを身につけて、トゥアレンが私の「話」を守ってくれるのだと思うと。ところで、アルジュナのケペンを首にかけていると、とても女性にもてるそうである。
長ったらしい題を付けてしまいましたが、本日、無事に那覇に到着しました。ということでまずは帰国のご報告。今回のバリ関係のブログは、このタイトルの通り、台北から那覇へのチャイナ・エアーラインでのついさっき体験してきたほやほやの風景(といってもバリの話じゃありませんが)から、始まります。
私は、飛行機の席は必ず通路側と決めている。まあ、だいたいの人はそうだろうが、まずお手洗いに行くとき人を跨がなくてすむし、正直なところ窓から下を見るのが怖い。できるだけ窓から離れている席が嬉しいのである。
昨晩、デンパサールで受け取った台北から那覇間のチケットは8Cだった。ということは、3人掛けの通路側の公算が高いと感じた。3人席の場合は、空席が多いと、気の利いたカウンターの人はB席をブロックしてくれる。つまり、知らない人との間に一席分、間が空くのである。しかし混んでいると、ここには二人連れが来る可能性が高い。まあ、疲れているからどっちでもよかったが、今回は台湾からの若いアベック(カップル)に当ってしまった。別にここまではどうでもいい話である。どうせ1時間5分は大切な睡眠時間なのだ。ところが、結果から言うと、ぼくはこの二人の奇妙な行動のおかげで一睡もできなかった。とにかく気になるのである。
たいてい二人連れだと、男性の私が通路側にいれば、窓側に女性を座わらせて、男性が真ん中に来る。そこまではよかった。ところが、この女性は座ったとたんに15センチ四方程度の鏡(飛行機の中では結構大きく感じる)を取り出し、化粧を始めたのである。最初は特段、気にしなかった。きっと急いで空港に来たからだろう。しかし、女性は飛行機が飛び立っても、食事が出ても、決して化粧をいっこうに止める気配がない。まだ男性の方も、女性の使った化粧用の汚れた紙?を受け取ったり、サンドイッチを食べさせたりする。もうこうなると、私の行為は「覗き」のように見えるかもしれないが、すぐ隣である。見たくなくたって私自身も食事をしているわけで、見えてしまうのだ。
男性が話しかけても、女性は化粧をしながら、相槌をうつだけである。中国語だから何をいっているかまったくわからないことが、「これ幸い」であったのだが、それでも男性は楽しそうである。女性は、「まもなく到着」のアナウンスの最中も化粧を続けて、なんと離陸する瞬間も眉毛をかいていたのであった。
それにしても私はかなり飛行機に乗っているが、こんな経験は始めてである。せっかくの旅なんだろうから、飛行機の中で楽しく話しでもしたらいいのにと思ってしまう。これこそが余計なお世話なんだろうが、私にはこの二人の奇妙な風景がどうしても理解ができなかった。「どうしてなんだろう?」と思い続けているうちに、眠ることなく那覇空港に着陸してしまったのである。
ぼくは、ガムランとは何なるかと「薀蓄(ウンチク)」を語ったりはしません。語れるほどの「薀蓄」なんてないし、だいたいガムランは言葉なんかじゃ語れるはずはありません。
時間をかけて、新しい仲間やそれまでの仲間との信頼関係の中で、言葉なんかではなく音で築きあげられていくものがガムランの音の世界だと思います。ちょっぴりガムランの先輩として皆を引っ張っていくのが私の役割。そういうぼくも、りっぱに育った仲間たちに引っ張られることだってしばしば。でもそれはとても素敵なことだと思っています。
新しい仲間たちとガムランを初めて1ヶ月半。今度、皆に会うのは来年です。時間はかかるかもしれませんが、ぼくは新しい君達と、そして長いこと仲間として演奏をともにしてきたあなたたちといっしょに大編成のガムランで、来年、また舞台に立てることを楽しみにしています。みんな、ありがとう。
今日は、幸せの香りを胸いっぱいに吸い込んだ一日でした。幸せの空気、幸せの香りの漂う空間を一時だけでも共有する人々からは、自然にやわらかな、やさしい微笑みが生まれます。涙だって、馨しい聖水のようにみえるものです。
そんな空気を欲張ってたくさん吸いすぎたのかもしれません。ぼくは家に帰って、なんとなく動かず机の前でしばらくじっとして、一日を振り返りました。なんだか、記憶のどこかにそんな香りが残っていないかしらと、必死で探したりしながら。
香りの余韻はあと何日続くのでしょう?ぼくはそんな余韻を胸いっぱいにしまったまま、あさってからしばらく日本を離れます。なんだか今、飛行機に乗るのが億劫に思えないのは、そんな幸せな空気や香りのせいかもしれません。
(仲間の結婚式から戻って記す。)
寒い!
仕事で大阪に来ています。とにかく寒いのです!。気温は6度。夜はもっと下がるとか。ホームで電車を待つ間がもう耐えられない寒さです。なんといっても沖縄からやってきた途端にこの気温ですから。
焼き立てもワッフルを食べようと、大阪のワッフル屋さんのマネケンに並びました。袋に入れてもらったワッフルはまだホカホカ。暖かいうちに食べようと包装を見ると、マネケンもクリスマス仕様。
なんだか雪のようなこの袋に入れておくとすぐに冷たくなってしまうような気がして、まだ暖かいワッフルを歩きながらほおばったのでした……。(写真は後日)
名古屋が大正琴発祥の地であることをご存知だろうか。実は大正時代、森田吾郎なる人物が外遊から戻り、当時、できたばかりのタイプライターにヒントを得て創作した楽器が大正琴である。二弦琴にキーをつけたのが最初で、当初は玩具としての扱いだったらしい。それが徐々に国内で受容されるだけでなく、海外にも輸出されていった。今回のシンポジウムは、輸出されアジアに伝播していった大正琴をテーマにしたもので、名古屋で行うにふさわしいものだった。
名古屋の大須観音の敷地内に大正琴の誕生の碑があることは知っていたが、日曜日の朝、那覇に戻る前にカラガラと荷物を引っ張って、この碑のある場所に出かけた。たかが碑かもしれないが、このあたりに森田吾郎が住んでいて、きっとこの観音様にも手を合わせたのだろうな、などといろいろ想像するだけでも楽しい。
来年は大正琴が誕生して100年だそうだ。ということで、なんとしても生誕100年の学術的な集まりを開かなくてはならない(と一人で意気込んでいる)。しかしその前には経費である。どこかから予算を引っ張ってこないとできないし……。
夜8時に過ぎに中部国際空港について名古屋市内に向かう。名鉄の駅に着くと、数分で特急のミューが出ることがわかる。ちなみにこの電車、関空でいえば、南海ラピート、JR西日本のはるかのように、特別料金が必要である。ちなみにミューは350円を運賃とは別に払わなければならない。
実は、この電車に乗りたかったのである。一度は乗ってみたい特別車両。ミューの10分後に出る普通急行を使っても15分程度しか到着時間には変わりがないのはわかっているが、やっぱり乗ってみたい。鉄ちゃんでなくても、その位の好奇心は満載である。
旅マジックのすごさ。350円あれば沖縄の大学で昼食が食べられるんだ、なんてケチなことは全く考えなくなる。「ここでしか乗れないんだ。沖縄に電車はないし、次にいつ名古屋に行けるかわからないでしょ?」と何度も自分に言い聞かせて、特別車両を購入。贅沢といえば、贅沢だが、これが旅の経験である。
名古屋芸大でシンポジウム前の一コマ。ランチミーティングということで持参した弁当を食べながら打ち合わせで、食事後に持ち寄ったお菓子大会になった。あれ、打ち合わせだよね。でも甘いもの好きな私には願ったりかなったり。
京都から参加した同じプロジェクトのメンバーTさんが持ってきてくれた阿闍梨餅(あじゃりもち)は初めて食べた。これ、とってもおいしくて、結局4つももらって帰ってきた。ちなみに私は、最近発売された「恋するポテト」なる紅芋のスイートポテトを持参した。まあまあかしら。
お菓子のおかげだったのかどうかはわからないが、発表は無事終了。時間が短くて、もう少しいろいろな議論ができればよかったと思うシンポジウムだったが、一回目にしてはまずまず。他の発表を聞いて自分の研究のアプローチにとって勉強になることが多かった。
今日、明日は東京で友人たちのさまざまなイベントが開かれる。残念ながら私は名古屋で行けないけれど、皆、がんばってね。
左利き
明日、シンポジウムに参加するため、1か月前に宿泊した名古屋のホテルに宿泊している。夜9時半近くに到着したので、とりあえず食事と思い、ホテルの傍の「松屋」に入る。名古屋に来て松屋もないだろう、と思うかもしれないが、とりあえずホテルで読み原稿を作らなければならない。早い、安いでいいのである。
錦にある松屋は長いカウンターのみで、隣の客と意外に近い。実はこういう席はある問題が起きるのである。私は左利きであるため、右側に座っている客が右利きであれば、肘があたるのだ。これはお互いストレスである。なんだか左利きであることが申し訳なくなり、肘をすぼめて食事をする。でも、そんな食事はおいしくないのだ。
本日も同じような状況が生じてしまった。しかし私はストレスをためる前に店の人にこう言った。
「すみません。スプーンもらえますか?」
松屋にはカレーがあるためにスプーンが用意されているのだ。ちなみに私が注文して食べていたのは「豚丼サラダセット」であったが、まるで機械的に私はスプーンをわたされた。ぼくも何ごともなかったように、左手の箸から、右手にスプーンを持ち替えて豚丼を食べたのだった。これが名古屋一日目の出来事。
1941年12月8日は真珠湾攻撃の日、そして、その39年後の1980年12月8日はジョン・レノンの命日である。とういうことで、真珠湾攻撃は歴史の一幕として忘れてはならないが、私にとって重要なのは、やはりジョン・レノンの命日としての12月8日である。
1ヶ月前、突然、アマゾンからジョン・レノンボックスが届いた。もちろんプレゼントなんかではなく、自分で購入のクリックをした(ちゃんと調べたらそうだった)から届いたのであって、間違いではない。
実は発売前に、このボックスを予約しようかどうかかなり悩んだのである。だってすべてのCDは持っているわけだし。しかし紙ジャケにもひかれたし、このCDにしか入らない特典にも心が揺れた。きっとそんな朦朧とした状態の中、ぼくは予約のクリックしたのだろう。もちろん、これが今、私のものになったことはたいへんに喜ばしい。
しかし、ぼくはあまりにももったいなくて、封が切れないのである。きっとこれは、以前購入したCD20枚紙ジャケのキャンディーズ・タイムカプセル(完全限定盤)と同じ運命をたどることになるだろう。とにかく持っていることで安心してしまうというCDボックス。昔は一枚買うのも清水の舞台から飛び降りるような思いだったのが、今はなんだか大人買い。どんなもんかね、と思いつつも、やっぱりジョン・レノンボックスを眺めてニッコリするのであった。