いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

太宰の100年  paradox

2009-09-24 19:36:42 | 日記
 太宰治が何度目かの「生」からの逃避行で玉川上水に消えてから61年、青森県
の津軽に生まれて100年になる。

 地元の大変な良家の坊っちゃんに生まれ育って、ありきたりの文学なら、いつで
も、何でも書ける才能(特に、短編の名手)で、とにかく幅の広い文学史観(基礎
的な見方)の持ち主だった。

 自己否定の「人間失格」、「斜陽」から、友情、信頼、人間関係の機微(深い読
み)を謳歌(おうか)する「走れメロス」まで、日本文学の精神視点から、西洋の
文学ロマン視点まで、グローバルに近代文学史観を、あるときは哲学的、信仰的に
、あるときは日常的わかりやすく表現する、博学を覚えさせる作家だった。

 時代を背景にした自由奔放な退廃的な生き方で、その生涯のスタンス(寄って立
つ位置)を意図的に、また、時流に流されながら、ゆきずりにして、貫いた。
 田舎の良家の坊っちゃんのひ弱さ、頼りなさそのものの風貌ながら、いつもそこ
から抜けきれない、心の有り様の実態、実像との心理的葛藤(かっとう:心の闘い)
を表に漂わせていた。

 何度かの女性との逃避行の結末も、どう見ても「人間失格」ではあっても(本人
も言うとおり)、死への個々願望は伺えず、女性への自己否定の「ゆきずり」にし
か見えない、坊っちゃん思考から抜けきれない、本人が悩んだ本質が見え隠れす
る。
 その自己犠牲の人生の結末に、明確な解答、スタンスを見いだせないままの心
理的な葛藤を太宰に覚えるからだ。

 「走れメロス」に巡り合った時の、文学の世界観、普遍性は、忘れない。
 自己否定の歴史的結末(歴史観)を文学人生に追い求めつつ、逃避しつつ、見
いだせないまま、行きずりの「人間失格」の100年だったのだろうか。太宰の、そ
の後も含めた人生。

 太宰治。 パラドックス(paradox)に、皮肉にも、いまも、その文学史観の「生命力」
だけは、健在だ。



 

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