いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

「まどろんだ」スキの過失とは。 what an accident of one moment into a doze

2016-03-03 19:29:37 | 日記
 (1)世界に類のない超高年令化社会を迎えている日本では、将来的に数百万人の認知症者が社会問題になることが考えられている。介護問題と同じようにそれ以上に認知症対策は政治、経済、社会にとって重要な課題となることは確実だ。

 少子高年令化社会の到来を早くから予測できながらほとんど効果的な対策を取ってこなかった政治、経済、社会であった。

 (2)結果として社会保障が成りゆかなくなり、財源不足を国家財政の大幅な赤字の積み重ねと今日的社会に消費税引き上げで国民の税負担投資に政治的不作為の責任を押し付ける無責任なやり方だった。

 同じ歴史をくり返してならない教訓だが、政府対策、対応も年金支給年令の先送りに減額のくり返しで効果的な対策がとれない現状だ。

 (3)認知症問題は経済と切り離すことはできない。認知症者を抱えて介護者も経済的負担が高く重く、介護と経済的自立(就業)を両立させなければならない人も多い。
 仮に自宅でつきっきりで認知症者を介護していても、四六時中目を離せないなどとはいかない。外出チェックセンサー、戸締りなど家庭、家族としても出来得る限りの事前事故防止の対応はしても、完全対策というものはない。

 ちょっとした(介護者が「まどろんだ」とか居眠りなどの)スキに認知症者が外出することは当然あるし考えられる。

 (4)その認知症者が踏み切りに立ち入ってJRの列車にはねられて死亡した事故で介護者の家族の監督責任が争われた裁判で、1審、2審は介護家族が「まどろんだ」過失(accident of one moment into a doze)があったとして同居の娘に監督責任があったとして、事故によりJR列車を止めたことによる損害賠償責任を認めた。

 最高裁まで争われて、最高裁は「同居の夫婦だからといって直ちに監督義務者になるわけではない」(判決報道)として介護家族に賠償責任はないとの判断を示した。

 (5)1審、2審の判断が介護家族の「まどろんだ」スキの「過失」という法的責任による損害賠償を求めるという教条主義的、法文絶対解釈に偏向した判断、判決を示して、「介護の実態を総合考慮して責任を判断」(最高裁判決報道)しなかったとして1審、2審の判断が最高裁で否決され確定した。

 最高裁による認知症者の事故責任に対する初めての判例であったので、1審、2審がただちに不条理(unresaonableness)な判断を示したということではなかったが、1審、2審と最高裁ではあまりの判断の落差に驚かされた。

 (6)今回の認知症者の事故責任は証拠能力、判断、解釈がどうのという問題ではなくて、介護家族の「まどろんだ」スキの過失(1審、2審の賠償責任認定判決)を認めるという法律上の解釈の問題であったから、これを否決した最高裁の司法判断、解釈とのこの質の落差の大きさは問題であった。

 裁判は公正で公平、不利益を回復する手段として3審制(1審、2審、最高裁)が採用されているが、どれもが裁判官、裁判員によって法律にもとづいて公正、公平に審理されるべきものであり、1審、2審の判断が軽く見られて最高裁の判断が(最終判断で確定判決ではあるが)とりわけ重いというべきものではないはずだ。

 (7)もちろん3審制のどれもが司法能力、判断力、適用力で水準能力を維持しているはずであるが、そう信じたいが、それでも証拠能力判断、解釈ならいざしらずに法文適用、解釈での判断水準でのこの落差だ。

 認知症者の介護家族の「まどろんだ」スキが過失責任を問われては、介護者の思い、心情、介護社会の現状不理解としかいいようがない。

 (8)JRは「会社の財産を守る観点から法令にのっとり公平に対処する」(報道)とこれからも認知症者の監督責任による事故責任の損害賠償を請求する姿勢だが、認知症社会問題化の中では踏み切り遮断機設置ぐらいでJRの責任が十分とはいえない社会構造性がある。

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