諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

宗教の怖さ。【オウム真理教扁】 その4

2014年01月28日 02時55分01秒 | 人生
続きです。

秋葉原で踊っていたマハポーシャの彼らも、純粋に神に宗教に信仰に縋りたかったのだと思います。そうでなければ無償であんな踊りしませんよ。

純粋だから純粋な善にも悪にもなる。神の名の下に罪悪感も無く平気で命を賭け、命を奪う事が出来るのだと思いますね。

私、何時も思っているのですが宗教は戦争兵器の側面が有ると思います。
キリスト教はローマのコンチタンチヌス帝により選ばれ、キリスト教の名の下に侵略戦争を展開したと言えます。

旧約聖書のユダヤ教では選民思想故ユダヤ人しか信仰しないと思います。
キリスト教なら信じる者は救われるので、全世界に広めることが可能。侵略戦争に有効と言う訳です。戦争で人を殺す行為も神を冠すれば躊躇も少なく出来ますからね。

宗教、つまり神のために戦争をする。日本だって天皇教とは言いませんが、「天皇陛下、バンザイ」と言って参戦し、死んで行った者も大勢いました。正直、宗教で幸せに成った人よりも不幸に成った人の方が世界的に多いのではないでしょうか。

キリスト教だって元々は同じ神を信仰しているのにカトリック、プロテスタントに別れ争っている。ユダヤ教、イスラム教、そしてキリスト教も同じ流れに有るのに、考え方の違いで戦争が起きている。神の為なら特攻隊にも志願するし、自爆テロも出来てしまう。どれもこれも信仰の成せる業だと思います。

日本の仏教徒だって戦国時代は武闘集団でした。いや、弁慶を見れば判りますが、源平時代も仏教は戦闘を行なっています。同じ仏教でも宗派同士で争っていました。

井沢元彦さんも書いていましたが、もし織田信長が比叡山を焼き討ちし、「宗教は殺し合いに供せず」の考えを浸透させなけれは、日本も自爆テロが多発し、仏教徒により支配されていたかも知れません(私は織田信長は嫌いですけど・・・・・・)。

では神は悪なのか。神は悪ではなく、神を語り神の権力を手にした者か悪になるのだと思います。

私はこれまで多くの教職者や宗教者を見てきましたが、権力を持った者は権力に縋りつきます。自分の主張を絶対として、他人に強います。権力にに支配され、権力に酔います。そして自分が神だと錯覚するのです。

そして服従を強います。神の名の下にその権力を行使し、更に自分の権力を高めようとします。それはもう麻薬中毒患者が麻薬を求めるが如くです。

麻原彰晃もそうなって行ったと思います。
彼は目が多少不自由だったことや、幼馴染が有名な演歌歌手になったことから嫉妬を覚えた。嫉妬から自分も世に出たい、権力を身に付けたいと思うようになった。

ヒンズー教に興味を覚え、自分なりの宗教観を身に付けた。
その宗教観に縋ってくる者たちがいた。
自分の宗教観に従う者達が出てきた。
自分の考えが絶対であると主張し、縋って来た者達から崇拝されるようになった。
また、自分を崇拝する事を強制する喜びを感じだ。
もっともっと大きくなりたいと思うようになった。
まだ足りない、まだ足りない。
欲望は底無しになり、自分自身が神だと錯覚するようになったと思います。


つづく。

コメント
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