続きです。
塩竃神は塩土老翁なのだから、その姉は聖婚の考えを採用して妻神であると思われる塩土老女で決定。ではでは。で終わらせたいところですが、塩竃神、塩竃明神に付いてはまだまだ説があります。
例えば先代旧事本紀には塩竃神は長髄彦と書かれています。神武天皇に追われ、陸奥・塩竃まで逃れてきて、この地で現地民に塩の造り方を教えたと言うのです。
実際、タイトルは忘れましたが、「塩竃神社境内に長髄彦の石碑が建っている」と紹介している本を読んだことがあります。その石碑の写真も見ています。
それで瀬織津姫の著書を出しているY氏関係の方で、塩竃神社で巫女の経験のある方の紹介で塩竃神社のO禰宜さんとお話をする機会が有り、その旨を質問したのですが、「そんな話は初耳」と言われました。
私の読んだ本は何だったんだ。間違いなくそう書いてあったし、長髄彦の石碑の写真も見ているのだが・・・・・・。
長髄彦は日本史上最大級の逆賊です。その存在は消され捲くっています。研究のしようが無いです。ただ、長髄彦と集合した神、もしくは妖怪がいます。足名稚命と思われる足長です。どちらも足が長い共通点がありますが、足長は長髄彦がモデルである可能性は高いと思います。
そうなるとその姉は手名稚命である手長になるのか。ニギハヤヒ尊に嫁がせた御炊屋姫は長髄彦の妹だが姉はいるのか。どうもホツマツタエではいるみたいですけど、ここまで来ると判らないですね。
神功皇后と武内宿禰に塩竃の地まで逃げて来たといわれる忍熊皇子ではどうか。多分、この人は逃げて来たとしても家族ずれではないでしょう。それと姉がいたと言う話も伝わっていない。この人も判らないです。
武内宿禰も塩竃神であるとの伝承があります。彼は日高見国を「馬もいるし土地も肥えているから取るべし」と進言している。そして私の故郷の福島県いわき市に1年半程??滞在。その後北上したとの伝説も残っている。十分考えられます。
しかも塩竃の目と鼻の先である多賀城市に武内宿禰を祀る仁和多利神社が鎮座している。これは怪しいです。
っと言っても武内宿禰は謎が多い。何たって300年以上生きたことになっている。武内宿禰と言う役職かも知れない。そこの所が難しい。
武内宿禰の時代はほぼ卑弥呼と重なります。そうなると卑弥呼は神功皇后となる。卑弥呼は弟に政を任せていた。神功皇后の政は武内宿禰が担当していた。そうなると武内宿禰の姉は神功皇后になるのか。
神功皇后の三韓征伐は彼女が5歳から7歳の時です。その時爺様だった武内宿禰が弟と言うのも違和感がある。武内宿禰が何人か存在しているなら話は別ですが、この人もまた不透明です。
第一、塩流神社に神功皇后が祀られていたのであれば八幡神社となっている筈です。これはやっぱり違いますね。
続く。