諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

仙台に久々の震度4キター。

2016年11月12日 22時32分15秒 | 東日本大震災

今日の朝方の6時過ぎに久々の震度4が来ました。ビックリ。20秒ほどの揺れだったけど長く感じた。

私の部屋には240センチの薄い本棚があるのですが、ひっくり返りそうになったので押さえながら叫んでましたよ。「止めて下さいっー、止めて下さいっー」て。

「止めて下さい」と言っている相手は地震の神様に対してです。地主神だと思っています。

アニメの「ドラゴンボール超」に破壊神ビルスって猫ベースの神様が出てきますが、再生と破壊は日本の神も司っていると思います。

あのアニメ、結構反キリストの要素が有りますが、作者の鳥山明は神道寄りですね。主人公の義理の父親の名がサタンだったり、その娘がビーデル(多分、デビルから取った)だったりしますから。キリスト教と神道は正反対ですのですけど、結構勇気があったと思います。キリスト教は全てに善と思われているので。

それは兎も角、震度4クラスがまだ来るのは東日本大震災から5年半が過ぎたとしても、まだまだ安定期とは言えないですね。今回の震源は宮城県沖だったし。

何れお話したいと思っていますが、塩竃神社の存在は地震と津波を抑える為でないかと思っています。それだけ宮城県は地震と津波に襲われてきた場所。日本で一番地震に気を付けねばならない場所。地震・津波を覚悟しなければならぬ場所だと思います。大変残念ながら。

「震災は忘れた頃に遣って来る」と言いますが、私、本棚を押さえながら「今度は地震保険に入っているから少しは安心だ」と思ったりもしました。

兎に角、何事も最悪の事態に備えるのが大事だと思います。

勿論、地震だけではない。トランプが大統領選挙に勝利したり、とんでもない事が起きる時代に突入していると思えます。注意しないと生きて行けない。それは肝に命じないと。

どんな人だって不幸は防げない。でも最小限に留める事は可能。油断せず不幸から逃げ捲くる。これが上手く人生を生きる手段だと思います。現状の私が言えた義理では有りませんが。

 

ではでは。

 

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神道と仏教。瀬戸内寂聴さんの「殺したがるバカどもと戦って」発言に想う。その2

2016年11月12日 07時33分05秒 | 人生

続きです。

瀬戸内さんと日弁連の主張は死刑廃止です。最大の刑罰を無期懲役とする。心から反省し真人間となった者を死刑にして良いのか。人が人を殺す。野蛮ではないか。

瀬戸内さんも長年死刑囚に携わってきて、死刑廃止の主張をするようになったと思われます。死刑囚ですから日本の場合、殺人の罪が大半でしょうけど、深く反省し刑期で罪を償うのであれば死刑で命を取る事も無いのではないか。

私も知人、肉親が死刑囚となったとして、罪を償う意思を示し心からの反省が見られるのであれば死刑は許して欲しいと思う筈です。その気持ちは十分判ります。

しかし、殺された者の肉親はどう思うか。残された肉親も心を殺された訳です。その者に対する償いはどうするのかと思うのです。

ビートたけしが「仇討ちさせたら良いのではないか」と以前言ってましたが、愛する者を殺された側は絶対に許さない。仇を討たなければ心が鎮まらない。永遠に憎しみを抱き暮らすのは地獄です。その人達の想いはどうするのかと聞きたいです。

ちょっと話は変わりますが、高校時代、歴史の教師が「イタリア人は犯罪を犯しても後で教会に行って懺悔すれば許されると思っている。だからイタリアでは犯罪が頻発している」と言ってました。

私はイタリアはおろか海外に行った事が無いので知りませんが、マフィアとかいるんでしょうから治安は日本よりも悪いのだと思います(日本にもヤクザがいるけど・・・)。

多分、歴史の教師は学校がプロテスタントなものだから、カトリックのイタリアを非難していたのかもしんないです。同じキリスト教でも案外仲が悪いので。

でも、確かに一理あります。私も懺悔して済むのなら犯罪に走るかも。否、私の場合、祟りに合いやすいから踏み止まる。

それよりもキリスト教を信じていないから懺悔すけば許されるというのは納得がいかないです。キリストに悔い改めれば永遠の命が約束されると言ってますが、痛む左手で生き続けるのは辛い部分もある。死ぬのが楽しみな部分もあるし。

仏教も南無阿弥陀仏を唱えれば極楽浄土に行けると言うのも納得出来ないです。悪事を重ねていた者が南無阿弥陀仏を唱えただけで浄土に行ける。だったら世間は乱れる。私は信じたくない。

でも、生物は悪でないと生きていけない部分もある。私が釣りをするのも殺生に繋がる場合があるから悪になる。食事も大抵の食べ物は植物も含めて生きている。それを食べるのが生物の本能。生き残るために殺す。それはキリスト教でも仏教でもして来た。人を人が殺す事は本能ではないのか。

貧しくて犯罪を犯す。そうしなければ生きていけないのであればそれは本能となる。これが罪なのか。

瀬戸内さんも死刑囚に接してきて、死刑囚がそんなに悪い人間じゃない事を知り死刑反対を唱えているのかも知れませんが、何とも言えませんね。

ただ、自分の欲望のために何人殺しても死刑にならないのであれば、殺された人やその親族は浮かばれない。その恨みを晴らしたいと思うのも本能。その連鎖をどこかで止めなれればならない。そうなると死刑は有効です。そして治安もよくなる。

フィリピンのドゥテルテ大統領が魔薬犯罪者を3000人以上殺して治安が良くなったと聞きます。国民の支持も80パーセント。多くの人が喜んでいる。

日本でも火付盗賊改方長官の長谷川平蔵が、長官していた期間の8年で罪人を600人を処刑。江戸の治安が良くなり大衆の人気を集めたそうですが、当時は飢饉で食べて行かれずに生きる為に犯罪に走った者も多かった。そのどちらが正しいのかも難しいです。

それを神道で考えると、犯罪を犯す者は穢れ。穢れは祓うべき。つまりは殺す事が祓いになるのか。辛い思いして犯罪を犯す者、悪の心を持っている者を殺す事がその者達の為にもなるのか。

どうも神道にはその考えが根本にあると思うのです。鎮魂こそが祓いの目的だと思います。難しいですけど。

一つ言える事は仏教は死刑反対。神道は死刑やむなしの考えにある。そして私は治安の為にも、殺された者とその肉親の魂の鎮魂の為にも死刑には賛成です。

この考えを瀬戸内寂聴さんに尋ね、お答えを聞きたい。神道と仏教が交わる点が有るのならば。

 

ではでは。

 

 

 

 

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