諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

青麻神社が常陸坊海尊を祀っている理由を考察する。

2016年11月14日 06時54分42秒 | 神道

こんな事を考察して良いものか迷いましたが、友人の神社も同じ理由で人を神として祀っているのではないかと考えまして、忘れないうちにここに書いて置きたいと思います。友人の神社に付きましては流石にシークレットにしますけど。

っとは申しましてもこれは一つの考察です。断言はしませんし出来ません。私、結構、後から考えを改めます。その点はご了承ください。

さて、常陸坊海尊です。実は私、武蔵坊弁慶よりも海尊の方が興味が有ります。「常陸」と言うからには茨城県。福島県いわき市出身の私にとってはお隣さんみたいなものです。関係ないかも知れませんが親近感が湧くのです。

この常陸坊海尊、源義経や弁慶達が奥州藤原氏四代目・秦衡の裏切りに合い襲われている時に、11人だかでどっかの山寺に参拝していて助かっています。義経を裏切って逃げて行ったとも言われてる。肝心な時にいない。だから人気が無いです。

でもその後がミステリー。ニンカンと呼ばれる赤い羊羹みたいなものを食べたとか、人魚の肉を食べたとかで不老不死になった。そして残夢と名乗り奥州で義経主従の話を伝え歩いた。

更に歴史は下り、徳川の時代にも家康の闇の軍師である南光坊天海、林羅山の前に現れて、当時の義経主従の話を聞かせた。奥州藤原四代の最後の場面等々、源平合戦を当事者の如く語り、「常陸坊海尊に間違いなし」と言われてます。ミステリーを感じます。

因みに天海は「何でそんなに長生きなの?」と海尊と思われる残夢に聞いたところ、「クコ入りのご飯を食べているから」と聞いて、クコ御飯ばかり食べるようになり、108歳まで生きたとされています。

クコなんか食べているのは修験者だからでしょうね。流石に私も残夢が海尊だとは思いませんが、海尊の流れをくむ者が残夢だったと思います。

その常陸坊海尊が宮城県岩切の県民の森にある青麻神社に祀られている。これはどう言う事か。

社殿裏にあると言う洞穴に住まい、その場で修行したと言われています。目が悪い人を治してやったとかも伝われている。

目を治すと言ったら不動明王です。もし本当に青麻神社の洞窟に住まわれていたのであれば、不動明王を信仰し、修験者として修行していたのではと思われます。何故、青麻神社だったのか。

常陸坊海尊と言ったら武蔵坊弁慶の弟分と知られてます。何時も弁慶に苛められていた感じに物語では語られている。事実、弁慶と海尊は宗派が違い敵対し弁慶の宗派に敗れたと聞いています。その海尊が修行していた宗派は天台寺門宗本山園城寺。通称「三井寺」です。

「三井」となるとピンと来る点があります。青麻神社には御井神を祀っている。三井寺にどう繋がるのかは説明出来ませんが、三井氏は御井神を信仰している。

多分、神仏習合時代に三井寺の者が青麻神社の社家に加わり、御井神を信仰に加えた可能性があるかなぁー。ちょっと自信は無いですけど。

そしてもう一つ。海尊は「西鶴諸国ばなし」では天狗として描かれている。天狗は神道で考えると猿田彦尊。そして道祖神であり幸神である。

青麻神社は「日」「月」「星」の三光信仰。天狗は月に住まう。そして猿田彦尊は太陽神であり昴星を司る星神でもある。

つまり道祖神や幸神の信仰は隠したいが、忘れ去られるのは困る。故に常陸坊海尊を青麻神社の謎を紐解くヒントとして祀ったのではないか。うーん、チョット考えすぎか。

スピリチュアルな考えが強いですが、青麻神社には瀬織津姫が祀られていると菊池展明氏の著書に書かれている。瀬織津姫は道祖神や幸神信仰を隠す為に朝廷側が創造した神名であるとすれば納得の行く部分がある。

その瀬織津姫の名前も隠して置きたい。そう考えて常陸坊海尊を祀ったのでは。

それを解明するには三井寺と瀬織津姫の関連を調べないと判らないが、確か三井寺は白山信仰が流れていた。そして御井神くらいしかデーターは無い。これでは答えはまだまだ練らないと判らないです。降参です。

今日のところはこの辺にしときます。

 

ではでは。

コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする