諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

山伏は山に対し伏して拝むのではなく、山を調伏する存在ではないだろうか。

2016年11月26日 11時22分19秒 | 神道

今回の御題はただの疑問符だけです。私は修験道の知識が無いので断言出来ません。ただ、そうじゃないかなぁーと思うだけです。そこのところ宜しくです。

さて、修験道といえば役の行者、役の小角です。以前、「瀬織津姫と吽・阿の狛犬」と題して記事を書きました。詳しくはそちらを読んで頂きたいのですが、瀬織津姫は役の行者に付き従っている後鬼だと考えています。水が入った土瓶持っていますし、女鬼だし、出身地が天河弁財天周辺の地だったりしますので。

それは兎も角、何故上記の御題で書いたかと言うと、今日テレビで出羽三山の修験者の修行風景を見たのですが、山伏は「山に伏す」から山伏と言うと言ってました。

私、違うと思います。「山を伏す」、つまり「山を調伏」するから山伏だと思うのです。

理由はこれも前出の「瀬織津姫と吽・阿の狛犬」で書いたかも知れませんが、役の行者の家系とされる加茂氏の祖神・一言主に橋を造らせようとし、橋を造らなかった一言主を封印した。そして瀬織津姫を従者として従えた点に有ります。

神道と密教、修験道は違います。神道は日本古来、密教・修験道は大陸から渡って来た。大陸から渡って来たのだから、信仰を広めるには地主神が邪魔。神道が邪魔になる。だから神道の神々を貶める必要がある。

それには神道の神々を魑魅魍魎や妖怪に落とす。従者に落として密教、修験道、そして仏教の優位性を示す言が必要だからと思うのです。

山は古来からの霊場。山は神が宿る場所。そしてその姿からトグロを巻いた蛇。日本の神は蛇神。その蛇神を押さえつけ調伏する。調伏する事により神の力を利用する。それが密教であり修験道だと思います。だから山伏ま「山に伏す」ではなくて「山を伏す」だと考えます。

だから厳しい修行を続けて精神力を養うのでしょう。なまじっかの人は山の毒気にやられると聞きます。精神力で山、つまりは山神、蛇神を調伏するのだと思いますね。勿論、今の所はですが。

 急にこんな事書いちゃいましたが、昨日テレビで出羽三山の修験道の特集をしていまして、「山に付して拝むから山伏」と言う旨説明していましたので、それは否ことと思い書いちゃいました。

私は精神力なんて無いし、山神を調伏なんて罰当たりな事したくないので、神道のに従い奉りたいと思います。

 

ではでは。

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする